登場人物紹介

安倍晴明あべのはるあきら(921~1005)

・父は安倍益材あべのますき大膳大夫だいぜんだいぶ:宮中の料理に関する諸事を任された役職)かつては栄えたものの、現在では貧しくなった家の出であり、大舎人おおとねり大内裏だいだいりの雑用人)として出仕している

・平凡な風采ふうさいであり、また皮肉屋というか、愚痴が多い性格が災いしてか、多くにはあまり評価されていない、凡庸な人柄。しかしながら陰陽道に関しては、優れた瞳力と危機でこそ冷静に振舞える胆力があり、その才を師の賀茂忠行かものただゆき保憲やすのりなどからは高く評価されている。

・家が貧しいためか、節制に口うるさい守銭奴しゅせんどであり、それが過度に表れることもあることから小物のような雰囲気を持つ。ただ、人並みの矜持は持っており、時にはそのこだわりを捨てて直情的に動くこともある。


[史実では]

・本物語・また伝説においては、師である賀茂忠行および保憲から陰陽道をされています。ただ、史実の彼の前半生は謎に包まれています。一説には若い頃は大舎人おおとねりだったというものがありますが、これも後世の書物の記述であり、確証はありません。


・彼が歴史に足跡を刻むのは、天徳四(960)年に起こった内裏焼失事件において、焼損した霊剣の文様について意見を上奏したのが最初とされています。この時、晴明は40歳。このことは、後に彼自身が語ったという内容の史料の記事から確認することが出来ます。


・その後、晴明は陰陽師としての活動を活発化させ、天禄三(972)年には、陰陽寮(陰陽道の役所)の天文博士てんもんはかせという重役につきます。それ以降、彼は蔵人くろうど陰陽師や主計権助かずえごんのすけ備中介びっちゅうのすけなどの役職を歴任します。そんな中で、彼の陰陽師としての様々な活動は、当時の貴族の日記からも確認できます。


※天文博士……天文道てんもんどうの長官にあたる官職。天文道とは天文・気象に関する諸現象を観察し、その変化によって吉凶を判断するという当時の学門の一つ。また、陰陽寮の学科の一つでもありました。陰陽寮の学問は、天文道の他、主に陰陽道(卜占ぼくせんなど)、暦道れきどうなどがありました。


・彼が行なった活動に関するエピソードは種々あり、枚挙まいきょの暇がありません。晴明は寛弘二(1005)年に85歳で死去しますが、その一代で陰陽道の大家たいかとしての地位を確立させたことから、後の世に様々な伝説を残しました。その多くは創作ですが、当時から彼は「陰陽の達者なり」と言われており、その道の第一人者であったことに違いありません。




賀茂保憲かものやすのり(917~977)

・父は賀茂忠行かものただゆき。陰陽道の第一人者的な存在である父親を追い、若くして陰陽寮の重役を担っている。

・公明正大で品行方正、さらに陰陽道において優れた才覚・技量を持っており、上下から重宝・信頼されている。憧憬や畏敬の念を集めているが、その人となりが気さくで温和なことから人望も厚い。

・晴明のことを弟同然に気にかけており、彼の不遇を心配している。一方で、自分では手が及ばないところへ手を伸ばすことが出来る彼を重宝している。


[史実では]

・賀茂家が陰陽師の大家として歩み始めた時期に、その二代目として生きた人物が保憲です。彼は当時においては、若くして驚異的な速度で役職や官位の昇進を重ねました。一説には、僅か二十代で暦博士れきはかせに上り詰めたという話もあり、晴明と四つしか齢が違いませんが、とても優秀な才人であったことが想像できます。


・その驚異的な昇進により、ある時自分の官位が父・忠行を追い越してしまうことが起きたそうです。これに対し、保憲は父の官職を自分より上にしてもらえるように願い出た、というエピソードが残っています。彼の性格をうかがわせる逸話です。


・陰陽師として卓越した才能を持っていたのは確かであり、またその人格面でも慕われていたようです。というのも、彼の死後に晴明と保憲の子息である賀茂光栄かものみつはるが、どちらが保憲から愛情を注がれていたかどうかの口論をしたという逸話が残っているためです。


・保憲は貞元二(977)年に61歳で死去しました。彼の亡き後の賀茂家は長子の光栄が継ぎ、賀茂家は暦道に関する諸事を司る家へと発展していくことになります。これに対し、晴明の安倍家は天文道を世襲していき、二つの家が代々陰陽寮の重役を担っていく体制が構築されました。




賀茂保胤かものやすたね(934?~1002)

・賀茂忠行の次男で保憲の弟。後に「慶滋よししげ」という姓を名乗る。

・まだ少年でありながら気配りや頭の回転が速く、同世代より大人びているだけでなく、兄に似た温厚篤実な性格をしている。兄と同じ陰陽道の訓練を受けているが、当人はその道よりも唐土もろこしの書物などへの興味の方が強い。

・晴明のことを雑人と見下すことなく、親族同然・第二の兄のように慕っている。また兄より彼の事情にも精通しており、時折節介を働かせることもあるという優しい心根を持った少年でもある。


[史実では]

・陰陽道を家業とした賀茂家の人間ですが、後に彼は陰陽道を離れて文学の世界(この時代で言うと、物語系というより詩や歌の類)に身を投じていきます。「慶滋」という姓を名乗るのはその決意の固さを表わしたものともいわれます。


・研究熱心な性格であったようで、彼は若くして当時の信仰の御家元ともよべる比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ天台宗てんだいしゅうの僧侶たちと交流し、「勧学会かんがくえ」という宗教・詩学の会を開いていたようです。そこには文章道もんじょうどう(今でいうところの史学や唐の文学の研究をする学問)の多くの若者が参加したとされています。


・文章道と学生として当時の多くの文人たちと深く交流していたとされます。殊に漢詩の際に優れていたとされ、後に詔勅しょうちょくなどの起草・宮中の出来事を記録する官職である大内記だいないきという職に出世します。仏教への造詣も深く、当時一流の僧侶であった源信げんしんの影響を受け、出家して「寂心じゃくしん」と名乗ったそうです(986年頃)。


・後年には、当時極楽(天国)の世界へ往生を遂げた人間についてまとめた「日本往生極楽記にほんおうじょうごくらくき」や、当時の京の情勢などを隠棲しながら記した「池亭記ちていき」などを記します。殊に「池亭記」は、後に有名な「方丈記ほうじょうき」を記した鴨長明かものちょうめいに、隠棲文学上多大な影響を与えたとされています。




樹神こだま(生没年不詳)

・諸国を遊行して芸を見せる旅の一座のまとめ役。人間離れした美貌の持ち主。

・温和かつ慇懃な物腰の貞淑ていしゅくな女性。神が造った造形物のような美しさを備え持っており、自然と相手の警戒を解いてしまうような雰囲気がある。母性があり、一座の少女たちには母や姉のように強く慕われている。

・簡易な呪術が扱えるらしく、興行こうぎょうではそれも披露してみせる。披露する芸は完成度が高いようで、また彼女の美しさもあって大方好評である模様。


[史実では]

・架空の人物で作者の創作キャラ。この時代に旅で生計を立てるという者たちは決して多くはないと思われるが、巫女舞など神事に関する芸を披露して勧進かんじんする集団は存在しており、まったくの虚偽であるわけではありません。樹神たちの一座もそれに近い性質を持っています。



梨花りか(生没年不詳)

・樹神の一座に所属する少女の一人。

・快活で勝気な少女であるが、一方で負けず嫌いな面もあり、精神面ではまだまだ子供の部分がある。気が強い一方で理解力もあり、自分の間違いはすぐに認めることが出来るなど、幼いながらもませた一面も持っている。

・樹神同様に簡易な呪術ならば扱うことが出来る。一座の中では太陽的存在であるらしく、彼女の言葉で勇気づけられる仲間も多い


[史実では]

・架空の人物。同名の人物が古典の物語などでは晴明の妻として存在しているが、本物語で彼女がその人物になっていくのかは不明。なお、古典で登場する梨花は、晴明を裏切る悪女的な立場として登場しますが、本物語の彼女にそのような性格はほぼないです。




山吹やまぶき桃花とうかあんずうめ(すべて生没年不詳)

・梨花と同じく樹神の一座に所属する少女たち。

・樹神の一座は、少女たちの中で最年長のしっかり者の山吹、最年少で気が弱く泣き虫の桃花、元気いっぱいで一座の盛り上げ役的な杏、物静かで不思議な感じの雰囲気を見せる梅、それに樹神と梨花の六人で編成されている。

・一座は舞や音楽、それに簡易な呪術を披露することで生計を立てている。全員が仲良く、目立った対立もないことから、団結力の強い集団であることが窺がえる。


[史実では]

・この四人はすべて作者の創作キャラ。あっさりとネタばらしをすると、一座の主の樹神に対し、その構成員は皆が花に関する名前を冠しています。それぞれの名前にあまり深い意味はありません。



源満仲みなもとのみつなか(912?~997)

・父は源経基みなもとのつねもと。父の代から始まった「つわものの家」の名声を少しずつ高めている軍事貴族の跡継ぎ。

豪放磊落ごうほうらいらくという言葉が似合う明朗な人物で、またどのような身分の人間にも相応の立ち振る舞いで応対できる柔軟性も持つ。武人として相当な力量を持つ一方、したたかな計算能力や気配り・配慮も持ち合わせ、上に立つ者としての十分な素質を備えている。

・かつて保憲と仕事をした縁からか、陰陽道の術に対しても興味や造詣ぞうけいが深い。晴明に対しては、その才覚や人間性にも好奇心を覗かせている。


[史実では]

・後に源頼朝・源義経兄弟などを輩出する清和源氏の二代目に当たる人物。生年については近年異論が出ており、あるいは晴明と同年以降の生まれともされています。確実なのは、彼が臣籍降下しんせきこうか後の二代目であり、源氏が「兵の道」を家業かぎょうとしていく体制を確立した人物だということです。


・晴明同様に前半生が謎に包まれていますが、史上に初めて名を出してきた時(960年頃)の状況から、彼は一定の武力を朝廷から認可されている人物であったと推察されています。つまり、彼は謎の前半生の内に、源氏をすでに武者の勢力としてある程度は確立させていた人物だといわれています。


・そんな武家としての勢力をより確固のものとするため、彼は時の権力者である藤原氏に接近します。彼はその後、藤原氏以外の貴族の勢力を排斥はいせきしたり、藤原氏の傀儡かいらいになれる天皇を擁立しようとする藤原氏の思惑に従うなどして暗躍し、その見返りとして、家の勃興ぼっこうと地位の確立に務めました。


・一方で、彼は国守として赴いた任地で土地の開発を行ない、その中で摂津国多田せっつのくにただ(今の兵庫県)を拠点として、勃興当初の清和源氏の基盤を固めました。そこに多数の郎党やその家族を済ませ、武者としての勢力を拡大したことは、その後二百年の源氏の影響力の礎になります。


・彼個人はかなり危ない人物として貴族に認識されていたらしく、後に息子の勧めを受けて出家しゅっけ(頭を丸めて坊主になること)した際には、「あの殺生放免さっしょうほうめんの人物が改心したというのは、仏の道は偉大だな」と言われたことから、どれだけ危険な認識をされていたかが窺がえます。


・彼は当時にしては長寿といえる、86歳で死去したと言われます。決して現代まで広く名の知られる一等の著名人ではありませんが、後に一時期源氏勃興の人物として神格化されました。その副産物として、彼の業績について誇大に記述した書物「多田五代記」があり、そこには彼が如何に後の世で崇拝されたかが窺がえます。



源満政みなもとのみつまさ(生没年不詳)

・源経基の次男で満仲の弟。兄の補佐役であるとともに、彼個人も周りに一定の影響力を持つ。

・賑やかな兄とは違い、物静かで礼節を重んじる雰囲気を醸し出す。よく兄に従い、その意を確実に遂行する様は、兄弟というよりも臣下に近い関係に見られる。


[史実では]

・清和源氏始祖・経基の次男で満仲の同母弟である、ということ以外は謎が多い人物です。歴史上で史料に出てくるのは兄のそれとはおよそ三十年も後のことで、すでに老齢だったことを予想させます。それ以前の足跡に関しては、不詳・不明です。


・しかしながら武人として優れていただろうことは伝承されており、後の世では一条天皇の時代(986~10011年あたり)における優れた五人の武人の一人に名を連ねています。なお、この中には兄の満仲も含まれています。




源満季みなもとのみつすえ(生没年不詳)

・源経基の三男で満仲・満政の弟。兄たちに従う立場であり、非常によく信頼されている。

・口数少なく自分の意思はあまり見せないが、命じられた使命は確実にこなす有能さを持つ。殊に武人としての力量は重宝されており、満仲や満政らからは強い信頼を寄せられている。


[史実では]

・満仲・満政の同母弟ということ以外に、検非違使けびいしとして活動していたことが伝わっています。記録で見る限り、彼は安和二(969)年に起きた政変時、また天延元(973)年に起きた満仲邸放火事件において、彼は検非違使として主犯格の逮捕に関わっています。


・なお、満仲・満政・満季の母は以前に武蔵守であった藤原敏有という人物の娘であったことから、彼ら兄妹もその縁で武蔵守・武蔵介に任官されたともいわれます。このことから、清和源氏は関東に影響力を持つことになっていき、後の二百年後の関東地方で大きな力を持つ基盤にもなったという話もあります。




蘆屋道満あしやのどうまん(生没年不詳)

・播磨出身の隠れ陰陽師。播磨では名をよく知られている。

・一見丁寧な物腰ながら、ひどく冷たく鋭利な眼差しが印象的な人物。洞察力優れた者からは、決まってその内に秘めた攻撃性を指摘されるほどの激情を秘めた人物。しかし一方で考えが読めず、何が目的かは分からぬ謎の男。


[史実では]

・架空の人物。有名な一説には、藤原道長の時代に罪を犯して流罪にされた「道摩法師どうまほうし」なる人物が道満のモデルになったという説がありますが、その人物も謎が多く詳細は知られていません。陰陽師ファンの間では、晴明の物語において彼のライバルとして登場するのはあまりにも著名です。


・架空の存在ではありますが、彼の人物像は①播磨出身である②優秀な陰陽師で自信家③晴明のライバルでやられ役に回る、というものが多数です。近年ではその設定の型を破ったパターンも多いですが、③の晴明のライバルキャラという性質は変わらないことが多いです。



賀茂忠行(?~960?)

・賀茂保憲らの父。陰陽寮の重鎮で、寮の陰陽師たちを束ねる実質的な頭目。

・初老ながら明るく溌剌(はつらつ)とした人柄で、過度な行動には実子の保憲が困惑する場面もある。一方で、生来から持ち合わせる優れた瞳力と回転の速い頭脳で、多くを読みとり適確な判断を下す筆頭としての風格を備え持っている。

・晴明に幼少時から陰陽道の学識を与えた当事者であり、彼を息子の如く優しく厳しく当たる。事情から彼が陰陽寮に入寮出来なかったことを悔しがっており、その才覚を惜しみ、現在でも彼を陰陽師として認めさせることを諦めていない。



[史実では]

・伝説上、また本物語においては晴明などの師であるとされています。しかしながら、彼の事跡については謎が多く、絶対の確証がある史料はほぼ残っていません。しかしながら断言できることとして、彼の存在がその後の陰陽師たちに大きな影響を与えた先達であったことというのは確かです。


・賀茂家は、先祖が役小角えんのおづの修験道しゅげんどうの祖)、もしくは吉備真備きびのまきび(遣唐使の中の著名人の一人)などの説がありますが、どれにせよ陰陽道を家業として世襲するようになったのは忠行の代からとされます。なお、陰陽道を家業としたのは賀茂家が最初であったともいわれています。


・彼が最も得意としたのは「射覆しゃふくの術」とされます。「射覆の術」とは、覆い物で隠された物の中身を当てるというもので、いわゆる透視能力と思われます。忠行は時の天皇の前でそれを披露し、見事中身を言い当てたとされています(時期については諸説あり)

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平安陰陽奇譚 嘉月青史 @kagetsu_seishi

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