p5 徳島時代

 徳島に隠遁する決意は、本国のモラエスに対する扱いの不満もあったが、一番はおヨネの死であった。その4年後コハルの死、モラエスは自分がこの徳島で朽ち果てることを決意する。亡くなったあと、仏式の葬儀でおヨネの墓に一緒に葬って貰うことを縁戚の者に頼むが、正式な籍があるわけでもなく、宗教上のこともあり断られる。

 おヨネとコハルの墓参りを日課として、今は二人の墓に並んで仏式の戒名を貰って眠っている。享年75歳であった。


 私の宗教は、彼女たちの死に際し、別の信仰・・追慕の宗教に変わったと記し、「日本は、精神によってもっともよく私が生きた国、理性と理解力の魅力地平が拡大するのを、私の人格がもっともよく認めた国、自然と芸術の魅力を前にして、私の感情の力がもっとも強く息づいた国であった。それゆえ、日本がこの私の新たな信仰・・追慕の宗教・・、きっと私が愛と敬意を捧げる最後のものとなるであろう信仰の祭壇となることを願っている」モラエスはキリスト教徒であり、マカオの息子にも洗礼を亜珍に勧めている。モラエスはキリスト教徒を捨て、内なるヨーロッパ的なものを捨てたのである。


 モラエスは異国情緒の審美的な日本を愛しただけでなく、それを愛惜すると同時に、領事としての外交官としての仕事柄、日本の政治や経済のことも現実的に理解している。日本の西洋化が、日本が本来持つ美しいものを捨てていくのも一面で仕方がないことと見ている。東洋の小国がこんなに頑張っているのだ。かっての海洋帝国、祖国ポルトガルよ、頑張れ!の思いで日本を少し誇張して書いている節がないでもない。


 モラエスは、日本語は話せたが、書いたり、書物を読んだりすることは不得意とした。だから日本の歴史や文学については、西洋に訳されたものに限られたがよく学んでいる。『日本の精神』では言語、宗教、歴史、家族、国家、芸術と文学、そして日本人が持つ「愛」と「死」についてと多方面にわたって書いている。

「私が言う精神とは、たいして高邁なことを意味しているわけではない、ものごとを判断するにあたっての個々人の内的思考というものである。・・ものごとをどのように眺め、どのように感じるか、民族特有のものの見方という観点から日本の家族のあり方を精神面において瞥見しようと思う」と「最初の考え」で書いている通り、この本は論文というよりは精神におけるスケッチ的なものである。


 この本の中で白人は神性の概念と創造者たる自然の概念を対立するものとしてとらえ、これは環境と気候の過酷さのせいとみる。一方、日本人は神性の観念と自然の観念は補完しあう一対のものとみなす。これは白人の個我の肯定、日本人の没個性(あらゆる苦難に対する宗教的諦念)の相違となって現れる。ヨーロッパ人が自分の個性を強調するのに対し、日本人は考えたり話したりする時に激しく渦巻く生から自分の個性を遠ざけてしまうという事を言語の違いからも見る。ヨーロッパ人は生のない事物に性を与える(海は男性、雨は女性)ことや、日本語には一人称を示すめったに使われない一、二の言語を除けば人称代名詞はなく、このことは動詞の各法と時制に対する語は一つと言うことになる。厳密な意味で日本語には文法上の主語は存在しない。

 

 ある人が「帰ります」と叫んだとする。直接法現在である。しかし、一体誰が帰るのか?私か、君か、私たちか、君たちか、彼らか・・わからない。しかし会話の流れの中でそれらはあらかじめ聞き手に準備させてきているとモラエスは考える。

 言語は、個人および一国の国民の思想、感情を表すものであると「言語」の最初でモラエスは断っている。このヨーロッパ人と日本人の違いの目で一貫して宗教やその他のこと(国家、家族、死性感等)を見ている。

 文学については『枕の草子』や、特に鴨長明の『方丈記』の随筆を高く評価する。モラエスの立場がヨーロッパ人、日本人のどちらに傾いているかはこのことでもわかるであろう。






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