第2話 非日常のはじまり
反射的にハンドルを切ってその「腕」を避けたものの、そのまま車体が反対車線をも飛び出し、サトウキビ畑に突っ込みそうになった。僕は慌てて急ブレーキを踏みながら、ハンドルを勢いよく切り返す。これでもかというくらいに、体の重心を大きく傾けた。
その間バスの車体は揺れに揺れ、背後の客席からは、わぁだとか、ぎゃあだとかいう叫び声が聞こえてきた。でもそんなことにいちいち気を取られている余裕など、僕にはなかった。
最後の手段、サイドブレーキを引いたら、後輪が激しく横滑りをしたものの、なんとか横転することもなくバスは停車した。ただし、進行方向から見たら垂直の形で停車したので、道路の端から端までを大きくふさいでしまってはいたが。
僕は運転席に座ってサイドブレーキを握り締めたまま、しばしの間硬直していた。やがて、深く長い息を吐いた。無事だ。思わずハンドルの上に体を突っ伏して、もう一度安堵のため息をついた。対向車がいなくて本当によかったと、この辺りの道路事情に感謝する。
念のために客席の方を振り返ってみると、みな呆然としてはいたが、めいめいに座席の手すりなどにしがみついていたため、誰も怪我などはしていなかった。
ほっと胸を撫で下ろしてから、僕は車外に出た。急ブレーキを踏んだせいか、タイヤの焦げた匂いが辺りに漂っていた。この蒸し暑さとあいまって、ここいらの空気そのものが焦げてしまったかのようだ。
僕は、この事態を引き起こした原因でもある、「腕」を目撃した場所まで歩いて戻る。
――あった。
道端に転がっていたのは、「腕」だけではなかった。いや、誤解を招かない言い方をすれば、転がっていたのは一人の「人間」そのものだった。それも、非常に奇妙な状態で転がっている。
どうやら下半身はサトウキビ畑の中に埋もれているらしく、上半身だけを道路に投げ出し、突っ伏しているのだ。おそらくは、畑の中から道路に上がってくる途中で、今の状態になってしまった、ということなのだろう。
己の目と鼻の先をバスが勢いよく通過したばかりだというのに、そいつはぴくりとも動かなかった。
まさか、これは――……。
暑さのせいではない、嫌な汗が僕の背中を流れた、そのとき。
「ヴぉー、たー……」
突っ伏したままの人間から、くぐもった声が聞こえた。
驚いて、僕は思わず足を止める。
「ぷりー、ず…、ヴォー…た…」
そいつは、再び何かをうめいた。生きている。生きているんだ。急いで駆け寄ると、そいつの顔を覗き込んだ。
若い男だった。よく日焼けた肌に、漆黒の髪。半分ほど開いた虚ろな瞳も、髪と同じ色だ。この国では、珍しくもなんともない。しかし地元の人間でないのだということは、そいつの格好を見れば分かった。
埃まみれのTシャツに、えらく履きつぶした感じのするジーンズ。それだけなら驚かない。しかし。その男、背には大きな大きなリュックサックを背負っていたのだ。リュックサックを背にしたまま、倒れている。旅の途中、だろうか。
ともかく、こんなところに人間を放置しておくわけにはいかない。
依然として男はかすれた声で何かを呟いていたが、僕には理解できない言葉だった。理解できなかったので、とりあえずは無視して、そいつを担ぎ上げた。リュックサックは、その場に取り残しておく。そしてバスの方へと引き返した。
僕が戻ると、待っていましたといわんばかりに、タラップから降りた乗客が僕を取り囲む。
自分達のバスのアクロバット劇を引き起こした原因を見てやろうと、みな、物珍しげに僕の腕の中を覗き込んだ。そしてこの見慣れない風体の若者を見るや、案の定、めいめいに感嘆の声を上げる。乗客たちが野次馬根性丸出しで騒ぎ出したことに、僕は少なからず閉口する。
誰か水は持っていないかと尋ねると、バイ婆さんが勢いよく挙手した。
じゃあこいつに水を与えてやってくれ……と僕が言うまでもなく、婆さんは小さな体を転がすようにしてバス車内に引っ込み、すぐに竹筒を手にして戻ってきた。その間に僕は、行き倒れの旅人をバスの陰に横たえてやる。他の乗客たちも、その様子を興味津々で見守っている。
婆さんに礼を言ってから竹筒を受け取り、僕は旅人の額に少しだけ水をかけてやった。旅人が、小さくうめく。しかし依然として目は閉じたままだ。仕方ない。竹筒を彼の口元に持ってゆくと、ゆっくりと、だが半ば無理やりに水を注ぎ込んでやった。旅人が喉を鳴らしてそれを飲み込んだのを確かめると、僕は息を吐いた。
しかし本人が目を覚まさないことには、どうしようもない。だからといって、まさか、彼が目覚めるのをここで待つわけにもいかない。早く乗客を終着ターミナルまで送り届けないと、スコールがやってくる。僕は空を振り仰いだ。雨雲はどんどんとこちらに範囲を拡大してきている。
仕方がない。
僕は再び彼を担ぎ上げると、バスの中に運び込み、一番後ろの座席に横たわらせてやった。それから彼が倒れていたところまで戻り、あの大きなリュックサックも担いでバスの中に放り込む。
その一連の様子を見守っていた乗客たちから、楽しそうな歓声が上がる。自分達の日常の一コマに見慣れない旅人が挿入されることは、彼らにとって、好奇心を刺激するいい材料なのだろう。本当に、正直な人たちだ。
僕が運転席に座ってエンジンをかけると、彼らは慌ててバスに乗り込んだ。
全員が席に着いたことを確かめると、僕は再びバスを走らせ始めた。もっとも、まずは垂直方向に傾いているバスを、進行方向に戻すことからしなければならなかったが。
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