Rainy Chinatown

RAY

Rainy Chinatown


「――間もなく、元町・中華街、元町・中華街、終点です。どなた様もお忘れ物・落し物をなさいませぬようご注意願います」


 空いた車内にアナウンスが流れると、真っ暗だった、窓の外に天井の高い、明るいプラットホームが姿を現す。

 三年ぶりの懐かしい風景に思わず笑みがこぼれた。


 大手広告代理店の九州支社に勤める私・夜野よのレイナは一昨日から東京に来ている。以前東京に勤務していたとき付き合いがあった建設会社クライアントから広告媒体の製作依頼があったから。

 本来は東京支社で受ける案件ではあるが、名指しで依頼されては断るわけにもいかず、私が出張対応することとなった。


 最終日の今日は午後から建設現場での撮影を予定していたが、生憎あいにくの空模様であえなく中止。クライアントと次回の日取りを確認してオフィスを後にした。

 時刻は十二時三十分。帰りの飛行機の時間まではかなり余裕がある。

 シャワーのような雨が降り注ぐ、鉛色の空を恨めしそうに眺めながら、私は折りたたみ傘を広げた。


「前にもあったな……大雨で仕事が中止になったこと……」


 その瞬間、「ある出来事」が脳裏を過る。まるで磁石に引き寄せられるように東急東横線の駅へ向かっていた。目的地は――「横浜中華街チャイナタウン」。


★★


 長いエスカレーターを昇って地上へ出ると、渋谷と同じ、冷たい雨が落ちていた。

 吐く息は白く、一時過ぎだというのにあたりは夕方のように薄暗い。


 横浜中華街チャイナタウンは、メイン通りもどこか寂しげな雰囲気が漂っている。平日の昼下がりで雨が降っているせいもあるが、以前と比べて人通りが少ない気がした。

 実際、名前が変わった店がいくつもあり、老舗しにせの中華料理店があった場所にはファッションビルが建っている。


 裏通りに入ると人の姿はほとんどなく看板が撤去された店が目につく。不安と焦りから自然と早足になる。祈るような気持ちで店の看板を目で追った。

 黄色の地に赤い文字で「九龍城クーロンジョウ」と書かれた看板が目に入った。扉には「営業中」の札が掛かり店内には明かりが灯っている。


「よかった」


 ほっと安堵の息が漏れた。店の軒下で濡れたスーツを素早くハンカチでぬぐいながら緊張した面持ちで店の引き戸を開けた。

 チリンチリンという懐かしい音色。店内に人の姿はない。壁には手書きのメニュー。棚の上には中国の民芸品と思しき、チャイナ服を着た子供の人形。丸い石油ストーブの上に置かれたヤカンから白い湯気が噴き出している――三年前と何も変わっていない。まるで数日前に訪れたような錯覚に陥る。


「いらっしゃいませ」


 片言の日本語とともに、店の奥から水とおしぼりを手にした、小柄な女性が現れる。


「レイナ……? レイナじゃないか!」


 私の顔を見るや否や、女性の顔に驚きの表情が浮かぶ。しかし、すぐに満面の笑みがそれに取って代わる。


「お久しぶり。九州からはなかなか出て来られなくて……美雨メイユイさんも元気そうで良かった」


「よく来たね。うれしいよ」


 店の主人・李美雨リーメイユイは、両手で私の手を握り締めると、目尻にしわを寄せて感慨深げな表情を浮かべる。


「昼ごはんは食べたかい?」


「まだだよ。そのために来たんだもの」


でいい?」


「もちろん」


 私の言葉に美雨さんは笑顔で頷く。


「アサリそば一つ! 大至急!」


 店内にうれしそうな声が響き渡る。

 

 アサリそばは、アサリとネギが入った、塩味のラーメン。アサリの出汁だしが効いたスープに硬めの細麺がマッチして、シンプルながら深い味わいがある。私は一度食べて病みつきになった。


 ただ、アサリそばのことを知っている人は意外と少ない。かく言う私も美雨さんの店を訪れるまでその存在を知らなかった。中華街でもメニューとして置いている店はほとんどない。


「お待たせ。熱いから気をつけて」


 私の目の前に、白い湯気が立ち上るアサリそばが現れる。見た目も匂いもあの頃のまま。口元が緩んでいるのがわかった。


「いただきます!」


 スープを口に含んだ瞬間、懐かしい味が身体の隅々に行き渡る。冷えた身体がポカポカする。隠し味のショウガが良い仕事をしている。


 美雨さんが目尻の下がった、優しい眼差しで私を見つめる。彼女の年齢は五十代後半。私とは母と娘ほど年が離れている。


「初めて会ったときも大雨だったね。レイナは雨女かい?」


 口を動かしながら首をかしげる私に、美雨さんは鎖のついた銀縁のメガネを外して小さく笑う。


「これまでやってこれたのはレイナのおかげ。心から感謝してる」


★★★


 五年前の十二月、中華街でCMのロケをしたとき、大雨に見舞われ撮影が中止になった。そのとき、ずぶ濡れの私が偶然訪れたのが九龍城クーロンジョウ


 当時の私は入社一年目。負けず嫌いな性格から何よりも仕事を優先して我武者羅がむしゃらに取り組んでいた。その結果、心身ともにくたくたに疲れていた。


「ずぶ濡れじゃないか。風邪でも引いたら大変。ここに座りな」


 私を石油ストーブの横へ座らせると、美雨さんは店の奥から持ってきたバスタオルを私に手渡す。


「身体が温まるものを食べないと……あんた、アサリは好きかい?」


 美雨さんに勧められたのがアサリそば。温かくて優しい味わいが、冷たくなった私の身体を温め、疲れていた私の心を癒してくれた。


 美雨さんの人柄も手伝って、私は九龍城の大ファンになった。会う人会う人にアサリそばのことをPRした。知り合いのライターに頼んでグルメ雑誌に紹介してもらったこともある。

 いつからか九龍城は裏通りの有名店となり、休みの日は行列ができるようになった。


★★★★


「――でも、会えてよかった」


 美雨さんの口から漏れた一言に、箸を持つ手が止まった。


「最後って……どういうこと?」


 いぶかしい表情を浮かべる私に、美優さんは視線を逸らす。


「……香港に帰ることにした。母が亡くなって病気の父が一人になったから。日本に呼ぼうとしたけど『絶対に行かない』って」


 美雨さんは「仕方ないね」と言わんばかりに苦笑いをする。


「お店は? 止めちゃうの?」


「明日で終わり。そこに紙が貼ってあるだろ?」


 後ろを振り返るとレジの横に閉店を告げる紙が貼られている。


「そう……なんだ……」


 私は再びアサリそばを食べ始めた。

 店内に静寂が訪れる。雨の音が大きくなった気がした。


「店を閉めるのは残念。日本を離れるのはもっと残念。横浜は二つめの故郷……大事な友達もいる」


 美雨さんの声がにわかに小さくなる。箸を持つ手にグッと力が入った。


「忘れない……レイナと日本のこと……離れていても……ずっと友達……」


 雨音に交じって美雨さんの鼻をすする音が聞こえた。


 私は下を向いて身体を震わせながらアサリそばを食べ続けた。

 ――大切な人と巡り合わせてくれた、二度の大雨に感謝しながら。


 その日のアサリそばは、いつもより塩っぱかった。



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