三分間のいきもの

木古おうみ

三分間のいきもの


 私の子どもが生まれる三分前、遠くの海の底で地震が起こった。

 私はそれを、清潔で仄暗い産婦人科病院のロビーで知った。私は出産に立ち会うつもりだったが、妻は嫌がった。彼女がそう決めたなら私にはどうしようもない。そういうところのある女性だった。看護師は分娩室の前で待つよりロビーにいることを勧めた。どこにいるにせよ、できることは何もないのは変わらなかった。

 真夏の昼間で、窓の外は林立する針葉樹が陽炎で歪んで見えるほど暑いというのに、ロビーは快適な温度に設定されているのが、私の居心地の悪さを助長した。ぼんやりと眺めていると、足音のしないゴム靴で走り回る看護師とぶつかった、彼女の二の腕は冷たく、日焼け止めの匂いがした。私は知らせが来るまで座って立ち上がらないことに決めた。シャツの背中に染みは冷房で乾いたが、ビニール製のソファは汗と体温で太ももにぴったりと張り付き、下のウレタンの感触を伝えた。

 ロビーに設置されたテレビの画面の上部、報道番組のキャスターの額に地震の速報が躍った。遠い海の果てのできごとだ。マグニチュードの数値は大仰に響くが、その近郊でひとの住む島への被害もなく、この国まで津波は届かないという。深い海の底で孤独に折り重なったプレートが身じろいただけ。そういうことになっていた。あの島はどこにも存在しないことになっているのだから。


 私の生まれ故郷はここから遠く離れた小さな島だ。上下水道は整っていたが、電気が通っていない場所もあり、物資は二日に一度船便で運ばれて、海が荒れるとさらに遅れた。しかし、太陽は地平線ひふれそうなほど大きく、どこにいても海が見え、のどかな大人たちの中で私たちは寛大に育てられた。


 島で十八歳になった子どもは夏至の日、大人たちのどこかへ連れていかれた。海が穏やかならば半日ほど、そうでなければ一日かかりの秘密の航海。私たち子どもがその暗黙の儀式を必要以上に恐れなかったのは、帰還した彼らのほとんどは何も変わりなく思えたからだ。中には口数が少なくなり、物思いに沈む者もいたが、時間が経つうちに元通りになった。そして、彼らは二年後成人を迎えてすぐ島を出て行ったが、島を忌み嫌ってというより単に可能性を求めて外へ出たように見えたし、私が生まれたころから、若者はほとんどが仕事を求めて島を後にしていた。


 私も十八歳になり、そのときが訪れた。港に呼ばれたとき、まだ夜が明けきらず、島全体が青いステンドガラスの聖堂の中にあるようだった。港には私以外にふたりの子どもがいた。教師の息子と、食堂の娘だった。私たち三人は船に乗せられた。古風な手漕ぎ船ではなく、漁に使うようなモーターボートだった。船を操縦するのは昔から年に一度の送迎係を行っていた老人だ。船の中で私たちは無言だった。海は穏やかだったが、曇っていた上、その年は冷夏で肌寒く、シャツがあおられる度に冷たい風が袖や裾から入り込んで暴れた。私はナイフが硬い布を切り裂いてその先を覗かせるように、ボートが暗い海を割って飛沫をあげるのを見ていた。食堂の娘が声を上げて一瞬立ち上がったが、すぐ下の波の動きに揺られ、再び屈み込んだ。彼女の視線の先を見ると、霧の中に黒い島が見えた。切り立った岩に全体を覆われ、ほんの一箇所だけ切れ目を入れたように島の奥への続く白い砂浜が見えていた。

「ベックリンの絵みたいだな」と、教師の息子が言ったのを覚えている。


 島に降り立つと、砂は湿っていて一歩踏み出すたびに靴の奥まで海水が染み渡った。波打ち際では、泡立つ波と同じ白さの死んだ蟹が満ち引きに合わせ、海水の中で踊っていた。老人を先頭に私たちは島の奥へ進んだ。切り立った岩は島のほとんどを占めていたが、砕けた石灰のような砂利つく一本道だけが導くように続いていた。上を見ると、岩は監獄の檻のように高く私たちを取り囲み、頂上は食い破られたように小さく太陽が覗いていた。気が遠くなりそうだった。枯れた木の残骸が道に残っている以外生物はいなかった。色彩のない島だ。

 ひとこと、着いた、と聞こえた。老人の肩の隙間から細かった道が開けて、広場のような空間になっていた。私は老人を押しのけるように前に出た。あとのふたりもそれに続いた。私たち三人は同時に息を呑んだ。

  最初は、牛乳を零した瞬間の映像のスローモーションのようだった。地面を這い回る半液体状のそれは膨れ上がると一気に立ち上がった。蠢くそれは見えない天井から吊り下がった布にも、白い炎にも見えた。老人が「ちょうど始まった」と呟いた。振り返ると彼は腕時計を見ていた。

 それは次第に形を持ち、窪みができ、先がいくつかに分かれ、やがて頭髪のない人間そっくりになった。彼らは同じく形を作った仲間たちに近づいていった。近づき、離れを繰り返し、ある個体の前で立ち止まると頬を擦り寄せるようにして一際近づいた。頭から水を浴びているように、波紋を作って流動する彼らの皮膚は自他の境なく溶けあった。生物というより現象に近かった。

どちらともつかない塊は腹の辺りから、最初に私たちが見た白い液体を吐き出した。液体は動かず、地面にも染み入らず、それの足元に溜まっていた。吐き出した後の彼らはまたゆっくりとふたつに分かれ、徐々に干からび出した。今度は離れた瞬間のまま、身をよじるような形で固まりだんだんとひびが入り始めた。その表面は乾くほど凹凸が目立ち、ひとの顔に近づいていった。そして、大きく亀裂が走り、跡形もなく割れた。先ほど踏んできた道は彼らの砕けた残滓だとわかり、ぞっとした。

 彼らの欠片が風に溶けたとき、また白い液体が振動を始めた。


「何なの、あれ」

 食堂の娘が震える声で言った。老人は俯いて呟いた。

「わからん」


  私たちは海岸へ戻った。老人が帰りのボートで話したことには、先祖があの生き物を見つけてから想像もつかないほど前だという。彼らの寿命は三分間だ。一分で誕生、生殖、死を終える。どういう種類か、知能はどれくらいか、何を目的にしているのか。わかったものはいない。三分間でその個体は命を終え、跡形もなく、つがいがいなければ子孫も残さず消え去るので捕獲も研究も無理だった。彼らはあの島にしかいなくて、あの島から出てこない。大人たちは普段は忘れ、時が来たら子どもにそれを教えることにした。

 私たちは帰りのボートでも無言だった。食堂の娘は残って家業を継いだらしい。教師の息子と私は島を離れて、本土で数回会ったが、三十歳を迎える前に彼は自宅で首を吊った。理由はわからなかった。


 私は看護師から名前を呼ばれ、我に帰った。慌ただしく小走りする彼女の後ろについて分娩室に入ると、日の当たるベッドの上、汗で長い髪を顔に貼り付けた妻がいた。隣の看護師が抱いていた赤ん坊を慎重に私に手渡した。石のように重く、しかし、温かかった。

「目は私だけど、鼻の辺りはあなたにそっくり」

 彼女は微笑んだ。私は腕の中の自分の息子を見た。赤い顔で眠る我が子。その柔らかい輪郭からは誰の特徴でも取り出せる気がしたし、これからどんな様相にでもなれる気がした。

 私はふとあの島の生き物を思い出す。彼らはつがいを見つけ、三分間の生で子孫を残そうとするが、そうでないものもいた。そのうちのひとつの個体は、水面のように不安定な肌をゆっくりと震わせ、私を見た。

 虚ろで、それぞれの器官の細部もぼやけた、悲しげな表情。誰でもなく誰にでもなれそうなその顔。

 私は、「そうだね」と答えた。


 私の息子が生まれた日、ひとの数千万分の一の命を生き物がいる島が波にのまれた。

 だが、彼らはどこか別の島にいて、同じように普段はその存在を隠し、子どもが大人に仲間入りするとき彼らのヴェールを一瞬剥がれるのかもしれない。

 それどころか、彼らは海の底ですら三分間の生涯を繰り返しているかもしれなかった。


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