p2 モラエスの略歴
まずは、モラエスの略歴を紹介しよう。1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれる。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。1889年(明治22年)に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤める。
モラエスは1902年から1913年まで、ポルト市の著名な新聞「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」を通して当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介した。在勤中に芸者おヨネ(本名は福本ヨネ)と出会い、おヨネを身受けして、ともに暮らすようになる。おヨネはお福に似ていたそうである。1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞し引退。おヨネの故郷で、おヨネの墓のある徳島市に移住した。おヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあったという。1929年、徳島市で孤独の内に没した。
モラエスのポルトガル時代のことはとりあえず置いておこう。
海軍学校を卒業すると、海軍少尉に任官、東アフリカのモザンビークに赴任、10年程をモザンビーク勤務とポルトガル本国勤務を行ったり来たりしている。この間生物学に関する調査研究を行い、学会で博物学者としても認められている。
1887年マカオに赴任する。マカオ港務副司令官として日本に来るまで勤務している。マカオ時代に中国人、亜珍を(当時15歳)現地妻として、二人の息子を持った。
マカオ在任中に日本に何度か公務で訪れているうちに、日本に魅せられて住みたいと思うようになって、本国の友人の助力もあって、神戸の領事館勤務(副領事)の職を得て1889年日本に来ることになった。母子はマカオに置いたままであった。ただし、月々の仕送りは徳島に隠遁するまではしている。
故国を捨て異国に憧れる自らの心境をこう書いている。
「異国情緒を愛する人たちと言うとき、私たちが指すのは「・・・・」どうしょうもなく見知らぬものに魅きつけられ、見知らぬものに向かって行く、出来れば従来の生活の場を逃れ、自分が生まれ、幼少時代を送った、まったく別の社会ときっぱり縁を切って、新しい環境に可能な限り一体化しょうとする、そういう人たちなのだ。それらの不可解な人たちは、自分の環境が与えることの出来る幸福の分量と病的に相容れないように生まれついたということである。あるいは、いろんな不幸な目にあったために祖国が継母になってしまったのだ。彼らには精神のパンが欠けているのだ。そこで当然ながら、昼食のパンに事欠く農村の貧しい百姓が糧を求めて遠くに移住するように、彼らも他国に行く」
生来の性格がそうさせる部分と、自分の国が自分の性格と合わない部分を言う。
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