第4話 いつもの道(終)
旅人が歌い終わるや否や、その場は拍手の嵐に包まれた。指笛を鳴らす者までいる。
そしてみな、自分達の受けた感動を少しでも旅人に伝えようと、口々に叫びだした。叫びだしたものだから、場は再び騒然となった。
思ってもみなかった反応なのだろう、乗客たちの喝采と熱狂振りに呑まれ、旅人は少しばかりたじろいでいた。例によって頭をかきながら、それでも迷惑そうな顔など欠片も見せず、にこにこと笑っている。
その笑顔に調子付いた者がいた。バイ婆さんだ。
今日はうちに泊まっていくといい、婆さんは、突如そう言い出したのだ。旅人の腕をぐいぐいと引っ張ると、うちにおいで、おいしいものをご馳走してやるよと、勧誘に走り始める。
婆さんの勢いに気圧されたのだろう、旅人は今ひとつ状況をよく理解しないまま、首を傾げつつも頷いてしまった。
――ああ、あの日本人、今日は婆さんの家で散々に歌わされる羽目になるな。
少しばかり彼に同情を寄せながらアクセルを踏み続けていると、前方にメーラーオの村が見えてきた。おりしも、バイ婆さんの家がある村だ。ゆっくりとハンドルを切ると僕は、村の名を刻んだ柱の前にバスを横付けにした。きぃっと音を立てて、車体が微かにきしむ。
サイドブレーキをかけると、僕は運転席から乗客たちの方を振り返り、婆さんの名を呼んだ。
しかし後部座席付近は依然として騒々しいために、誰も僕の声など耳に届いていない。やれやれと、僕は溜息をついた。もう一度、今度は少し声を大きくして婆さんの名を呼ぶ。ようやく誰かがそれに気付き、婆さんの袖を引いて村に着いたことを伝えた。
婆さんはひょこりと顔を上げると、車窓の外を見やり、そしてあっと声を上げた。かと思うと、その老体のどこにそれだけの俊敏さがあるのかと疑いたくなるほどの速さで、傍らにあった自分の風呂敷を引き寄せると、旅人の腕を強引に引っ張って彼をバス前方のタラップへと導いた。自分よりもはるかに小柄な婆さんに手を引かれることで、旅人はかなりの前傾姿勢のまま、不安定によたよたとバス車内を前に進む。
「えっ、あっ? 降りるの? ここで降りるの? ――って、ちょっと、荷物! お、オレの荷物!」
半ば婆さんに引きずられながらも、旅人は困惑顔で後部座席を振り返り、何事か叫んでいる。それに応えるかのように、プ・ワンのオヤジが彼のリュックサックを片手で持ち上げた。忘れ物だぞ、と低く笑ってから婆さんを呼び止め、それから旅人に荷物を手渡す。あたふたしながらもそれを受け取った旅人は、ほっと安堵の表情を見せた。そして改めて、婆さんに導かれるがままにバス前方の降り口へと進む。
そのまますんなりと下車するのかと思いきや、旅人はタラップのところで立ち止まり、こちらを振り返った。どうしたのだろう、やはり体の具合が悪いのだろうか。そう思っていると、彼はおもむろに自分のジーンズのポケットに手を突っ込み、そして何かを取り出した。掌の上に現れたのは、数枚の硬貨と、くしゃくしゃに折りたたまれた紙幣。彼はそれを不慣れな手つきでより分けながら、その結果に、なんとも情けない表情で僕の方を見た。彼の手の中でより分けられていたのは、6枚分のバーツ硬貨。残りは隣国のチャット紙幣だ。
6バーツ。屋台のヌードルすら食べられないような金額だ。
行き倒れていた人間から運賃を取ってやろうなどとは、僕も最初から考えていない。気にするなという意味で軽く手を振ると、旅人は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。日本人は礼儀正しいというのは、どうやら本当らしい。
しかし旅人は、それでもすぐに下車しようとはしない。「あー」だとか「うー」だとか唸りながら、眉間にしわを寄せて首を傾げる。どうしたのだ。まだ、何かあるのか?
僕が不思議そうに見守っていると、旅人は突如、ぱっと顔を輝かせた。そしてしっかりと僕の方を見ると、にぃっと笑った。先ほどまでバックミラー越しに眺めていた笑顔が、目の前にある。
「コップン・カー」
笑顔を崩さないまま、旅人は、確かにそう言った。
驚いた。僕は思わず、きょとんとした顔で旅人を見つめる。「ありがとう」――、発音は頼りなげだったけれども、彼は確かに、この国の言葉でそう言ったのだ。首をかしげ、眉根を寄せながら、恐らくは彼が唯一つ知っているこの国の言葉を、一生懸命に思い出してくれたのだ。
僕がぱちぱちと目を瞬かせていると、彼は今度は少し恥ずかしそうに笑い、そして僕に手を振ってタラップを降りていった。
バイ婆さんの隣に降り立つと、婆さんの荷物を代わりに抱えてやる。背中には例の大きなリュックサック、空いた両腕には婆さんの風呂敷包みという姿で、再びこちらを振り返った。そして、手を振る代わりに、またもや頭を下げる。
そんな彼を見ると、自然と口元も緩む。微かに苦笑を浮かべたまま、僕は軽く手を上げて彼に応える。そしてフロントガラスの方に視線を戻すと、ギアを入れ替え、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。それにあわせてエンジンが緩やかな唸りを上げ、バスもゆっくりと動き出す。
バスが進むにつれ、サイドミラーに映る旅人と婆さんの姿が小さくなってゆく。バス車内の乗客たちも、みな後部座席に張り付いたまま、後ろを振り返って旅人に手を振る。
しばらく経って旅人と婆さんが村の方へと回れ右をしたのを確認すると、僕は今度こそハンドルへと意識を集中させた。乗客たちも座席の上にきちんと座りなおす。
そしてまた、バス車内はいつもの面子へと戻った。
相変わらず、窓の外から入ってくる風は中途半端にぬるい。みな、今さら思い出したように扇子や手ぬぐいを取り出し、ぱたぱたと動かす。これもまた、いつもの光景。
しかしあの旅人が残していった非日常の余韻は、まだ車内に漂っている。皆もそう思っているのか、黙って座席に深く体を沈めながらも、その表情にいつもの倦怠感は見られない。
僕は、進行方向を見つめた。
いつものバス、いつもの乗客、いつものバスルート――そして、そこに現れた、いつもと違う乗客。
こんな一日も、たまにはいいかもしれない。
(了)
旅人 オガタチヨ @ms_ogacho
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