エピローグ 『バスジャックをしてはならない』
やむを得ずバスジャックをした場合は速やかにバスを返却しなければならない
「純、おかえり!」
まだずいぶん距離があるというのに、ミヤコは僕を見つけるとぶんぶんと手を振った。車外にはバスジャック犯全員が集まっており、太郎少年や下山以外の人も同じように手を振ってきた。見えているはずはないが、それでも嬉しくなるというものだ。広岡が一人だけ知らん顔をしていたが、それも愛嬌と思うことにする。
僕が彼らの元に辿りつくと、ミヤコはそれを誇張するように腕を開いた。気恥ずかしくはあったが、照れるのも今さらで胸の中に飛び込んで「ただいま」と言ってみる。ミヤコと太郎少年、下山が「おかえり」と返したのを皮切りに、いくつかの「おかえり」が重なった。
「黒男はどうだった?」とミヤコが訊ねてくる。
「ああ、生きてるよ。キョンシーみたいに跳ねてこっちにこないとは限らないから、早く離れたほうがいいかもね」
「キョンシーかどうかはともかくさ、あたしたちもそう思ってたんだよね。秋田駅であいつらの仲間が待ってる可能性だってあるしさ」
そうかもしれない。僕が同意を示すと太郎少年がぴんと指を立てた。
「だから、純くん。僕たちはここでバスから降りるよ」
そこで僕は太郎少年の首に傷があることに気がついた。ほくろがあった位置だ。発信器を壊したことを悟り、足下に目を向けるとばらばらになった携帯電話が落ちていた。先ほど聞いた電話番号も意味がなくなってしまったと思うと寂しさが募った。
出会いもあれば別れもある、なんてありふれた言葉は好きではない。だが、それ以外で感情を騙せる気がせず、僕は惜別の念を押し隠して笑みを作った。
「まあ、それがいいかもね。お別れになっちゃうけど仕方がない」
「あ、そのことなんだけどさ、あたしたちもここで降りるよ」
「え」
一瞬、ミヤコの言葉を理解することができなかった。「あたしたち」には僕も入っているのだと予想し、「ここで」が今この場所であると当たりをつけ、そうして文節に分解してようやく意味を飲み込む。
「え、ここで降りるの?」
「あたしの魔法見せちゃったから待ち伏せされたら危険だし、それに、少し戻れば温泉があるんだって! けっこう有名スポットだから行っとかなきゃ!」
それほどまで温泉に入りたいのか。
呆れ、閉口し、苦言を呈そうかとも思ったが、やめた。温泉はともかく待ち伏せされていたら危険であることに異論はなかったからだ。それに彼女に振り回されるのは今に始まったことではない。渋々、といった感じで頷くと彼女は年甲斐もなくはしゃいだ。辛うじて「きみはいくつになったんだっけ?」と詰るとやはり「いくつになったんだっけ」とおうむ返しにされた。「もう数えてないよ」と。その返答に老夫婦がくすりと笑った。
太郎少年の補足を聞くとどうやらしばらく行動をともにすることになっているらしい。惜別の念を返してくれよ、と考えたが、すぐに否定する。
別れなど少なくても困りはしないのだ。
僕は彼らとしばらく一緒に行動できることを素直に喜び、それから離れてしまうバスジャックの仲間たちに声をかけた。
「じゃあ、下山さん、ヤシマさん、広岡くん。ここでお別れです」
「私たちがいなければ」と一郎老人が続ける。「たぶん襲われることはないはずだ」
「そうですか……それならいいんですが」
「どうせ下山さんたちは身元ばれてるし、心配したってしょうがないですよ。あ、だからって悲観して心中はしないでくださいよ」
「きみたちは同じことを言うねえ」と下山は破顔する。「まあ、そうしようか、ユミ」
「そうですね、忠志さん」
爆弾魔の時間は終わったようで、ヤシマユミの目には淀みが戻っている。しかし、爆発を見て心が和んだのかもしれない、そこに不穏さは欠片もなかった。
最後の忠告として「離婚してくっつけばいいのに」と言ってやろうとも思ったが、その言葉は飲み込んでおいた。きっと彼らにも事情があるに違いない。「これからがんばってくださいね」と言うだけに留めた。
「ああ、また仙台に遊びに来てくれると嬉しいよ」
「ええ、バスに乗って、必ず」
それから僕は輪から外れたところにいる広岡へと目を向けた。彼はまだ涙腺の修復が済んでいないらしく、頻りに目元を拭っていた。幽霊なのだから止めようと思えば涙は止められるのだが、それを教えるのも無粋だ。無言で彼へと近づき、手を差し伸べた。彼はしばらく無視していたが、やがて僕の手を硬く握った。
「広岡くんもありがとう。きみはこれからどうするの?」
彼は決してこちらに顔を向けようとしない。「俺はここをふらふらしたら盛岡に帰るわ。地元で身の振り方を考える」
「そっか、元気でね。また会えると嬉しいよ」
僕は別れを告げて、輪の中に戻る。ミヤコの腕時計を覗き見ると時刻は十五時を回ったところだった。たった三時間半でさまざまなことがよく起きたものだ。少し疲れもあり、僕は空を仰ぐ。青い空にはゆったりと雲が流れていてこんなバスジャックなどどこにでもあるありふれた事件のようにも思えた。正確に言えばバスジャックをしてしまったことを思い出してしまったので、些細な出来事だと思い込もうと試みた。
全員が似たような思いを共有しているのかもしれない。その場にいる誰もが感慨深げに長い嘆息を漏らし、頭上を眺める。それきり沈黙が訪れ、輪の中に寂寞の混じった雰囲気が流れ始めた。
車の運行がない国道には木々のざわめきだけが満ちている。
幽霊になってからこんなふうに誰かと出会い、別れた経験がどれほどあっただろうか。僕は締めつけられるような胸の痛みを覚え、しかし、それを思い切り楽しもうとした。幽霊となった今でもまだ生きていられるのだなあ、と静かに歓喜する。
その空気を壊したのはもちろん、我が恋人である。「ところでさあ」とミヤコは大袈裟に首を傾げて、非常に現実的な疑問を投げかけた。
「ところでさあ、これから誰がバスを運転するの? 下山ちゃん、無理なんでしょ?」
「え」と僕が戸惑い、「あ」と下山が顔を引き攣らせる。視線を下げると、精神はともかく身体が大立ち回りをしていたせいか、彼の膝が笑っていることに気がついた。爆笑、と言ってもいいくらいで運転の続行が困難であることは訊くまでもない。訊くまでもなかったが、一縷の望みをかけて、僕は訊いてみる。
「えっと、下山さん、運転は……」
「あ、そうだね、無理だと思う」
そんなに簡単に言わなくてもいいじゃないか!
僕はいやな予感に泣きそうになりながら「広岡くん」と彼の背中に視線を送った。しかし、即座に「こんな状態でできるわけねえだろ!」と返されてしまい、取り付く島もない。「泣いてはないんだよね?」と確認すると「泣いてはねえよ」と嘘を吐かれ、絶望的な気分が膨れあがった。暴走族の幽霊に対し、きみはいったいどんな状態に陥っているんですか、と皮肉を言う勇気はなかった。
いよいよ不安感に質量が生じ始める。
下山と広岡を除くとこの中で大型バスの運転経験があるのは僕だけだ。だが、かといって他の人が温泉で足を伸ばしている最中、慣れない運転に従事するのはごめん被りたかった。
彼らはじっと僕を見つめている。必死で拒否したが、対案を求められる始末だ。答える責任などないというのに力強く迫られてしまい、僕はミヤコに泣きついた。
「ミヤコ、きみからもなんとか言ってくれよ」
「わかってるってば!」と彼女は語気を荒らげたが、その気勢もすぐにしぼむ。考えるのが億劫であったに違いない。口から出てきたのは平坦な口調による冷酷な宣告だった。「純、まずいよ、これ。純が温泉行けなくなる」
「そうか、きみは僕をおいて温泉を楽しむつもりなんだね」
「まあ、それは冗談だけどさ。これは困ったね、ここで休憩するのはまずいだろうし、逆ヒッチハイク、みたいなのも……」
「非現実的だね」
超人機関によってまだ規制されているのか、周囲には車は一台も走っていない。もちろん走っていたとしても「この車を運転してくれますか?」という依頼を快諾する人は幽霊や超人よりも珍しいだろう。やや人道的な花子夫人が手を挙げ「私がやりましょうか? 少し練習すればできると思います」と立候補したが、それも本末転倒である。そもそも待ち伏せから逃れるためにバスから離れる算段だったのだ、賛同する者は誰もいなかった。
つい先ほどまで空を見上げていたというのに、今度は全員が地面を睨んでいる。アスファルトに答えが書いているわけもなく、焦れったくなるほどの時間が過ぎた。
そのとき、乗降口から「どうしたあ?」と脳天気な声が響いた。待ちくたびれたのか、ヒロトがバスから降りている。彼は手に持ったビニール袋を振り回しながら、しれっと輪の中に加わった。
「何か困りごと? 手伝おうか?」
無邪気に胸を張るヒロトに大人たちは言葉を濁し、押し黙る。言わずもがな、僕もミヤコも同じだ。子どもである彼に事情を伝えたところで何も進展しないし、むしろ大いに騒ぎ立てられて乗客たちに不要な動揺が広がってしまうと容易く想像がついた。
どうごまかそうか、僕たちは大人としての配慮で顔を見合わせる。運転はできないものの責任者は下山だ。注目が集まると彼も観念したのか、渋い顔で口を開いた。だが、なかなか言葉が出てこない。もちろん責めるべき事柄ではなく、同情すべき懸案ではある。
問題はバスジャックの中に子どもが混じっていたことだった。大人たちの機微を無視した太郎少年は、ヒロトに対して正直に状況の説明をしてしまった。
「このバスを運転できる人がいないんだよ。運転手も限界なんだって」
「え? それはすごい困ってそう」
ヒロトの表情は他人事のようでもあり、深刻さを理解しているようでもある。彼は「うーん」と唸りながらビニール袋をまさぐった。何をするのかと思えばタバコの箱を取り出している。呆気にとられていると彼は慣れた手つきで箱から一本、タバコの頭を飛び出させ、それを咥えた。
「おれ、運転してもいいけど、どうする?」
その場にいる全員が固まった。生意気な口調に、ではなく、小学校低学年の子どもがタバコを咥えている光景に絶句しているのだ。親の教育はどうなっている、とじわじわ怒りが湧いてきたところで、ヒロトは顔を顰めてポケットを叩いた。
「あれ、火がない」
「ちょっと! あんた何してんの!」
ミヤコの動きは素早かった。目を吊り上げ、ヒロトの口にあるタバコを奪い取ると、不満そうにする彼に拳骨をお見舞いした。呻き声が上がったが、彼女の説教は続いている。
「子どもがこんなの吸っちゃだめだって。あんた、お母さん呼んできなさい」
「母親は実家にいるよ」
「はあ? 一緒に乗ってたでしょうが」
「あれは……ああ、ごめん。そっか、忘れてた」
何を忘れてたというのだ?
苦笑するヒロトはおもむろに両手を前に出し、ぱん、と打ち鳴らした。脈絡のない動作にミヤコは再び怒鳴るべく、息を吸い込む。
次の瞬間、彼女はその息を飲み込んでしまっていた。
僕も、いや、おそらくその場にいた全員が目を疑っている。つい今まで大人ぶっていた男児は消え失せ、目の前に二十代後半と思しき男が現れていたのだ。髪はよれよれで無精髭が生えており、仙人と見紛うような風貌をしていた。男はミヤコの手にあるタバコを失敬して、咥え直し、ヤシマユミにライターを要求した。
「そういえばさっき貸してたよな」
「え、あ、はい」
ヤシマユミがおずおずと差し出したライターを受け取り、男は礼とともに着火する。タバコの先端に火が灯り、煙が緩やかに立ち上った。
「改めて、はじめまして、ヒロトです。トシコは母親じゃなくて婚約者だよ。で、俺、常識は持ってないけど、大型二種免許は持ってるんだ」
記憶から前例や近似のエピソードを探す。だが、ままならない。思考が飽和している。サーチライトが焚かれ、その数があまりにも大量だったせいで逆に視界が遮られる、そんな感じだ。超常に慣れきっているはずの僕でさえ戸惑っており、そうなると閉鎖的環境にいた超人であるとか爆弾魔であるとか霊媒体質者にとっては到底信じられないのだろう。彼らは真顔で佇み、まばたきを繰り返していた。
本当にヒロトなのか?
抱いて当然の疑問を、しかし、僕は手放しそうになっている。理由は簡単だ、男が手を叩いた瞬間、乗車したときからずっとつきまとっていた違和感が消え去ってしまったからだ。言いようのない奇妙なずれが解消され、不気味な爽快ささえ感じていた。
真実を補強するように、バスからトシコが顔を覗かせる。
「ねえ、ヒロトくん、大丈夫?」
「大丈夫だと思うけど、なんか信じられてない」
「当たり前じゃない。初めからその恰好でいればよかったのに」
トシコは男を窘めたあと、謝罪するかのように頭を下げた。その所作には一切の淀みがなく、むしろ「いつもこうなんですよ、すみません」と手を焼いている雰囲気が伝わってきた。
本当に、この男はヒロトなのだ。
その現実を受け入れつつ、じっと彼を見つめる。子どもから大人に変わっても僕の姿は見えたままらしい。彼は質問を促すように眉を上げた。
僕は、慎重に訊ねる。
「ええと……魔法、とかそういうのですか?」
「んー、まあ、魔法って呼んでも別にいいよ。呼び方なんて重要じゃない。魔法でさ、認識を歪めてたんだ。人間の脳なんて騙すのは簡単だからな」
「いやいやいや」とミヤコが困惑をぶつける。「どういうこと?」
「どういうことって……ネエちゃん、自分で言ってたじゃん。『目に見えるものだけが真実とは限らない』、『変装の達人かも』って。忘れたの?」
「言ったよ、言ったけどさ、そういうレベルじゃなくない?」
「そりゃ達人にもなるとなあ。達人なんだから子どもに見せかける、なんて楽勝だよ」
ヒロト――であることは認めよう――はタバコを咥え、深く煙を吸い込んだ。酸素を得た灯が赤みを増し、紫煙がくゆった。どう見ても成人男性ではあるが、かすかに小学一、二年生ほどだった男児の面影が残っている気もした。もちろん、言われて初めて気付くくらいのものだ。
場には奇妙な静寂が生まれている。今日一日でどれだけ異常な事態がこのバスで起きただろう。すべてが一段落したと思い込んでいたバスジャックたちはさぞ油断していたに違いない。もう打ち止めだ、と緊張が解けたところで叩きつけられた荒唐無稽な魔法はいつまで経っても真実として浸透する気配がなかった。
ヒロトは疑いの眼差しが向けられていると承知しており、また、そこには魔法使い特有の諦念や納得を窺わせた。これ以上言葉で説明しても意味がないと悟ったのか、彼は一度バスの中に戻り、老婦人を連れ出してきた。老人四人グループのうちの一人だ。老婦人は「どうかしたの?」ときょとんとしながら僕たちの前で立ち止まった。
「なあ、バアちゃん」ヒロトはやや横柄な態度で訊ねる。「今日、何があった?」
「今日? やあねえ、どうしてそんなこと聞くのよ。まだボケちゃいないわ」
「いいからさ、やっぱり話が上手そうな人から聞きたいじゃん」
あらそう、と老婦人は気をよくし、バスの中であった出来事を掻い摘まんで語った。ここに集まっているのは当事者だ。銀行強盗の話から始まり、超人機関の追っ手たちが来るまでのことに新しい発見などなかった。
「ちょっと、あんた、何がしたいの?」
「まあまあ」
ヒロトはミヤコの抗議を手で遮り、再び、ぱん、と柏手を打った。それからやや間を置いて再び老婦人に訊ねる。
「ねえ、バアちゃん、こんなときだけどさ、今日何があった?」
今し方したばかりの質問だ。だが、老婦人は不快な表情一つせず、答える。
「今日? 今日はお昼前にバスだったからその前にお土産買っただけですよ。パーキングでも特に何もなかったし……それがどうかされました?」
僕は言葉をなくした。まるで記憶を消されたかのような反応に目を瞠る。老婦人は「この問答に何の意味があるのだ」と言いたげな、不思議そうな表情をしていた。ごめんごめん、と軽く謝りながらヒロトは老婦人をバスの中に戻す。一度手を叩いてから戻ってきた彼は満悦そうな顔で肩を竦めた。
「信じた? 認識を曲げたらこんなこともできるんだよ。なんなら今から俺もバスジャックの仲間に入れてくれよ。そしたらみんなハッピーだ、怖いことは何にもなかった。バス会社にも苦情は行かない……まあ、元々クレーマーはいなさそうだけど」
目の前で起きた事実を咀嚼しているのか、誰も言葉を発しなかった。もしかしたら驚きの中に恐怖が混じっているかもしれない。手を打ち鳴らすだけで記憶さえねじ曲げられる彼の魔法は見ようによってはミヤコの魔法よりもずっと強力だ。
その反応が不満だったのか、ヒロトはあくまで軽妙な口調で続けた。
「いやいや、そんなしゃちほこばるなよ。だいたいニイちゃんも言ってじゃんか。『人生はめちゃくちゃ』だって。こんなバスだぞ? 魔法使いがもう一人乗ってたって不思議じゃないだろ」
「……わかった、百歩譲ってきみはヒロトくんで、大人で、魔法を使えることは認める」
「それ、三百歩くらい譲ってるだろー」
「でも、なんでわざわざ、その、『変装』してたの? それにその力があればいろいろすんなり解決できたかもしれない」
「そうだなあ」とヒロトは顎に手を当てる。「何で変装してたかは簡単だよ。子どもの姿なら騒いでもトシコといちゃついても大丈夫だろ。そんな時間なかったけど」
納得はできないが、一理はある。大人同士がいちゃつくのは子どもと大人がじゃれ合うのに似ている。そして、似たような行為であっても行為者が違えば周囲の捉え方は異なるのだ。もし若いカップルが公衆の面前でいちゃついたならば不快に思う人も出るだろうが、子どもの姿のヒロトとトシコがじゃれているのは微笑ましいと捉えるのが一般的な意見とも言えた。少なくとも前者よりは許されやすい。
「で」とヒロトは続ける。「何で協力しなかったかって言えば、理由は二つかな。一つは『困った』って言われなかったこと。ニイちゃん、いつまで経っても助け求めなかったし」
「そんなの当たり前じゃないか」
「で、もう一つは怖かったからだよ」
平然とそう嘯いたヒロトを、僕は強く睨んだ。
「怖かった? そんな力を持ってるのに?」
「そりゃそうだろ、銃を持ったやつと、爆弾仕掛けたやつと、ライフル持ったやつだぞ。最後のなんて俺の力じゃ勝てっこない。だから本当に怖かったし、立ち向かったあんたらにはすごい尊敬してるんだ。これはそのお礼みたいなもんだって」
納得できるような、できないようなあやふやな気分だ。
だが、確かに言えることが一つだけあった。このヒロトという男は嘘を吐いていない、ということである。さほど根拠はないものの彼の目の光には信用にたる何かがあるような気がした。もしかしたらそれも彼によって歪められた認識かもしれないが、それならそれでもはやどうすることもできない。
「ミヤコ、どう思う?」
「いい奴か悪い奴かは別にして、好きじゃない。手柄を横取りされてるみたいだし」
「ひでえ」とヒロトはけらけら笑う。「まあ、それについては否定しないな。バスジャックは何か要求しなきゃいけないんだろ? じゃあ俺は手柄を要求する!」
そうおどけるヒロトの態度に僕は疲弊し、追及を打ち切ることに決めた。天衣無縫というか、自由奔放というか、とにかくこれ以上つついても彼の真意を引き出せる気がしない。また、運転してもらえるなら異論を唱えるのもおかしな話だ。
「わかった、じゃあもう任せるよ」
「純、いいの? こいつ、やばい奴かもしれないじゃん」
「そうかもしれない。でも、よく考えたら、僕、彼と何度か話してるんだよね。悪い人がさ、『困ったら言ってくれ』なんて口にしないと思うんだよ」
「悪いやつの常套句の気がするけど」
「そのときはそのときかな……。僕ももう善良な、正義の幽霊でいるのは疲れたんだ。悪事を見逃す浮遊霊になってもいいでしょ」
投げ遣りにそう言うとミヤコはしばらく悩んでいたが、最終的には頷いた。「さっさと温泉に入って身体を癒やそう」と両手を挙げる。
とりあえず話はまとまった。その頃には他のバスジャックたちも正気を取り戻しており、僕は下山に視線を向けた。
「下山さん、彼が運転することでいいですか?」
「ああ、構わないよ。あ、でも免許証だけ確認させてほしいかな」
「オッケー」とヒロトは尻ポケットから財布を取り出し、免許証を誇らしげに掲げる。確かに大型二種の記載があり、認識を曲げられたような気配もなかった。確認を終えるとヒロトはバスへと駆け込んでいく。広岡も肩の荷が下りたらしく、別れを告げて去って行った。「じゃあな」とか「またな」ではなく、「お疲れ」と残して彼は盛岡方面へと進んでいく。全員で後ろ姿を見送ってから下山とヤシマユミは僕たちの方へと向き直った。
「じゃあ、今日はいろいろありがとう。またいつか会えるといいですね」
「私からもありがとうございました」
「ええ」と花子夫人が手を振る。「長生きしてね」
僕たちは思い思いに挨拶を送る。二人は寄り添いながらバスへと歩んでいき、乗降口の手前で思いついたかのように振り返った。
「お忘れ物がないよう、今一度お手元をお確かめください」
あ。
僕たちはいっせいに噴き出し、そうだったそうだった、とバスへと戻った。一郎老人と太郎少年はトランクルームを開け、僕たちと花子夫人は車内へとステップを昇った。と言っても手荷物などさほどない。ミヤコはリュックサック一つで、花子夫人も片手で済む程度だ。それでも名残惜しさから念入りに座席を確認してから車外へと向かった。
花子夫人がぺこりと二度、運転手と乗客たちに頭を下げ、バスを降りる。続こうとしたところで、胸の痛みを感じ、僕は運転席の隣で立ち止まった。少し悩んだが、自分に嘘を吐けそうにない。運転席に座るヒロトに一つ、頼み事をすることにした。
「ねえ、ヒロトくん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「お、なんだ?」
「乗客の記憶、消す前に確認してもらってもいいかな。もし記憶を消されたくない人がいたら寂しいと思って」
幽霊の主成分は思い出だ。それはもちろん僕にだけあれば十分なものなのだけれど、欲張ったっていいだろう。一緒に旅をした人と共有できるなら思い出の価値が増す。ましてや僕はバスジャックだ。そのくらいなら要求していいのではないか?
僕のエゴに、ヒロトは薄く微笑む。そして、「そんなことか」とすぐさまマイクを握った。
「えー、皆様、突然ですがアンケートです。本日あった出来事を忘れたくない、という奇特な方はいらっしゃいますか?」
彼の声が車中に浮遊する。
質問の意味を掴めていないのだろう、乗客たちはしばらくぽかんと口を開けていたが、やがてぽつぽつと手が上がり始めた。怖い思いを味わわせてしまったはずだ。にもかかわらず誰もが興奮を滲ませた笑顔を浮かべていた。
それだけで思い出の価値が強固になった気がした。
「ああ、こりゃ消せねえな」
ヒロトの呟きに満足する。無理な要求であることはわかっていた。今は高揚しているからいいが、普通の人間が超常の中に叩き込まれて幸福になった例は少ない。噂が広がり、僕たちに何らかの不利益をもたらすこともあり得るのだ。
僕は小さく喜びを噛みしめて、首を横に振った。
「……ありがとう、ヒロトくん。これだけで満足だよ」
「え? いや、消して欲しくない記憶は消せねえだろ。何言ってんの」
「は?」面を食らい、訊き返す。「え、消さないの?」
「俺はそういうのあんまりしたくないんだよ。まあ、SNSの投稿と他の人に漏らすのは遠慮してもらうことにしよう」
ヒロトは冗談めかして言ったあと、大袈裟に腕まくりをした。そして、再びマイクを通して乗客たちに呼びかける。
「皆様、前方、通路をご覧ください。見えないとは思いますが、唐沢純くんが皆様との別れを惜しんで手を振っています。盛大な拍手でお送りください」
わっ、と歓声が湧いた。拍手があちこちに乱反射し、向かってくる。その音は確かに僕の身体に当たった。胸の内側から震える熱が昇ってくる。唇を噛みしめる。
生まれて、死んで、今まで過ごしてきた中でこれほどの賞賛を浴びたのは初めてだった。
僕は全身を流れる喜びをしばらく堪能したあと、アナウンスどおりに乗客たちに手を振った。気のせいかもしれないが、拍手がさらに強くなったようにも思えた。
「……ヒロトくん、ありがとう」
彼は気障ったらしく返してくる。「いいってことよ」
奇妙な一日だったけれど、このバスに乗ることができて本当によかった。小さく笑いが漏れたが、抵抗はしない。誰に見咎められても笑っていたいと思った。
「よし、じゃあミヤコ、行こう……って何してるの?」
その瞬間、胸を燃やしていた感動が凍りついた。
ミヤコは背伸びをして棚の荷物を降ろしている。だが、そこは元々僕たちが座っていた席ではない。座席に置かれた黒い鞄も他人のものだ。にもかかわらず、彼女は堂々と鞄の中身を漁っていた。
「ミヤコ、それ、人の鞄でしょ」
「いや、でも、権利はあるでしょ」
「権利?」と首を傾げるとなぜかヒロトが悔しそうに頭を抱えた。彼は「ばれたか」とわざとらしい舌打ちをする。ミヤコへと視線を戻すと彼女の手の中には見たこともないような札束があった。
少し考え、すぐに理解する。
……銀行強盗の鞄か!
そういえばパーキングエリアで降ろしたのは銀行強盗の益子と石郷岡だけで鞄には手つかずだった。ミヤコはそれを漁っているのだ。
「やめなよミヤコ。何してるかわかってるの?」
「わかってるってば。バスジャック、バスジャック」
「……言ってる意味がよくわからないんだけど、それで押し通せるものじゃなくない?」
「バスジャックしたんだから何か持って行かないといけないでしょ! どうせ罪はあの二人が背負うんだからさ、少しくらいいいじゃん!」
盗っ人猛々しいとはこのことだ。そして、手に持ってる量は少しでは済まないような金額で、僕は猛烈に批難する。だが、彼女の次の言葉に勢いを失ってしまった。
それはこの世界では何よりも魔法と呼べる言葉だった。
「ねえ純、あたしたち貧乏なの。お金がないと温泉にも入れないし、おいしい料理だって食べられないんだよ?」
僕は何も言えない。
確かにそうだ。言葉だけを聞けばミヤコを肯定するしかない。幽霊だって温泉に入るし、食欲はないけど料理も食べる。しかも、それは彼女がいてこその意味があるものなのだ。
「だいたいさ、純、さっき悪事を見逃すって言ってたじゃない」
掲げられたいくつもの札束に、抗議する気がみるみる失せていく。
「それに、バスに乗ったとき賭けしてたでしょ。バスガイドが『左手に見えますのは』って言うかどうか、って。それで一千万円、賭けてたじゃない」
「賭けてた、かも、しれない、ねえ」
「ってことは少なくとも純も一千万円分は何も言えないよね」
……僕たちは幽霊と魔法使いだ。戸籍もなければ法律もあまり適用されない。たぶん人間たちの刑法では窃盗罪とか拾得物横領罪になるのだろうが、どうやって僕たちを裁くというのだろう。そもそもミヤコが言うとおり僕たちは既にバスジャックという犯罪に手を染めているのだ。
そして、何より重要な事実がある。
僕はまだ悪霊の状態だ。であるからには悪事をしなければならない。
金に目が眩んだ事実を直視し、真剣な顔を作る。
「よし、僕は何も見なかった。ヒロトくん、あとは頼むよ」
「えー、皆様、感動的なシーンのあと申し訳ありませんが、今の一幕はカットさせていただきます。ご了承ください」
「あ、あたし、あんたのことけっこう好きかも」
「ありがたいね」とヒロトは眉を上げる。「ありがたいついでに携帯も上げるよ」
彼はポケットから二つ、携帯電話を取り出すとミヤコへと放り投げた。危うく落としそうになりながらもミヤコはなんとかキャッチする。
「いいの?」
「一台はじいさんたちにあげなよ。あと中に俺の住所入ってるから、暇な時遊びに来てくれ。いろいろ話を聞きたいんだ」
「いいよー、全部話しちゃう」
「でも金は残しておけよ。俺もバスジャックだし、携帯料金払ってやるんだから」
それもそうだ。ミヤコに一千万円分だけにしておくように言い、彼女も不満は口にしなかった。僕たちは通路に並んで振り返り、頭を下げる。悪事と命の危険に慣れきった乗客たちもバスの責任者たちも罵詈雑言を投げかけてくることはなかった。バスジャックだからしょうがないよね、と納得しているようでもある。
「じゃあ、皆さん、お元気で」
「バイバイ!」
僕たちは軽快な足取りでバスを降りた。既に一郎老人と太郎少年も荷物を降ろし終えていたらしく二人とも傍らにキャリーケースを携えていた。僕とミヤコは彼らと一緒になって走り出したバスに手を振る。初めはややふらついていたバスもスピードを上げていき、やがてカーブの向こうに消えていった。
「行ったね……」
「うん、行っちゃった」とミヤコの寂しげな声色に頷き、それから僕は太郎少年へと目を向ける。「ところでさ、太郎くん、一つ聞いていい?」
「ん、どうしたの?」
「きみはこのバス乗ったとき、一郎さんのキャリーケースの中に入ってたんだよね」
「うん、そうだよ。お荷物扱いだったからね」
ならば、きみの傍らにある鞄は誰のものなのだ。
そんな無粋なことを言わずとも太郎少年には質問の内容が伝わっていた。彼はファスナーをわずかに開け、中に積み重ねられた札束をちらりと見せる。犯罪の証拠を目の当たりにした老夫婦は顔を顰めたが、教育的指導の一つさえおこなわなかった。
ああ、と僕は嘆きたくなる。
ここにいる誰もがバスジャック病に感染してしまっているのだ。もちろんその病気に罹患しているのは僕も同じだ。嘆きたくはなったが、実際に嘆こうとは思わなかった。
「それじゃあ温泉に向かいましょうか。ここからじゃ結構距離があると思いますけど」
「走って行けばすぐだよ」と太郎少年が準備運動なのか、ぴょんぴょんと跳ねる。
「ここから北東だったな」と一郎老人が方角を確認する。
花子夫人は「あ、でも」と心配そうな声を出した。「ミヤコちゃんと純くんはついて来れないわよね」
「僕は大丈夫ですよ、幽霊ですし」
「純くんは大丈夫だって」
「みんなであたしを担ぐのはどう?」
したり顔でミヤコがそう言うので僕は太郎少年を呼び寄せて囁く。太郎少年が「それ、いいねえ」と噴き出し、それにミヤコが反応する。「何がいいの?」彼は一度僕と目を見合わせてから、どこにでもいる悪戯好きな少年のように、盛大におどけた。
「いやあ、純くんがさ、ミヤコちゃんを鞄に詰め込めば楽だって言うんだ」
乗車時の意趣返しだ。僕は大きく笑うとミヤコは顔を赤くして睨んできた。一郎老人の大きなキャリーケースを指さし、彼女は大声で怒鳴る。
「この中に入るくらいならヒッチハイクした方がまだマシ!」
「さすがに五人も乗せてくれるような車はないよ」
「なら、その車をジャックすればいいじゃない!」
喚く彼女に僕は呆れ、そして、重大な真実を教えてやる。
「ミヤコ、車でもバスでも、何かをジャックするのは犯罪だよ」
〈了〉
感染性バスジャック症候群 カスイ漁池 @ksi-ink
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