映画館で君と

奔埜しおり

バイトに勤しむ

『三番、幕間写ってます』

「了解です」

 右耳に入れたイヤホンから聞き慣れた低音が報告をする。それに返事をして、目の前にある表にチェックを入れる。ふと前を向けば、ポップコーンを買う男女の二人組がいた。

 その二人をうらやましいな、と眺めていたら、後ろから足音。振り向くと佐原さんがいた。佐原さんは私と目が合うと、両手に持った箒とちりとりを、ずいっと前に出してくる。

「……なんですか」

「二番の清掃完了」

「その手は?」

「これやるよ」

「いらないです」

「クリスマスプレゼント」

「それ、ここの備品ですからね」

「俺の物は俺の物、この映画館の物も俺の物」

「どこのガキ大将ですか、それは」

「映画館のガキ大将」

「なんだかすごくしょぼいですよ、それ」

 そのまま言い合いを続けるが、一向に動こうとしない佐原さんにため息を一つ。そして仕方なくその掃除用具たちを受け取る。少しだけ触れた指先に、胸が小さく音を立てる。顔が赤くなりそうになったのを、小さく首を振って降り飛ばしてから、私は机の隣にある腰くらいの高さまでしかない小さな棚に掃除用具たちを引っ掛ける。

 そして、机の上にある表を見ながら自分の持っている紙になにかを書き写している佐原さんの隣に立つ。ひょいっと手元を覗いて見ると、少しだけ佐原さんが私とは逆の方向に身体を動かしてくれる。どうやら書き写していたのは各シアターの動員数のようだ。

「……少ねぇ」

「ですよね……」

 今日は十二月二十四日の土曜日。金曜日や土曜日はたいてい、新しい映画の始まる日だ。その上今日は年に一度のクリスマスイブ。クリスマスと言えば恋人たちがデートする日。映画館なんて、すごくいいデート場所だ。それなのに多いところでも動員数が二十人までいかない。動員数が零のところもある。

 今日はリア充どもがたくさん押し寄せてくるだろう。そしたら忙しくなるはず。だから心身ともに絶対に屈しないぞ、と意気込んで出勤した私は、肩透かしを喰らった気分だ。今の時間は午後八時。今日最後の映画の上映開始まであと一時間とちょっと。世の中で騒がれるくらいの人気作でもない限り、この時間は普段でもあまり混まない。そのせいかとも思ったが、表の動員数の部分を見てみると、やっぱり朝からいつもよりも少ない人数が続いている。

「ま、しょうがねぇか。今日はイブだし、最近近所に出来たカクヨム映画館に客は流れてるし」

 書き終わったのか、ボールペンをウェストバックに入れながら、佐原さんがため息交じりに言う。その言葉に、なるほど、と私は頷く。

「あそこの映画館凄いですもんね。一つ一つのシアターもロビーもカフェコーナーも広いし、やってる本数多いし、コンセッションのメニューも豊富ですし……」

 チケット代はそんなに変わらないのにカクヨム映画館のほうがいいところが多すぎて、ここ数ヶ月でこの映画館の客数は激減していた。代わりに向こう側の映画館は凄い客数だ。つい最近、大好きな歌手が主題歌を歌う映画がそのカクヨム映画館で公開されると聞き、公開日に観に行ったことがある。昼から出勤だったために朝早い時間に言ったのだが、それにも関わらず、ざわざわと人でにぎわっていたのが印象的だった。こっちの映画館ではそんなこと、長期連休中やお盆でしかあまりお目にかかることのないにぎやかさである。

 それでも昔からのお客さんは、客数が減った分静かに映画を楽しめる、とこの映画館に通ってくださっている。……少し複雑だけれども。

 比較的気楽なアルバイトの身としては、お客さんが少なければそれだけ仕事が楽なのでいいのだが、うんうん唸っている社員さんたちを見ていると不安にもなってくる。

「それでもイブって混むイメージがあったんですけど、そうでもないんですね」

 言った瞬間、佐原さんに鼻で笑われた。流石にカチンとくる。

「鼻で笑うことないじゃないですか」

「いや……今どきイブに映画館でデート、なんて少ないぞ? あっても金のない中高生くらい」

「え、そうなんですか!?」

 いやでもお金が無いとはいえ、映画館のチケット代はお小遣いの少ない中高生にとっては高いはずだ。あ、だからこういう特別なときに使うのか。

「でも、前やった少女漫画の実写映画はすごく人来てたじゃないですか」

 人数も凄ければ、それに比例するように劇場内の床に散らばるポップコーンの量も凄かった。なにか争い事でも起きたのかと思うほど。まるでポップコーンの海。人数が多いのだからしょうがないのだが、あれを十分以内で片付けて元に戻して新しいお客さんを入れられる状態にするのは、地味にハードだった。ちなみにその十分のうちには、作品のエンドロールを見終わったお客様が退室される時間も含まれている。

「お前な。今上映してる作品、わかるか? 一ヶ月くらい前から上映してる子供向けアニメと大人向けの洋画に邦画。そこそこの人数が来るであろうと思っていた先週公開の漫画原作の実写映画が、唯一の中高生向け。公開してから三日間くらいは確かに混んだ。だけど、まあだいたい見ちまったか、向こうに行ってるかじゃねぇか?」

「……なるほど」

 確かに表を見てみると、大人向けが多い。だが大人でクリスマスにデートと言えば、映画館ではなくお高いところでのお食事、というイメージ……。うらやましい、じゃなくて。だからこんなにも空いているのか。

「わかったら、ほら、次四番の清掃」

「……今日出勤してきたとき、佐原さん、中がいいって言いましたよね?」

 ここの映画館では役割分担があって、それぞれその日によって役割が振られている。ポップコーンなどの飲食を担当するコンセッションや、チケット販売を行うボックス、パンフレットやグッズなどの販売を行うストア、そして劇場内の案内やチケットをもぎるフロアの四つの役割分担に振られるのだ。

 今日は私と佐原さんがフロアに割り振られていた。アナウンスを読むのが得意な私と、なんでも容量よくテキパキとこなしていく佐原さん。出勤前の朝礼後、どっちがもぎりでどっちがシアターに回るか、なんてほとんど暗黙の了解に近い。だけど今日は、佐原さん本人が、わざわざ、絶対暇だからシアターがいいと言ってきたのだ。言われた直後はキョトンとした私だが、ポップコーンの海と格闘しなくてもいい、ということに気がつくと、強く頷いていた。

 代わりに暇すぎて睡魔と戦うことになってしまったのだが。

「疲れたんだよ、後輩は黙ってはいって言っておけ」

「出勤してからまだ三時間しか経ってないですよね? それで疲れるって――あ、いらっしゃいませ」

 ちょうどやってきた男女二人組に挨拶をする。先ほどポップコーンを買っていた人たちだ。男性が片手でポップコーン一つとジュース二つが載ったトレイを持っていて、女性がトレイに載らなかった分のポップコーンを持っている。男性からチケットを二枚受け取る。タイトルと上映時間を確認。問題なし。ピリッと千切る。

「三番シアターです。ごゆっくりどうぞー」

 男性と女性が柔らかく微笑んで会釈する。なんとなく雰囲気が似ている。歩き出すタイミングが同じで息もピッタリ。長年一緒にいたような、そんな空気感。

「いいですね、カップル――」

「あれ、どう見てもまだ付き合ってねぇだろ」

「え、でも」

 クリスマスイブ、映画館、男女二人組。このキーワードで付き合ってないって、どういうことだ。しかも息もピッタリなのに。

「恋人というには、少しだけ距離があいてるっていうか、甘さがないっていうか……。あの距離感と空気感は友人。……っていうのを、舞台演技の先生から習った」

「あ、そっか。佐原さん演技系の専門学校なんでしたっけ?」

 佐原さんが頷く。

「あとは、男のほうのトレイに二枚のレシート。個数から考えて、自分の分は自分で出してるんだろう。ただ、こういう勘違いされそうな日に二人きりで行動してるってことは、お互いか、片方が意識をしているのか、それともそれに慣れてしまうくらい、仲が良くていつも行動を共にしているのかって感じじゃないか」

「う、うわあ……すごい見てるんですね」

「人間観察も勉強のうちだからな」

 佐原さんは年上で、四年生の大学を出てから今は演技系の専門学校で演技の勉強をしているらしい。そっちのほうではだいぶ真面目なようで、たまにすごく人を観察している。

 私はと言うと、大学に行く気になれず、高校だけはなんとか卒業してただいま絶賛フリーター中。将来の夢はある。シンガーソングライターだ。だけど上京するにはお金が足りなくて、今はボーカルスクールに通いつつ、バイトをして貯金をしている最中。最近は、面倒を見てくれている先生が主催するライブにちょこちょこ出させてもらっている。実は明日の夕方頃からのライブにも参加予定だったりする。出演するのはMC込みで三十分程度。今回は初めて誰かへの思いを込めて作ったオリジナルの歌を歌う。もちろん曲も、詞も、自作だ。もしも時間が空いてたら一番歌が届いてほしい本人である佐原さんにチケットを渡したいなぁ、なんて思いつつ、でも断られたら、しかもその理由がもう相手がいるとかだったら嫌だな、と悶々と悩み続けて気が付けば前日。やってしまった、今更言ってももう無理かも。どうしたものか、本当に。

「ほら、四番――」

「はいはいわかりました仰せのままに」

 早口で言うと、私は掃除用具を持って四番シアターへと歩き出す。チラリと腕時計を見る。四番シアターの上映終了から次の上映開始まで二十分ある。じゃあ掃除が終わったら三番の予告確認して、二番の本編を確認して……。

 そんな風に頭の中でこれからやることを、暗記した表を思い出しながら組み立てていたら、同じスタッフの男の子が向こうから歩いてくるのが見えた。四番シアターの近くにはお手洗いがあるから、その確認をしてきたのかもしれない。あとで私もしておかないとな、と考えながら、少しだけ左側に寄って右側から来た男の子と距離を取る。

「お疲れさまー」

「お疲れ様です」

 お互いに挨拶をしてすれ違う。それからすぐに四番シアターに着いた。

 重たい扉を片方だけ開く。まだシアター内からは台詞が聞こえてくる。内容からして恐らく、あと一言二言でエンドロール。うん、入った。四番シアターって、動員数何人だっけ? 確か、一人だけだったはず。ビール片手に入っていったおじさん、だったかな。

 普段は印象に残るようなお客さんや常連さんしか覚えていないけど、これだけ全体の人数が少なければ、どのお客さんがどの映画を見ているか、ついつい覚えてしまう。

 エンドロールが終わり、消えていた非常灯と通路の明かりがつく。耳をすませる。だが、足音も、立ち上がる音も聞こえない。

 もしかしたら、もう出てしまったのかもしれない。最後の方で、エンドロールに入る前に結末を見ずに出ていく人も珍しくはない。そう思って頷くと、私は掃除用具を握りしめて中に入った。

 通路は特に汚れておらず、電球がちゃんとついているか確認しながら歩く。曲がり角を曲がって座席を見た瞬間、思わずため息。おじさんは、寝ていた。しかも気持ちよさそうに。

 眠っているお客さんは、よくいるわけではないが全くいないわけでもない。月に一、二回見かける。特にサラリーマンであろう方は、日頃の疲れが溜まっているのか、気持ちよさそうに眠っていることが多々ある。私はおじさんの座っている座席まで歩くと、目の前に立つ。肘置きにある窪みには、空になったカップ。

「お客様、どうされました?」

 いや、どうって寝てるんだろうけどさ。マニュアルだからしょうがないんだ。なんて脳内で突っ込む。

「お客様、具合が悪いようでしたら、係りの者をお呼びしますが……」

「すー……」

 応答無し。

 あまり他人に触れるのは得意ではないけど、しょうがない。握りしめていた掃除用具を前の座席の背もたれに立てかけてから、おじさんの両肩を軽く叩く。

「お客様ー?」

「んん……すー……」

 今度は両肩を握って揺すってみる。

「お客様ー!」

「すー……んぐぁ、すー……」

 どうしたものか。困り果ててインカムのスイッチを押す。

「すみません、社員の方取れますか?」

 少しの間。もう一度インカムを握る指に力を入れかけたとき、右耳のイヤホンから音が入る。

『ごめん。今電話でお客様対応中。緊急?』

「どちらかといえば。あの、男性のお客様が寝てしまっていて、どれだけ起こしても起きてくれないんです」

『息は?』

「してます。思いっきり寝息です」

『あー、うん、了解。佐原、なんとかしといて。それじゃ』

 プツッと通信が終わる。すぐに音が入る。

『どこだよ?』

 佐原さんの声だ。しかもあまり機嫌がよろしくない。ただでさえ低い声が、さらに低くなっている。おおかた、めんどくさいことに巻き込まれたとでも思っているのだろう。

「四番シアターです」

『了解。んじゃあ、もぎり代わって』

「了解です」

 私はひとまず掃除用具を持つと、もう一度だけおじさんに声をかけて反応が寝息だけなのを確認してから、シアターを出た。


 もぎりの場所まで戻ると、相変わらずの仏頂面がそこにいた。

「佐原さ――」

「行ってくる」

 私の言葉を遮って、佐原さんはすれ違いざまに少しだけ私の頭をポンポンと撫でると、掃除用具を奪うように私の手からもぎ取っていく。振り向くと早足で角を曲がる佐原さんの大きな背中が見えた。

「び……っくりしたぁ」

 ――ごめんな。

 頭を撫でられたとき。イヤホンをしていない左耳に囁かれた言葉。

 心臓がすごい勢いで脈を打つ。強引に言葉を遮って、私の手から掃除用具を持っていったのは、照れ隠し、だったりして。なんて柄にもなく自意識過剰になってみる。

 確かに元はと言えば急に担当変われなんて言った佐原さんのせいではあるのだが。別に謝られるようなことでもない。むしろ戻ってきたら頭を撫でられて、耳元で囁かれて……ああ、今日は幸せな眠りにつける。絶対に。あのおじさんが眠っていてくれたおかげだ。おじさん、ありがとう。でも、帰りは寝ないようにね、なんて脳内で呟く。

 しばらくして、駆け足でおじさんは出ていった。

『四番、清掃完了』

「了解です……ありがとうございます」

『……』

 何か言うような間を置いてから、インカムが切れる。

 大きな足音に振り返れば、佐原さんが駆け足で三番シアターに入っていくところだった。

「あーりゃりゃ。あれ、カメラに映ってたらまーたあとから支配人に怒られるぞー」

 横を見ると、コンセッション担当の先輩がいた。さっきまで暇だから、とロビーを掃除していたはずだ。ちなみに先輩とは同じ高校でそのときからの付き合いなので癖で先輩と呼んでしまう。

「そうですね」

 駆け足なんて、接客業ではたいてい厳禁だ。理由は多々あるけれど、そのうちの一つとして、お客さんとぶつかってしまうから、ということがある。その上に、ここは映画館で、できるだけ映画に集中してほしいのに足音でそれが妨げられる、なんてことはあってはならない。まあ、たぶん時間的に予告が始まってからそれなりの時間が経っているはずなので、終わるか否か、という時間だからだろう。

 予告が終わってしまって本編に入ってしまえば、予告が正常に映っているかの確認はできない。もしも予告の段階で異常があったことに気が付かず、そのまま本編もその状態で上映されてしまえば問題だ。だから急いでいるのだろう。

「ふふ、まあ、面白いもん見れたからいいけど」

「え」

「いやあ、美香ちゃんがあんな表情で佐原を見る日が来るなんて」

「……どんな顔だったんですか」

 ニヤッと先輩は笑う。

「ほわぁっとしててね。恋する乙女って感じ。あ、いつもか」

「ちょっ、そんなはず――」

「やーん。もう、お姉さんそんなピュアピュア応援しちゃうわー」

 あははっと笑いながら、先輩はコンセッションへと戻っていく。どうやら言いたいことはそれだけだったようだ。ついでに掃除も終わったみたい。

「ピュアピュアって……」

 そんな顔してたのだろうか。

 自分が人よりもそういった感情がどうやらバレやすいらしいことは自覚している。……もしかして佐原さんにもバレているのだろうか?

 今まで考えたことがなかったけど、もしもバレていたらどうしよう――。

「もしもーし」

「どひゃあっ!?」

 真後ろから聞こえてきた声に、思わず飛び上がる。恐る恐る振り向くと、目を大きく見開いた佐原さんがいた。

「驚かせんなよ……」

「さ、佐原さんこそ……」

 いろんな意味で心臓がバクバクと脈打っている。はっきり言って少し痛い、というか苦しい。

「いや、インカムでの報告に反応なかったから、わざわざここまで来たんだけど」

 視線を感じてチラリとコンセッションを見ると、さっきの先輩がグッと親指を上げてこちらを見ている。グッ! じゃない。誰の言葉のせいで……ってそうじゃない。

「反応しなくてすみません、イヤホン外してました」

「お前今つけてんじゃん」

「……あー、音量ゼロでした」

「本体見ずによくわかるな」

「……」

 なんか墓穴掘った気がする。これ以上穴が大きくなる前に、この話を切り上げよう。

「なにの報告か訊いても大丈夫ですか?」

「二番、三番、本編オーケー」

 結局三番は予告の確認が間に合わなかったのか。それとも予告には間に合ったがそのまま本編が始まったのか。とりあえず本編に異常はなかったようなので、問題はない。結果論だけど。

「わかりました。四番の幕間はもう少しですね。一番の清掃もあと七分後で――」

「お前なぁ。そんくらいは自分で見る」

 言われて初めて、話を終わらせようと自分ばっかり色々と言っていたことに気がつく。

「あ、すみません。そうですよね……」

 ああ、私ってば何をやってるんだろう。

「悪かった」

「え?」

 突然の謝罪に首を傾げる。

「さっきの、四番のやつ。俺が変わらなきゃよかった」

「いや、全然大丈夫ですよ? ていうか、謝られるようなことでもないですし、むしろお手数おかけしてしまって、私の方が――」

「お前、異性苦手だろ」

 突然の言葉に、思わず目を丸くする。

「ま、まあ……一般的な程度には。でも、どうして――」

「だってお前、同性だと距離近いのに男性だと一歩後ろに下がるからさ」

 意識したことがなかっただけに、指摘されて驚いた。でも考えてみれば、確かに反射的に少しだけ避けてしまうときはある。

「私もしかして、佐原さんのことも、避けてましたか?」

 もしもそうだとしたら。不安が募っていく。

「いやその逆。同性と同じくらいの距離。だから、俺だけちょっと親しく見られてんのかな、と思って嬉しく思ってたし、でもそういう対象としては見られてないんだなって思って、ちょっと、かなし……」

 佐原さんの顔が赤くなっていく。同時に続くであろう言葉から導き出される言葉に期待が募って、私の顔も赤く染め上げていく。

「だぁ!」

「ええっ!?」

 だけど突然の大声に、ビクッと肩を震わせてしまう。

「今のなしなし。とにかく、苦手な異性を起こさせたりとか、頭、撫でたりとかして悪かったなって、それだけ! それじゃ、四番見てくる!」

 いや、佐原さん四番シアターのお客さんが男性だなんて知らなかったでしょう。だから仕方ないし、それに四番の幕間が始まるよりも先に、一番の上映がそろそろ終わるからお客さんが出てくるかもしれないので一番のドアを片方だけ開けておいてほしい。って、そうじゃない。いや、仕事的にはそうなんだけども、ちょっと待って、これってチャンスなんじゃ――。

「佐原さん!」

 急いで私は、背中を向けた佐原さんの制服のポロシャツを掴む。佐原さんが驚いた表情で振り向く。

「なんだよ」

「あの……明日、私、ライブあるんです」

 我ながら、今言う言葉か、なんて脳内で突っ込みを入れる。だけど、度胸のない私はこの思いっきり慌てている佐原さん相手じゃないと、きっと正面切って言えない。

「お、おう」

「悪かったって言うのなら、予定が合えばでいいので、その……み、見に来てもらえませんか?」

 心臓がうるさい。お願いだから今は静かにしてほしい。少しだけ、距離が近いのだから、聞こえてしまうかもしれない。

「……別にいいけど」

 佐原さんが、顔をそらしてボソッと返す。よかった。ただただ安心して、自然と笑みが浮かぶ。

「あの、明日のライブはいつものと違って。いつもは他の方の曲を歌わせていただいているんですけど、今回はオリジナルも歌うことになっていて。それでとある人への思いを綴った歌を歌うんです。ぜひそれを聴いて欲しくて」

 第一関門を突破できたから、だろうか。きっと言えない、だから言わないでおこう、なんて思っていた事柄を、ついつい言ってしまう。

「え、なに。お前、作詞とかできるの?」

 佐原さんが振り向く。その顔は意外だと言いたげだ。

 私は頷く。

「作曲も……少しは、ですけど」

 そこまで言って、ハッとする。これはもしかして、チャンスなんじゃ。

 人間、安心するとどうやらなんでも言えるようになるみたいだ。言おう、言うんだ。このままじゃ、そこそこよく話すバイト先の後輩で終わるかもしれない。だけど、少しでも佐原さんに意識してもらえるのなら。これがその第一歩になるのなら。

 いけ、美香。一生分の勇気をここで使い果たしてしまえ。

「なのでその、ぜひそのあと、その歌の感想を聞きたくて、なので、お食事でもいかがでしょうか!」

 最後は半ばやけになって言う。しばらくの沈黙の後、上からは笑い声が降ってきた。

「いいよ、明日楽しみにしてる」

 佐原さんはやんわりと私の手を自分のポロシャツからはがす。こんな優しい動作ができる人なのか、と少しだけ驚く。そういえば、さっき頭を撫でた手も、同じくらい優しくて、そして今触れたのと同じくらい温かかった。

 佐原さんはそのまま四番シアターへと歩いていった。

「いやあ、あんまいねぇ」

「ひゃっ!?」

 至近距離からの声に、今度は飛び退く。振り向くと先輩がいた。

「せせせ、先輩! いつの間に――」

「いやぁ。いちゃいちゃじゃなくて仕事しろ、とか、劇場内で大声出すな、とかっていつ突っ込もうかと悩んでたんだよねぇ」

「ごめんなさい」

 確かに、仕事中の行動ではなかったので、素直に謝る。

「それで結局突っ込むのはいつになったんですか」

「うぬぬ。佐原の赤面とかいうレアな物見たら、このまま眺めてた方が楽しいな、という結論に……」

「先輩って覗き魔ですか? 家政婦なんですか?」

「家政婦は見た! 佐原の赤面を! てか? いやあ、身内でしか売れないねぇ、その見出しじゃあ」

「身内でしか売らないでください」

 というか、なにを売る気だ、なにを。

「まあ、明日頑張んなさいな」

 先輩はそう言うと、ヒラヒラと手を振ってコンセッションへと戻っていく。

『四番、幕間写ってます』

「了解です」

 右耳に入れたイヤホンから聞こえた声に、返事をした。表にチェックを入れながら、仕事が終わったあとのことを考える。

 帰り、着替えたら佐原さんにチケットを渡そう。そのあとは駅まで歩きながらライブのあとについて、詳細を決めて、それから、それから……。

 これからの時間への期待と緊張で変な顔になっていたらしいことを、戻ってきた佐原さんに注意されるのは、また別の話。

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