夜釣り

増本アキラ

夜釣り

 夏が過ぎ、暑さがやわらいできた金曜日の夜であった。私は晩飯を食い終わって、熱い茶をすすりながら茶の間でテレビを見ていた。満腹になって、その余韻に浸っていた。時計の針は午後七時を少し回ったところであった。ガラス張りの戸から窺える外の景色は、間もなく夜に沈む。そんな時に、畳の上に置いてあった私の携帯電話が鳴った。二つ折りの携帯電話を開けると、その明るい画面には私のよく知っている名前が表示されていた。私の親友だった。私は通話のボタンを押して、携帯電話を耳に当てた。

親友は少々高揚していた。元気な口調で私に今晩の予定を訊いた。私は特に何も無いと答えた。親友は、それは良かったと言い、その次に、今晩夜釣りに行かないかと私を誘った。私は少々渋ったが、それも悪くはないと思ったので、友の誘いに乗ることにした。早々と釣る場所を決めて電話を切ると、私は竿の準備に取り掛かった。いかんせん釣りなど久しぶりなので仕掛けから何から、全てやり直さなければならない。私はさっそく物置から五メートルほどの竿と釣り道具一式が入ったプラスチックの箱を発掘し、一人、ごそごそとやり始めた。


​​​◇◇◇​​​◇◇◇


 私は竿と釣り道具の準備を終えると、ハコバンに乗り込んだ。クーラーボックスや懐中電灯もぬかりなく積み込んだ。私は家を出て、我が地元、舞鶴を流れる第一級河川、由良川の方面へと向かった。念仏峠という坂道を走って山を越え、下東という地区を走り抜ける。更に走って神崎という、海水浴場がある地区へ向かう途中に、由良川を跨ぐ吊り橋がある。八雲橋である。これを渡り、和江地区に入る。八雲橋を渡って田畑に囲まれた道を道なりに走る。三叉路の信号を右へ曲がると、そこに釣具屋があるのだ。私はもう真っ暗な夜の中に降りると、その釣具屋に入っていった。私はそこでアオイソメというミミズのような釣り餌を買った。一パック五百円だ。それを二つ買い、また車に乗って先ほど右に曲がった信号を直進する。しばらく走ればすぐに、約束の場所だ。


​​​◇◇◇​​​◇◇◇


 友はもう来ていた。我々は一通り挨拶をかわすと、さっそく準備に取り掛かった。竿を伸ばし、仕掛けの先に釣り針を付ける。ケミホタルを光らせ、ウキの先端に取り付ける。それから買ってきたアオイソメを釣り針に引っ掛けると、リールから出る糸を右手の人差し指で竿に押さえつけるようにして持ち、リールのロックを外す。竿を倒して押し出すようにして仕掛けを投げる。その時にタイミングよく人差し指で押さえた糸を放してやるのだ。私の投げた仕掛けは風を切る良い音を立てながら、月の揺れる水面に着水した。その箇所で、ウキ先に付いたケミホタルが星のように光っている。

「うわあ!」

と、隣で素っ頓狂な声がした。友が仕掛けを投げようとしたのだが、どうも後ろに生い茂る草に引っ掛かり、上手くいかなかったようだ。私はリールを少し巻いて道糸をピンと張ると竿を置いて懐中電灯を片手に、生い茂った草と悪戦苦闘する友の救援に向かった。

 何とか引っ掛かった仕掛けを救出してやると、友は今度こそ上手に投げた。事が一段落すると、友は「ちょっと待ってな。いいもんやるよ。」と言い、自分の車に向かっていった。彼は右手にコンビニの袋を下げて戻って来た。中から手の平ほどの紙包みと缶コーヒーを私に差し出してくれた。紙包みの中身はあたたかな肉まんだった。私は礼を言うと、さっそく包みを開けて、湯気を立てる真っ白な肉まんに食らいついた。ふわふわの生地と、餡の旨味が口いっぱいに広がる。私は肉まんの餡に入っているタケノコが大好物だ。それから片手で器用に缶コーヒーの飲み口を開け、ぐいっと一口。

「ヌハァァァァ!」

横で奇声が上がった。友も私と同じようにしていた。

「あんまり大きい声出すと、魚が逃げちまうぞ。」

私は笑いを堪えながら言った。友は開き直ったよに、堂々として応えた。

「釣れなくてもいいじゃん。釣りは、釣りをするってことを楽しむもんだろ。」

私は苦笑した。

「分からなくはないけどな。でも、釣るからには釣りたいじゃない。ボウズはやだね。」

彼はまた声を上げて笑った。


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 夜釣りは非常に良いものだった。満月が漆黒の大地から、由良川だけを煌めかせて浮かび上がらせていた。川の形がはっきりと分かるのだ。山々は真っ黒で、夜空との境界線を露わにしている。車の走行音も、人の声も無い。世界から忘れ去られた、真の静寂が蘇ったようだった。時折、水面で魚が水を撥ねる音が鳴る。遠くでシノハが跳ね跳んでいる。このシノハは正式名称をヒイラギという。骨ばかりの魚で、私の地方の釣り人には、あまり好かれない。我々の狙いはスズキの幼魚、セイゴである。白身で美味く、よく引くので釣っていて面白い。

 しばらく待っていると、私の竿から伸びた糸の先にあるウキがわずかに沈んだ。私も友も、一瞬のうちに臨戦態勢に入る。辺りの静寂にも緊張が走る。ウキは何度かわずかに浮き沈みを繰り返している。ここで慌ててはいけない。私は強く竿を握って待った。ついにもどかしく浮き沈みを繰り返していたウキの黄緑色の明かりが、斜めに、一気に水中に引きずり込まれた。この引き方は間違いなくセイゴのそれである。それを認めると私は勢いよく竿を振り上げ、セイゴの口に釣り針を引っ掛けた。竿を通して獲物の振動が伝わってくる。そこまで大きな獲物でもないようで、私は一気に釣り上げた。二十五センチほどのセイゴだった。大きな立派な背びれが特徴的な魚だ。釣り上げたセイゴの鈍色の鱗が、月明かりに反射してきらきらしていた。小さいながら、よいセイゴだった。

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