第3話 意思疎通

 旅人が目を覚ましたのは、現場から走り去って5分と経たない頃のことだった。

 突如背後の客席から歓声が上がったので、何事かと、僕はバックミラーで後ろの様子を確かめる。鏡の中には、最後尾の座席でむくりと起き上がる旅人の姿が映っていた。彼はきょろきょろとバス車内を見渡し、自分の置かれている状況を確認している。とりあえず生きてはいるようだ。僕は安堵し、再び視線をフロントガラスの方へと向けた。

 背後では、バイ婆さんをはじめとする乗客の皆が、旅人に対して矢継ぎ早に質問を投げかけている。どこから来たのか、何故あんなところで倒れていたのか、腹は減っていないか、などなどなど。

 しかし旅人である彼に、この国の言葉など通じるはずもない。

 僕は進行方向を気にしながらも、バックミラーを介してちらちらと客席の様子を窺った。旅人は困ったような顔で笑いながら、口を開く。

「えー…と、ウェア・イズ・ヒア?」

 聞いたこともない言葉だった。乗客のみなも、首を傾げてめいめいに顔を見合わせる。

 しかしそれも仕方のないことだ。もともとこの国における外国語の普及率は低い。首都圏の方ならまだしも、このあたりの田舎の地域では外国語を学ぶことの必要性が皆無なのだから、なおさらのことである。地域によっては、首都圏の人間すら理解不可能な方言がいまだに使われているところもあるくらいだ。

 そういうことなので、旅人の発した外国語らしき言葉を、僕も含めてバス車内の人間は誰も理解することができなかった。

 旅人もそれを察したのか、ますます困ったような顔で頭を掻いている。

 かと思うと、突如ぽんと手を叩き、例の大きなリュックサックの中をまさぐり始めた。彼のその一挙手一投足を、乗客たちの、好奇に満ちた目が追う。

 やがて旅人は1冊の本を取り出した。そしてあるページを開くと、周囲の乗客たちに見せて指で示す。僕もちらりと確認したところ、それはどうやら一枚の折り込み地図のようだった。

 旅人はその地図の中のある一箇所を指し、同意を求めるかのように、乗客たちを見回す。しかし誰も彼の意図することが理解できず、またもや首を傾げる。旅人は、今度は別の場所を指差し、そして再び乗客の顔を次々に見やる。今度も反応がないので、また別の場所を指差す。それを何度か繰り返す。

 ――地図?

 僕もハンドルを握りながら、首を傾げた。地図とあの旅人、どんな関係が……。

 あ。

 深く考える必要は何もなかった。彼は、自分が今どこにいるのかを知りたがっているのだ。彼が根気強く指し示しているのは、きっとこの国の地図だろう。

 しかし。

 残念なことにここいらの地域の人間は、地図を読むこともあまり得意ではない。なぜなら、これも外国語教育同様に、生活にさして必要のないことだからだ。限られた地域の中で暮らしてゆくだけなら、地図という道具を使わなくても、自分の記憶と経験を頼りにすれば充分に事足りる。

 そういうことなので、たとえ彼の意図することを理解できたところで、誰も彼に現在位置を教えてやることはできないのだ。

 と、思っていたのだが。

 ここだ、という低い声が、後ろから聞こえてきた。

 おや、と思ってミラーに目をやると、プ・ワンのオヤジが旅人の地図を指差している姿が確認できた。ああそうだった。オヤジは確か、退役軍人だ。彼なら地図を読むことくらい造作ない。

 旅人はオヤジの指差した場所をしげしげと眺め、そしてつたない発音で 「メー…、ラー、オ?」

 と呟いた。

 メーラーオ。次のバス停がある町の名だ。

 旅人のその言葉を受け、オヤジはむっつりと押し黙ったまま頷いた。それにあわせて他の乗客も、メーラーオの名を連呼する。旅人と乗客たちの間に、初めての意思疎通が生まれた。

「メーラーオ」

 再び呟くと、旅人は乗客たちをぐるりと見回し、そしてにっこりと笑った。日焼けた肌に、白い歯がのぞく。相好を崩したその様子は、かなり幼く見えた。僕より年下なのかもしれない。

 その彼は、今度は自分自身を指差し、

「ジャパン」

 と一言。

 ジャパン。――ああ、ジャパンか。それなら知ってる。このバスだって……。

 僕が考えを巡らせていると、乗客の一人が勢いよく叫んだ。

「トヨタ!!」

 そう、トヨタ。このバスだって、確かトヨタの中古車を使い回している。トヨタの本場は、ジャパン――すなわちニッポンだ。この若き旅人は、ニッポンからやってきたのか。

 ジャパンの意味が伝わったのが嬉しいのか、旅人は大きく手を叩いて喜ぶ。トヨタの名を口にした若い乗客の方を向き、しきりに頷いている。

「そう、トヨタ、トヨタ!!」

 すると今度は別の乗客から声が上がった。

「キャノン!」

「セイコー!」

 それにも、旅人は嬉しそうに頷く。

 乗客のみなも、自分たちの知っている単語と目の前の旅人の関係が繋がったことで、一種の安堵感を覚えたようだ。妙に熱を入れながら、知っている限りの日本企業の名前や、テレビで聞き知ったことのある日本文化などを挙げてゆく。そのたびに、旅人も嬉しそうに頷いた。

 バスの後部座席付近は、たちまちのうちに連帯感に包まれる。

 バイ婆さんも、プ・ワンのオヤジも、サトウキビ農家の長男坊も、赤子を抱いた若い母親も、みんながみんな、旅人を取り囲んでの歓談に加わってゆく。

 やいのやいのと賑やかな中、バイ婆さんが旅人に対し、ニッポンの歌を歌ってくれとせがんだ。しかし当然のことながら、彼に婆さんの話す言葉を理解することはできない。彼が困ったように首を傾げる様子を見て、婆さんは、まぁ見てなさいと得意げに胸を張った。そしてひとつ咳払いをすると、このあたりでは有名な民謡を歌い始めた。

 婆さんのしわがれた声に乗せて、水牛がどうだとか田植えがどうだとかいう内容の歌詞が、バス車内に響き渡る。

 僕はこっそりと苦笑した。

 これでも娘時代はメーラーオの歌姫と呼ばれていた――、婆さんが常からそう言ってたのを思い出したからだ。歌姫。まあ、かつてはその声も美しかったのかも、しれない。

 旅人は婆さんの歌声をおとなしく聴きながら、にこにこしている。そして婆さんが歌い終わると、その大きな掌を叩いて婆さんに喝采を送った。他の乗客も、彼につられて婆さんを持ち上げる始末だ。

 婆さんは少なからずいい気分になったようで、今度はあんたの番だよと、旅人をせっつく。さすがに彼も婆さんの言わんとしていることを理解し、笑顔のままで頷いた。

 しばし思案してから、彼は少し照れくさそうに周囲を見渡した。僕の位置からははっきりとは見えないが、乗客はみな、期待のこもった眼差しで彼を見つめていることだろう。その眼差しに応えるべく、彼はしゃんと背筋を伸ばし、軽く息を吸い込んだ。

 そして流れ出す、異国の歌。

 意外にも低くしっかりとした彼の声は、バス車内に朗々と響く。歌詞の意味などは勿論理解できないが、その曲調は荘厳で、美しい。これが、ニッポンの歌。テレビで聴いたことのあるジャパニーズ・ポップとは全く異なる、初めて耳にする、おそらくはニッポンの民謡。

 みな、同じことを考えているのだろうか、それぞれ顔には感嘆の色を隠そうともせず、じっと旅人の歌声に聴き入っていた。バス車内には、穏やかな――そして豊かなひと時が流れていた。

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