相対悪、絶対悪

 相対悪、絶対悪それ自体をテーマにした作品も数多くあるので、この言葉を耳にしたことのある読者様も多いことかと思います。

 筆者の結論を先に述べてしまうと、相対悪とは現実の正義感を取り扱ったもの、そして絶対悪とは物語を簡易にするために生み出された発明(筆者はガジェットと呼んでいます)であると考えています。

 まず相対悪について。正義だとか悪だといった言葉は存在しますが、これは○○は正義、××は悪である、と決められるものではありません。正義、悪とはコインの裏表のように物事は一つなのにも関わらず、それを主観的に捉えるときの見えている面の呼び方でしかないのです。

 現実には自分を悪だと思って争う人はまずいません。誰もが自分の主張は理にかなっており、相手の理を折ってまでも通すだけの価値があるものと信じて争いをしています。これは戦争や裁判、あるいは子供のケンカを例にとってみると分かりやすいかもしれません。そして争いの結果、勝った方の理を正義、負けた方を悪と呼んでいるのです。これは歴史を作るのがしばしば生き残ったほう、つまり正義側であることが原因です。どこかの物語で語られていましたが、正義が勝つのではなく、勝った方が正義なのです。

 物語上で現実の善悪を取り扱おうとするならば、そのままでは必然と相対悪になります(現実がそうなのですから)。なのでこれを表すためには物事そのもの、正義側の主張、悪側の主張の3つを表現する必要があるのです。これをすべて表現することはそれなりに煩雑です(一方で物語を奥深いものにするので、必ずしも悪いものではないですが)。そこで生み出された(のかは分かりませんが)のが絶対悪という考え方です。

 絶対悪では正義側、悪側の主張を必要とはしません。○○は正義である、を自明の理として物事そのものと捉える考え方です。悪側も自分は悪いことをしている自覚があり、自明の理である正義に真っ向から対立するスタンスをとっています。その立場をとる理由も特に必要としません。

 こうして書くと絶対悪とはひどく非現実的でいびつな存在のように思えます。しかし私は、絶対悪とは現実から「悪」という概念を上手くモデル化して切り取ってきた偉大な発明だと感じるのです。

 絶対悪は物語を簡易化する非常に大きなメリットがあります。その代表例が勧善懲悪型シナリオであり、「キャラクター論:登場人物のロール」で述べたように最小人数でのロールで紡ぐことができるのがその証左といえるでしょう。

 また推論の域を出ませんが、絶対悪であることは少年誌(少年向けマンガ)である条件の一つに入るように思えます。これは少年マンガが他(大人向け、少女向け)に比べ人間関係に焦点を合わせていないためなのですが、これについてはまたの機会に語ることにします。

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捨十郎の所論 捨 十郎 @stejulon

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