追悼文 『さよなら、栗本薫』

 栗本薫/中島梓 2009年5月26日、没。享年56歳。


 栗本薫/中島梓が逝去した2009年5月26日の翌日に書いた自分なりの追悼文

 いまとなっては恥ずかしい部分や知識の間違いも多い文章ですが敢えてほとんどいじらずにそのままにしてあります。




 2009年5月26日夕刻、栗本薫が亡くなったらしい。

 27日11時半、寝ぼけ頭でそれを知った自分は「あ、そう」と思った。「ふーん、ついに死んだんだ」

 別にショックではなかった。膵臓ガンだというのはずっと前からわかっていたし、早晩死ぬのは明白だった。膵臓ガンという病の重さから考えれば、ずいぶんと長生きした方だとすら思う。

 だからまあ、死ぬのはいいんだ。死ぬのは当然で、そしてしょうがない。

 それから「栗本薫が死ぬってどういうことだろう」と思い「栗本薫が死んだのに、おれはなにをやっているんだろう」と思った。

 なにをやってるんだろうって、なにもやれることもやるべきことも、おれにはないだろう?


 とりあえず、作家・栗本薫(評論家・中島梓)の主な経歴をまとめてみたいと思う。


1977年 中島梓名義で群像新人文学評論賞受賞

1978年 『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞受賞

1979年 ライフワークとなるファンタジー小説『グインサーガ』一巻刊行

1981年 『絃の聖域』で吉川英治新人文学賞受賞

1981年 長編伝奇小説『魔界水滸伝』一巻刊行

2009年 死去、享年56歳


 ……あ、あれ?

 81年から死ぬまでの間に書くようなことがない?

 なにこの28年の空白?


1981年 今岡清氏と結婚

1987年 ミュージカル『ミスターミスター』演出を手がけ、以後、演劇に手を出す

1990年 乳ガン発覚。手術。生還

2005年 『グインサーガ』当初の予定となる第100巻刊行

2007年 膵臓ガン発覚


 とか、ファンや本人にとっては重要な事件もいくつかはあるが、作家としての経歴を見たときに、デビューして5年以内にほとんどのイベントが済んでしまっており、その後がない……

 結局、デビュー五年内の間に為したことが、栗本薫という作家の人生の足跡それすべてであったのかと思うと少々、いや、かなり切ない。


 実際のところは、こんな細かい昔の業績だのなんだのはなにも残らなくて、栗本薫という作家は『グインサーガ』というやたら巻数の出たライトノベルの作者として、中島梓は『ヒントでピント』の四代目女性軍リーダーとしてのみ認知されているし、今後もされていくのだろう。


 その肝心の『グインサーガ』が当初の予定である全百巻をはるかにオーバーして、なお続き、そして最後まで未完のままであり、かつ死病が発覚してもまったく完結させる気がなかったという、作家としてのケジメをまったくつけないままの状態だった。

『グインサーガ』のみならず、栗本薫の著作には数多くのシリーズがあったが、そのほとんどが未完のままに終わってしまった。


 全五十巻を構想していた『魔界水滸伝』は、第三部に入り24巻を刊行したところで長いこと止まったままになっていた。もっともこれは、売上の面もあれば角川お家騒動の煽りを食らって書きづらくなった感も多々ある。このシリーズは前社長の角川春樹にごり押しされていた作品であり、角川ハルキ事務所が設立されてからは伝奇小説はそちらの方で書いていた。なので一概に作者のせいとも云い切れないか。


『グインサーガ』と並ぶもう一本の柱、『名探偵伊集院大介』シリーズは、一冊完結のシリーズであり、『グイン~』や『魔界~』等と比べるとダメージは少ないが、しかし金田一耕助のように「最後の事件」が書かれることはついになかった。

 宿敵である殺人鬼シリウスとも一度は決着がついておきながら、のちにのうのうと復活し、挙句そのままシリウスの出番がないままに放置されていたので「あいつなんのために復活したんだよ」という気分にさせただけであった。


 新撰組の沖田総司を主人公にしたSF伝奇『夢幻戦記』は15巻まで刊行されたが、途中からストーリーがほとんど進むことがなくなり、新撰組ものなのに新撰組が結成される前後で話が中絶されると云う、意味不明な作品のままに終わった。

 つまらない大長編やぐだくだになってる大長編は数あれど、徹頭徹尾「なにもない」大長編小説というのは前代未聞であったかもしれない。中絶されたことに対してなにも、本当に何ひとつ沸き起こる感情がないという、およそ稀有な作品であった。


 栗本薫の裏の柱と云えるのが『真夜中の天使』から続く今西良シリーズ(作者曰く『東京サーガ』)

 第一作『真夜中の天使』、第二作『翼あるもの』はそれぞれが独立した作品であり。長編シリーズというわけではなかったが、刊行より数年後、『翼あるもの』の直接の続編として『朝日のあたる家』が刊行開始。

 こちらは十年以上をかけて全五巻が刊行されたが、ぐだぐだな終盤の展開と「それで終わりで本当にいいの?」と云いたくなるような終わり方で、多くの読者に巨大な疑問符を投げつけながらも一応の完結を見せた。

 が、それからさらに9年、2008年になってその続編『嘘は罪』が刊行され、しかし主役が今までのシリーズの今西良でも森田透でもなく、脇役であった風間俊介となり、それだけでどうでもいいような気持ちにさせつつも、当然のように投げっぱなしで終わり「なんで続けたし!」という気持ちにさせてくれた。


『東京サーガ』にはもう一人の主役がいる。『キャバレー』シリーズの矢代俊一だ。元々世界観だけが共通している別々のシリーズだったのを、後年になって『東京サーガ』と一つにまとめたが故だ。

 こちらの方は一作目出してから十年以上放置していたのに、作者自身が本格的にピアノをやるようになってから思い出したかのように続刊が出はじめた作品なので、あまりシリーズと言う印象はない。そもそもシリーズを通じて書かれているようなものがなにもない。


 大正・昭和初期を中心としたミステリー風のシリーズ『六道ヶ辻』は、大導寺家という旧家をめぐる因縁の物語で、これも各巻完結で全六巻の予定であったが五巻まで刊行したところで放置された。五巻まで出ているのに、完結巻に行かず番外編を出し、さらに似たような話を単発物で書き、あと一冊で終わらせられるのに完結させる意思を見せることなく、中途半端に放置されたままであった。


 デビュー作となった『ぼくら』シリーズは、三部作で一応の完結を見せたが、その後『猫眼石』で栗本薫くん(これは作者と同名の主人公)対伊集院大介をやるなど、微妙な活躍を続けており、サブキャラクターである石森信も短編や『ハードラックウーマン』などで活躍しているため、明確に完結しているわけでもない。もっとも、これはファンサービスの範囲と云えなくもないか。


 他にも栗本薫最初の中絶長編『魔剣』(全四巻中二巻で中絶)

 一巻だけ出してなかったことになった『さらば銀河』

 角川お家騒動のあおりを食って存在自体が消滅した『バサラ』(三巻まで刊行)

 など、未完作品の多さにおいては怖ろしいものがある。

 まさに未完の宝庫。クイーン・オブ・蜜柑ストーリー。

 それが、栗本薫だった。

 いままでは「もしかしたら完結するかも……」という希望もかすかにあったが、逝去により、そのかすかな希望も潰えてしまった。


 逆になにが完結していたのかというと……

 小説June誌上で連載されていた長編やおい小説『おわりのないラブソング』(全8+1巻)

 角川ルビー文庫で出版されていた長編やおいシリーズ『レクイエム・イン・ブルー』(全四巻)

 えーと、あとなんかあったっけか?w

『好色屋西鶴』は連載だったけど全二巻だからあまり大長編と言うのでもなく、『レダ』は文庫で全三巻だけど、ハードカバーで分厚い一冊だったのを分冊しただけだし、あとは『緑の戦士』の全三巻が、連載でちゃんと終わってるくらいか。


 その完結してる作品にかぎって、出来がわりとどうでもいいと来たもんだからたまらないね。

『おわりのないラブソング』は、三巻以降、行先不明の展開がぐだぐだぐだぐだ続きまくった挙句、歴史にもまれにみるような「どうでもいい」としか表現のしようがないラストを迎え、色んな意味で涙が止まらなかった。


『レクイエム・イン・ブルー』は「若い役者がインテリヤクザに調教済み」というのをやりたかっただけのホモポルノで、エロシーン以外になんのストーリーもなく、更年期障害を迎えたおばさんの自己性欲満足小説としか読めず、存在自体がおれを落ち込ませた。


『好色屋西鶴』は「好色屋と云いたかっただけちゃうんかと」という内容だし、『緑の戦士』は、まあ普通だった。良くも悪くも。まあ緑の戦士はヨシとしよう。セーフだ。すべりこみセーフ。

 だけどその前の三作でスリーアウトだ。チェンジ! チェンジ! くそ! だれか代わってやれよ栗本薫の中の人! チェーーーンジ! あっ、三回チェンジしたらヤクザが来たでござる! そのヤクザがインテリヤクザで実は隠れMなら薫的におk!


 著作数三百冊超、などと云えば聞こえはいいが、その著作の数々を思い返せば返すほど、忸怩たる思いが胸のうちからこみ上げてきて苦いものでいっぱいになる。これはなにもつい先ほど追悼として食べた薫の特別レシピ「コンビーフ炊き込みごはん」が、さしもの油ゲテ好きのおれにも耐え切れぬほどアレな逸物だったからではない。ないと信じたい。

 しかし本当にアレだった……


「どんなものでも揚げればうまい」という格言を信じるほどに、油信仰の強い俺ではあったが、コンビーフという、それ単品で多量の脂を含んだ食品をご飯と一緒に炊き込み、あまつさえバターまでも投与するという傍若無人ぶりは、ふりかけられる紫蘇やパセリの与えうる爽やか度数の限界をはるかに超越し、そもそも米とコンビーフとバターと紫蘇というそれぞれの素材が、まったくもって調和することなく激しく自己主張をくり広げたまま口中から胃へと激しく舞い降りていく様は、落雷のごとき衝撃を内蔵に与え、こみあげる思いはいつまでも苦く大人の階段を登りつめていくのだ。


 さらに心身にそこまでのダメージを与えておきながら、栗本薫の提示する本来のレシピではなんとコンビーフの量が三倍であると云う現実を前に、おれは「私にはあと二回変身が残っています」と告げられたときのM字ハゲのように、未知なる恐怖にふるえることしかできないのであった。

 つうか人間の食い物じゃねえだろ、これ。

 まず見た目からしてグロイだろ。なんだよこの赤黒いコンビーフ色に染まった米は。直感で本能で野性で「食いたくねえ」という信号を受信したよ。「喉が渇いたらコーラ」とかいって、部屋にペットボトルが散乱してるようなやつすら生ぬるい。

「喉が渇いたらサラダ油」といってボトルからごきゅごきゅ飲むようなやつのための食い物だよ、これは。

 こんなものを喰ってたら、だれだって巨デブになるし、早死にもするわいな。

 薫はほんっっっっっっっっっっっと~~~~~に味オンチだったんだな~。

 まあ、味オンチでなければ、三年間べつに好物でもない変な弁当を食べつづけるなんて儀式を成し遂げるはずもないか。

 問題は、そのことに対する自覚症状がなかったことだよなあ(なかったんだよね?)


 味オンチだけじゃなくてさぁ、薫ってば、たいていのことはオンチだったよね。

 あれだけ目立ちたがり屋なのに全然歌わなかったから、普通の意味でも音痴なんだろうし(薫ファンだった友人が「イシュトヴァーンの『笛は上手いけど歌は下手』という設定は本人のことだよね」と云ってて納得した)、味オンチは見ての通りだし、自転車に乗れないほどの方向オンチだし、ずっと漫画書きつづけてたのにはしにも棒にもひっかからないくらい絵は下手だし、幼年期の話聞いてても漫画と小説の話ばっかりで友達の話なんてびっくりするくらい出てこないし、「もてたもてた」と云いながらモテエピソードは大学時代の彼氏一人だけだし、結局ふられてるし、顔はご覧のとおりだし(太らなければ愛嬌のあるいい顔だと思うけどね)、本当にもう、栗本薫は、いやさ山田純代さんときたら、何ひとつ持っていなかった。

本当に、本当に、なにももたずなににも恵まれず誰をも愛さずゆえに誰にも愛されず、およそ最低の人生でしかなかった。

 ただ一点、小説が上手いという部分をのぞいては。


 その小説の上手さですら、本人が誇っていたような先天性の才能ではなかった。

 果てしない読書量の果てに生まれた狂おしいほどの現実逃避力。

 現実への背反と、都合の良い妄想に彩られた、どこかで見たような世界たちによるパッチワーク・ワールド。

 一人の無様な少女の築き上げた、砂上の、しかし堅牢なる城砦。

 それが栗本薫の世界だった。それが栗本薫の小説だった。

 本物なんて、なにもなかった。

 多くの体裁を取った。多彩なジャンルを書いた。

 ファンタジーを書いた。ミステリーも書いた。SFも書いた。恋愛小説も書いた。ホラーも書いた。時代小説も書いた。単なるホモポルノも書いた。なんでも書いた。なんだって書けた。でも本当は、たった一つのことしか書けてなかった。どんな物語も、一皮剥いてしまえばたった一つの事をしか主張していなかった。


 私はここにいる


 だれにも望まれぬ無力な少女の無力な叫びしか、なかった。


 ああ、だからこそだ。

 だからこそ、栗本薫こそがおれの……いや敢えて勝手に云わせてもらう。

 だからこそ栗本薫は私たちの師であり、代表者であり、救世主だったのだ。

 私たちは、無様でなにも持たぬものだったからこそ、栗本薫を必要としていた。

 上手いとか、下手だとかではない。

 新しいとか、古いとかでもない。

 面白かったとか、つまらなかったとかですらない。

 必要だった。

 私たちには栗本薫が必要だったのだ。

 本当に、あの頃の私たちには、栗本薫が必要だったのだ。



 さよなら栗本薫

 ……なんて題してますけど、ちっともそんな気持ちはないんですけどね。

 いや「栗本先生は今もこの胸に息づいている」とかALIVEなことを云っているわけでもないんですが。


 率直に云ってしまえば。

 以前、三年前(もうそんなにもなるのか)お茶会に行ったときにも書いたように、自分の中ではとっくの昔に「栗本薫」は死んでいた。 死んだものを「死んでいない」と誤魔化しつづけていた。その事実に、三年前に気づいた。

 厳密に云えば、おれがファンになった1994年、まさにその頃、作家「栗本薫」は衆人環視の中でひそやかに死んでいたのだ。

 あとに残ったのは「栗本薫だった人」、ただそれだけだ。おれは三年前、その棺桶を開けて覗きこんで来た。それで、やっと気づいた。認められた。もう栗本薫は死んでいるし、死んだものは帰ってこないのだ、と。時々、蘇る夢を見ることが、ないわけではなかったけれども。


 だから、昨日死んだのは「栗本薫だった人」であり、一個人「今岡純代さん」でしかない。

 かつて「栗本薫だった」ことに対する感謝とぬぐいきれぬ忸怩たる思いはあれど、「栗本薫」の死に対する悲しみだの驚きだのというものは、ない。

 大げさに云ってしまえば、自分は『朝日のあたる家』最終巻でとてつもなくがっかりした2001年から2006年までのおよそ五年間、ずっとお通夜を続け、お茶会に行ってからの三年弱、ずっと葬式を続けていたようなものだ。驚く道理もない。

 だから今の気持ちは「さよなら、栗本薫」ではなくて「さよなら、今岡純代さん」というのが本当のところだ。もっと気安く「バイバイ、純代ちゃん」くらいかもしれない。


 純代ちゃんはちょっと自己中で人迷惑で口うるさくてデブでチキンで言い訳がましくて人の気持ちがわからないお騒がせキャラだったけど、そんな純代ちゃんのこと、そんなに嫌いじゃなかったぜ? 別に好きでもなかったけどね。

 だって純代ちゃんがそんなにどうしようもないからこそ、栗本薫は十数年の間、この世に生きることが出来たのだものね。


 それにさ、ホント云うと、おれもそうなんだよね。

 おれも自己中で言い訳がましくて人の気持ちがわからなくてチキンでさ。

 人に迷惑ばっかりかけてさ。そのくせなんにもできないでさ。

 いつもゲームと物語の世界に逃げてばっかりでさ。

 それでも、自分がくだらない奴だってことを認められなくてさ。認められないのに、本当はわかっててさ。

 子供でさ。叫びたくてさ。なのに叫ぶ言葉ももたなくてさ。

 無力で、なにも持たなくてさ。

 なにもできなくてさ。

 なにもできない自分だってことにすら、気づけなくてさ。

 あがいててもがいてて無様で。


 栗本薫だけだったんだよ。

 その惨めさを全部言葉にしてくれたのはさ。

 栗本薫だけだったんだよ。

 その自己嫌悪をすら肯定してくれたのはさ。



 栗本薫っていうのはさ、純代ちゃんのなかに一時宿った、空想の友達のようなものだったんだね。

 自分が味わってきた色んな物語の、おいしい部分だけを集めて、一番自分好みに調理してくれる、自分だけの素敵な料理人。

 本当に素敵な料理人だったよ。

 栗本薫にかかれば、あまった食材でも立派な料理にかわったものさ。

 よそで「陳腐」と笑われたって。

 ただの人真似だと云われたって。

 栗本薫が純代ちゃんのために作った料理が、僕にはいつだって最高においしかったよ。

 だから僕は、純代ちゃんがうらやましかった。


 ホント云うと、あれからずいぶんといろんな物語を味わったよ。

 ぶっちゃけ、栗本薫より料理のうまい人もいたよ。

 最高の素材を命がけで調達してくる人もいた。

 新しい素材も新しい調理法もたくさんあった。

 みんな、すごく努力してた。すごい天才もいた。

 すごく驚いて、すごく感動して、すごく興奮したよ。 


 でもさ、それでも、ぼくは栗本薫の料理が、一番好きなんだな。

 ベタベタしててさ、味がくどくてさ、臭くってさ、食べてるところ見られるのが恥ずかしくて、人に云えなくて、時々噴きだしちゃうしさ、見た目も最悪で、アクが強くてさ……とろどころ手抜きがひどいのなんの……! とうてい人になんて薦められなくてさ!

 そんな、栗本薫のつくってくれた物語が、僕はなによりも一番好きだったよ……


 おれはなにより栗本薫が好きで、だから栗本薫になりたかった。

 おれが最初に出会った天才は栗本薫ではないし、おれが知る最高の天才も栗本薫ではないし、おれが出会う最後の天才でももちろんないだろう。

 そもそも、天才ですらない。

 けれども。


 おれの心の醜さを、叫び抗い戦いつづけたのは透だけだった。

 おれの心の弱さを、許し慈しんでくれたのは伊集院大介だけだった。

 おれの心に戦いを、自ら剣持て戦えと、諭してくれたのは豹頭の英雄だった。


 グロテスクなるがゆえの純愛を。醜さの果てにこそある美しさを。もてるものの不幸せを。もたざるものの幸福を。流れる時の優しさを。弱きことの祝福を。渇えることの苦しみを。満たされることの喜びを。おれの知らないあれもこれも。見えていたのにわからなかった、あの意味もこの意味も。

 すべて栗本薫がくれたものだった。

 それが祝福なのか呪縛なのかわからないほどに、純代ちゃん、おれは本当に、きみのところにいる栗本薫が欲しかった。


 おれは、作家になりたいと思っていたけれど、本当は多分、栗本薫になりたかったんだ。

 純代ちゃんが沢田研二になりたかったように、おれは、栗本薫になりたかった。

 純代ちゃんが、沢田研二になるという意味をついぞ理解しなかったように、おれも、栗本薫になるという意味を、まるで理解しないままに、そう思ってた。


 ああ、なんだっておれは、ここにこうしているんだろう?

 物語を書くこともなく?

 なにかを為しているわけでもなく?


 とにかく書け、と道場主は云った。

 よく読みよく書きよく考えろ。道場主にそう学んだ。

 書くことこそが祝福であると、道場主は教えてくれた。

 なのに今、おれはなにをしている? 


 栗本薫になりたいと、思ったのはきっと、自分だけじゃない。

 中原の世界に行きたいと、自分より強く願った人は、きっとたくさんいるはず。

 今岡純代という人を、おれより深く愛している人はいるだろう。

 けれど、栗本薫という作家を、おれより激しく愛している奴は、どこにもいない。

 どこにもいて、たまるものか。


 とっくにいなくなっていた栗本薫の肉体は、昨日に滅び、数日後には、焼けて綺麗になるけれど。

 栗本薫が残したいろんなものの欠片は、多くの人の中で良くも悪くもひっかかりを作っていて。

 その中で、一番大きな欠片を残されたのが自分だと、それくらいはエゴイスティックに思い込んでもいいだろうか?

 おれの生まれた年に栗本薫がデビューして、おれが著作に出会った頃から栗本薫が衰退した、そんなささいな事に、少しくらい自分勝手な意味を見出してもいいのだろうか?


 書きつづけることの美しさと。

 書きつづけることの醜さを。

 同時に見せつけてくれた栗本薫さん及び今岡さんちの純代ちゃん。


 あなたがくれたものは大きくて。

 あんたのせいでなくした物もいろいろ多すぎてw

 愛しているのか憎んでいるのかそれすら通り過ぎてどうでもいいのか、最近なんだかよくわからなかったけど。

 やっぱりこれからは、栗本薫分を自家栽培でなんとかしていくしか、ないのかもね。


 なんだか何を書いているんだかわからなくなっても来たけれど。

 ともかくは。


 さよなら、おバカな純代ちゃん。

 ありがと、ぼくらの薫くん。


 あの世で元気に油メシ食って、たまには他人の本でも読んで、もっといい妄想、紡いでくれよ。もう見栄張るのはやめて、素直な気持ちで書いてけよ?

 こっちはこっちで、元気に妄想紡いでいくからさ。

 日本最初のプロ同人作家・栗本薫におれから送る、これが最後のアイ・ラブ・ユー。


 ほんとは結局、みんな「栗本薫」が、好きだったんだよ。

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栗本薫 全著作レビュー 浜名湖うなぎ @unasama

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