わたしの家族を紹介します
RAY
わたしの家族を紹介します
★
『――何とかここまで来れた』
カクテル光線に
小高いピッチャーズマウンドに立つわたしは、肩で息をしながらアンダーシャツの袖で額の汗を
九回裏ツーアウト、ランナー一塁・三塁。得点は二対一。カウントはツーボール・ワンストライク。
辛うじてリードしているものの一打出れば逆転サヨナラの大ピンチ。
ロジンバックをポンポンと
目に入りそうな前髪を帽子の中へ押し込むようにかき分けたわたしは、
右バッターの外角低めへのシンカー。引っかけさせて内野ゴロを打たせるのが狙い。バッティングカウントで打ち気に
『気が合うじゃない』
間髪を容れず、わたしは首を縦に振る。
もともと直球による力勝負は苦手で、多彩な変化球で打たせて取るのがわたしのピッチングスタイル。中でも、バッターの手前で左右に揺れながら落ちるシンカーがウイニング・ショット。
これまで、父のサインに首を横に振ることが多かった。
性別による考え方の違いに加え、互いの強情な性格が少なからず影響しているのだろう。まさに「この父にしてこの娘あり」といったところだ。
そんなわたしたちだったが、不思議とここ一番では投げたいボールと投げさせたいボールが一致した。きっとどこか通じ合っている部分があるのだろう。
キャッチャーマスクの下の黒ぶち眼鏡の奥で、キラリと光る真剣な眼差しが見て取れた。
★★
右足をプレートに乗せて胸の前でセットしたわたしは、正面の三塁ランナーを視線で牽制する。そのとき、三塁ベースにぴったりついている
アクシデントが起きたりピンチに立たされたとき、母の顔を見るとなぜか心が穏やかになる。普段から口数が少なく、いつも笑顔を絶やさない母。その笑顔に何度助けられたことかわからない。「大丈夫。あなたなら抑えられる」。そんな声が聞こえてくるようだった。
「しっかりしろ! バッター、ビビってるぜ!」
背中から野次にも似た、大きな声が飛んできた。
左肩越しに一塁ベースの方に目をやると、ランナーを牽制するようにミットをポンポンと叩く、
「ピッチャーはただでさえナーバスなんだよ。プレッシャーかけるようなこと言っちゃダメでしょ?」
そんな兄に対して、
初めて兄が義姉を家に連れて来たとき、わたしは恐ろしい形相で彼女を睨みつけていたらしい。「らしい」と言うのは、そのことは後になって義姉が笑いながら話してくれたから。
口では二人の結婚を祝福するようなことを言っていたわたしだったが、無意識のうちに「小姑」に成り下がっていたようだ。
ただ、今はそんな
表裏の無い、さっぱりとした性格でいつもみんなのことを気に掛けてくれる義姉に、わたしは心から感謝している。本当の姉以上に慕っていると言っても過言ではない。
「一点とられてもまだ同点だよ。気楽に行こうね」
二塁ベースの方から義姉の穏やかな声が聞こえてくる。
その声を聞いて気持ちが楽になった。義姉の言葉はまるで魔法の呪文のようだ。顔を見なくても義姉の表情が見えるようになったのはいつからだろう。
「あのさぁ。俺、腹減ったんだけど。さっさと終わらせて飯食いに行こうぜ」
投球の間合いが長いのに
大学生の弟は、はっきり言って常識に適っていないところがある。良く言えば「今風」、悪く言えば「ちゃらんぽらん」。特に、わたしへの言葉遣いや態度がなっていない。
ただ、裏を返せば、それはわたしを特別だと思ってくれている証拠。
どんなときも、わたしにとって弟は「憎めない存在」。
★★★
わたしの後ろを守る四人はとても頼もしく、その存在はとても心強い。
プレートを外して三塁に軽く牽制球を送る。
笑顔の母からボールを受け取ったわたしは、肩越しに一塁ランナーに目をやった。リードがかなり大きい。代走で起用された選手だけに足には自信があるようだ。兄が緊張した面持ちでファーストミットをわたしの方へグイっと突き出す。
セットポジションに入ったわたしは、グラブの中でシンカーの握りを確認する。そして、小さく息を吐いて父の方へ目を向ける――と、そのときだった。わたしの目に見慣れぬサインが飛び込んできた。
父の人差し指が一塁の方向へ小さく曲がる。
条件反射のようにプレートを外すと、素早く一塁へ牽制球を送った。
ボールが兄のミットに収まったとき、「しまった」という表情を浮かべたランナーが一・二塁間に棒立ちになる。
「
父が被っていたマスクを放り投げて立ち上がる。
ランナーは慌てて二塁へ向かって走り出す。義姉が長いサラサラの髪を揺らしながら軽い足取りで二塁ベースへ入った。一塁ベースと二塁ベースを結ぶラインから少しずれた位置に立っているのは、送球がランナーに当たるのを避けるためだ。いつもながら、周りの状況が良く見えている。さらに、普段はちゃらんぽらんに見える弟もしっかりと義姉のカバーに入っている。やるときはやる子だ。
「この野郎、逃がすかよ!」
大声とともにファーストの兄から義姉にボールが渡る。
ランナーは二塁ベースの手前でブレーキを掛けると、身体を反転させ、義姉の動きを見ながら一塁ベースの方へ戻る仕草を見せる。
「往生際が悪いね。あなた、嫌われるタイプよ」
ボールを投げる素振りを見せながら義姉がジリジリとランナーを一塁ベースへと追い込んでいく。
「ピッチャー! ベースカバーだ!」
父の声が聞こえた瞬間、それが魔法の呪文か何かであるかのように、わたしの身体は一塁ベースへと真っ直ぐに動いていく。
義姉からボールを受けた兄がランナーを二塁ベースの方へ追いやる。半身になって逃げるランナーを睨みつけながら、
「これで……終わりだ!」
兄はニヤリと笑って二塁のベースカバーに入った弟に送球をする。弟の顔にも心なしか余裕が見える。
「バックホームなさい!」
突然、大きな声が聞こえた。声の主は普段無口な母。
三塁ランナーがホームに向かってスタートを切っている。父がホームベースの脇で中腰になってどっしりと構えている。
「世の中、そんなに……甘くないぜぇ!」
世の中の厳しさをほとんど知らない弟が、らしくない台詞を口にしながら右腕を大きく振った。
地を這うようなボールが父へ送られる――が、ボールが短い。ホームベースの手前で難しいバウンドになるのは避けられない。三塁ランナーが迫っているため、後ろに下がることはできない。ただ、ボールをはじけば点が入ってしまう。
弟が苦虫を噛み潰したような顔で父の顔を見つめる中、父はあえて身体をボールにぶつけるように前へ踏み込む。そして、ボールがこぼれないようにミットでプロテクターを押さえ付けた。
その瞬間、猛スピードで突進して来たランナーが父に襲い掛かった。
「お父さん!」
思わず、大きな声が出た。
ホーム上でランナーと交錯した父は、そのまま弾き飛ばされ、数メートル離れた地面に背中から叩きつけられた。
わたしの大きな目がさらに大きくなる。視線の先には、仰向けに倒れて微動だにしない父の姿があった。自分の荒い呼吸と心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。身体が小刻みに震えているのがわかった。
そのときだった。
白いボールが収められたキャッチャーミットがゆっくりと掲げられる。
間髪を容れず、上半身を起こした父がニヤリと笑った。
「アウト! ゲームセット!」
アンパイアの声がダイヤモンドに響き渡る。
今にも泣き出しそうだった、わたしの顔には安堵の笑みが浮かんだ。
気が付くと、一目散に父のもとへ走っていた。わたしだけではない。母も兄も弟も義姉も父の方へ向かっている。五つの笑顔が父を囲んだ。
「お父さん、危ないじゃない! 無茶しちゃダメっていつも言ってるでしょ!?」
気持ちとは裏腹にわたしの口から手厳しい言葉が飛び出す。
砂のついた眼鏡をタオルで拭いていた父は、視線をわたしの方へ向けながら眼鏡を掛け直す。そして、ぶっきらぼうに言った。
「たまには、父親らしいとこ見せないとな」
★★★★
そこには、純白のドレスを着たわたしの姿が映っている。
誰もいない、静まり返った控室にわたしの笑い声が響く。
「――わたしったら、こんなときにどんな妄想してるの?」
不意にドアをノックする音が聞こえた。
「入るぞ」
ぶっきらぼうな声とともに、入口のドアが開く。
入って来たのは着慣れないタキシードを身に
直前になって「バージンロードの段取りがよくわからない」などと言い出したため、わたしが直々に説明をすることとなった。本当に世話の焼ける人だ。野球以外のことは独りでできた試しがない。
「馬子にも衣装とはよく言ったものだ」
父の口から憎まれ口にも似た言葉が飛び出す。
わたしは小さく笑いながら聞き流す。口が悪いのは今に始まったことではなく、他意がないのはわかっている。
父はプロ野球のキャッチャー。正確に言えば「だった」が正しい。
二年前に引退して、今は近所の子供に野球を教えている。
プロ野球選手と言えば聞こえはいいが、一軍と二軍を行ったり来たりの地味な選手。脚光を浴びたことなどほとんどない。さらに、ここ数年は「トレーニングコーチ兼任」という肩書きがつき、選手としての出場機会はなかった。
ただ、野球に対する熱意と若手の面倒見の良さが球団幹部に買われたことで、五十代半ばまで働くことができた。かなりのレアケースだ。
わたしは野球が嫌いだ。
でも、野球については人よりずっと詳しい。女のくせに専門的なことまで知っている。それは、父の影響に他ならない。
父は職業柄、不規則な生活を続けてきた。
普通の会社員のように朝出かけて夕方帰って来るのではなく、昼に出掛けて夜中に帰ってくる。シーズン中ともなれば、土日はほとんど家にいることはなく、いっしょに食事を摂ることもほとんどない。当然、会話らしい会話もしたことがない。
シーズンオフにはトレーニングの合間に話をすることはあったが、口を開けば野球の話ばかり。幼少の頃はともかく、年頃の娘が興味を示すものではない。加えて、父の話はどこか説教じみていて「ウザイ話」に分類されるものが多い。
いつからか、わたしは父と距離を置くようになった。
「――そこで、お父さんがわたしの手を彼に渡すの。わかった?」
「わかった」
わたしの説明に父は無表情で首を縦に振る。
そのまま窓際に歩いて行くと、窓の外に目をやる。
「山田は真面目で人に対する気配りもできる男だ。ただ、野球のこととなると目の色が変わる」
父は私に背を向けてポツリと言った。
「長い目で見てやってくれ。俺にしてくれたように……いろいろ悪かったな」
鏡に映った父の背中が寂しく見えた。
その瞬間、熱いものがこみ上げてきた。
父がここへやって来たのは、その一言を伝えるためだとわかったから。
「謝らないでよ……何も悪いことなんてしてないんだから……」
わたしは喉の奥から声を絞り出すように言った。
母、兄、弟、義姉――わたしの周りにいる人たちは、一見バラバラに見えてどこかでつながっている。言い換えれば、家族として機能している。
表向きはどうあれ、司令塔である父が全体を見ていなかったら、きっと家族は家族たり得なかった。父が陰でいろいろと気を配ってくれていたことを、最近になって母から聞いた。
私は野球が嫌いだ。
でも、結婚相手に選んだのはプロ野球選手。しかも、父と同じキャチャーで野球馬鹿。
わたしも
「ねぇ、お父さん?」
父に背を向けたまま、わたしは鼻をすすりながら呟く。
しかし、父は何も言わなかった。鏡に映る背中が微かに震えている。
溢れる涙を拭うと、わたしは鏡の中の父に満面の笑みを向けた。
「家族の
RAY
わたしの家族を紹介します RAY @MIDNIGHT_RAY
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