月光

矢口 水晶

月光

 月の綺麗な夜は、夜陰の虫がよく見える。

 木立の中に落とされた月明かりに、無数の羽虫が集っている。小さな翅が光に透けて、きらきらと輝いていた。まだ少年だった私は穴の空いた虫取り網を提げ、一人で夜道を彷徨さまよっている。

 私は夜の蝶を探していた。月夜にしか現れないと言われる、それはそれは美しい蝶。私はそれを捕まえるため、夜毎凍えそうな暗闇を漂った。深く轍の残る道は死人の肌のように冷たく、私の足はあかぎれに覆われて血を滲ませていた。

 空の虫籠の中で、冷たい風がひゅうひゅうと鳴いている。蝶を獲らなければ家に帰れない。家では酒瓶を抱えた父が待っている。私が銭を持ってくるのを待っているのだ。

 しかし、私はこれまで夜陰の蝶を捕まえたことがなかった。だから、仕方なく蝶の代わりに醜い蛾を捕らえ、絵の具で色を付けて山向こうの街で売った。そうやって手に入れたわずかな銭は、すぐさま酒に化けた。毎日がその繰り返しだった。

 夜気は冷たく私の痩せた身体を苛めたが、月明かりは優しかった。今宵は特に美しく、白銀を押し固めたような満月だった。月の横顔は母の面影を宿している。幼い私を捨てて、遠い街へと逃れた母に。

 私は満月に向けて虫取り網を伸ばした。美しいものはいつも遠くにあって、私の手に届かない。

 雑木林の中に、ぽつぽつと背の低い影が現われた。彼らは捨てられた灯籠であった。風化していくもの、倒れたもの、砕けて自然の石と一体化しているものもある。苔むした灯籠に灯の入ることはなく、かつてのように羽虫を呼ぶことさえ出来ない。傾いた灯籠に張られた蜘蛛の巣に、玉のような滴がしたたっていた。

 私は彼らの眠りを妨げぬよう、静かに蝶を探した。虫取り網の柄で下草を浚うも、飛び出てくるのは羽虫や藪蚊ばかりであった。私の肌は虫どもに食われ、たちまち赤く爛れた。夜の闇が小さな傷口に入って、私に流れる血を侵していくようだった。

 ややすると、暗く湿った墓土の匂いが鼻先をくすぐった。私ははっとして面を上げる。冷たい風と共に、静かな声が木立の間を漂ってきた。


 通りゃんせ通りゃんせ

 

 ここは何処の細道じゃ

 

 天神様の細道じゃ


 歌っているのは死者の葬列だった。月明かりに透かされ、蜉蝣の翅のような影がいくつも目の前を横切っていく。彼らも月の美しさに誘われて彷徨い出てきたのであろうか。死人の表情は朧月のようにかすんではっきりと見ることは出来ない。しかし、私の目には悲しくもどこか安らかに映った。私は立ちつくし、しばし異界の衆の群れに見惚れていた。


 行きはよいよい帰りは怖い


 怖いながらも


 通りゃんせ通りゃんせ





 雑木林が途切れて湖の畔に出た。静かな水面は鏡のように澄み渡り、双子の月を映していた。夜に抱かれた月と水に没した月。私は虫に食われた痛みも忘れ、白い月光に身を晒していた。まるで、遠い幻の国に立ったような心地であった。

 その時、西の方角から湖に沿ってこちらへ向かって来る人影があった。群れからはぐれた死者ではない。

 それは花籠を抱えた少女であった。

「いきはよいよいかえりはこわい。いきはよいよいかえりはこわい」

 花売りの娘は機嫌良さそうに死者の歌を口ずさんでいる。籠の中では真っ赤な彼岸花が咲き乱れ、少女の髪にも差さっていた。私と同様に垢じみた着物を着ているが、どこか浮かれ女のように艶やかである。しかし、声音の瑞々しさはやはり娘であった。

「こんばんは」

 少女はほんのりと紅い唇を綻ばせた。月光に酔っているのか、大きな黒目が潤んでいる。白い首筋にかかる遅れ毛が、蜘蛛の糸のように揺れていた。

「こんばんは」

「あんた、こんなところで何しとるん?」

 少女は、好奇心旺盛な小動物のように首を傾げた。

「蝶を探しているんだ」

「ちょう?」

「夜の蝶を捕まえるんだ。君は見たことがあるかい?」

「ううん。うちは、ちょうちょうなんか見たことない」

 そう言って、少女は籠の中から花を一本摘んだ。白い指先に弄ばれる花は、どことなく幸せそうであった。

「うちは花よ。ちょうちょうじゃない」

 熟れた唇が柔らかく花を噛んだ。緋色の花は、甘い味がするのであろうか。

「あした、日がのぼったら街へ売られに行くんよ。うちが売れたらお姉ちゃんの花嫁衣装が買える。きれいなきれいな花嫁衣装よ」

 ほう、と溜息と共に花弁が落ちた。

「うちも着たかったわあ。花嫁衣装」

 私は、とっさに少女の手を取って花もろとも唇を寄せていた。白い手は人形のように冷たい。その下を流れる血も、悲しく凍えていた。

「可哀想に、可哀想に」

 微かな私の囁きに、少女は筆で描いたような眉を寄せた。哀れむような愛しむような、不思議な表情であった。いったいどちらが哀れむべき子供なのか、一瞬分からなくなる。

 私たちは番いの鳥のように寄り添い、湖面の月を見ていた。空の月も水の月も、どんなに美しくとも手が届かない。それなのに、どうしてこんなにも優しく私たちに微笑みかけるのだろうか。

 とおりゃんせとおりゃんせ。少女の鼻歌が、夜風に乗って去って行った。

 ふと、私は少女の横顔に目をやった。彼女は月の魔力に取り付かれたように、ぼんやりとした目をしている。黒髪に咲く花に、私は息を飲んだ。

 彼女の花にとまっていたのは、漆黒の蝶だった。私は息を殺し、恐る恐る手を伸ばす。薄い翅を傷付けてしまわぬよう、慎重に手の平に包み込んだ。

 私は、そうっと手を開いた。蝶は束の間の幻だったのではないかと怖れたが、ちゃんと私の手の平に翅を伏せていた。

 夜陰の蝶は、夜気で染めたように黒かった。翅をきらきらと光る麟紛で覆われ、その姿は西洋のドレスのように気高く美しい。小さな身体から翅の隅々まで流れる蝶の血が、どくどくと私の手に伝わってきた。

「ああ、なんて綺麗なんだ」

 私は蝶を月光にかざした。星屑のように麟紛が零れ、下草に散った。その時、私は生れて初めて美しいものに触れたのだ。

「なあ、そのちょうちょう、うちにちょうだい」

 少女のたおやかな手が、私の夢を妨げた。私は即座に少女の手を払い、蝶を彼女から遠ざけた。それでも二本の腕は、貪欲な蛇のように追ってくる。

「これは僕の蝶だ」

「ちょうちょう、うちも欲しい」

「駄目だ。やるものか」

 追いすがってくる少女の腹を、私は蹴り付けた。彼女の身体は茎のように折れ、下草の中に沈んだ。彼岸花の花弁が血のように細い身体に零れ落ちる。それでもなお、私は少女の肩や背中を踏んだ。白い肌はあっと言う間に泥に塗れた。

「ちょうちょう、うちにちょうだあい……」

 少女の瞳から澄んだ涙が流れ落ちていた。泣き叫ぶ声に背中を向け、私は走り出す。彼女の声は、暗闇にいつまでもこだました。

 私が向かったのは父の待つ家ではない。山向こうの街だった。

 蛹を脱した蝶のように、私は闇の中を舞い続けた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月光 矢口 水晶 @suisyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ