状況が混迷しているときにこそ外部から厄介事が舞い込んでくる ⑤

「おい、どうすんだよ!」と広岡が叫んだ。「純くん、早く!」と太郎少年が僕の腕を掴む。ミヤコは下唇を噛みしめ、後ろをじっと見つめている。


 ――いったいどうなっているんだ。


 そこで僕ははっとし、噴き出すのを堪えた。時間的猶予はない。だが、やることも決まっているのだ。このバスに乗り込んでくる危険な黒男の身体に憑依するだけ。改めてそれを確認すると確信だけが返ってきた。そうなると状況は決して悪くないとも思えた。


 黒男が迫ってきているということ。これは一郎老人と花子夫人が生きている可能性を大きく引き上げていた。二人を始末したあと、横転したバイクに乗り換えたにしては時間差がなさ過ぎる。つまり、黒男は二人の殺害よりもこちらを追走する選択を優先させたのだろう。

 それはなぜか? ミヤコの魔法だけが理由ではないはずだ。黒男がミヤコについて持っている情報などたかが知れている。なら、必然的に彼の目的は太郎少年ということになる。


 だが、その結論もいささか頼りない。なぜなら僕たちは太郎少年はできる限り追っ手の視界に入らないように配置していたからだ。また、彼は言いつけを守り、爆発が起こるまで一度も窓の外から見える位置に顔を出さなかった。

 そして、僕の推論は一つの帰結に行き着く。

 黒男たちは初めから太郎少年がここにいると知っていたのではないか?

 最初に思いついたのは携帯電話だ。老夫婦は携帯電話を所持しており、そこから位置情報などが特定された可能性を考えた。しかし、これはすぐに棄却する。逃げたばかりの彼らが電話を使用する機会などほぼなかっただろうし、太郎少年の存在を保証するわけではない。何か仕掛けられているならばもっと直接的なものだ。


 僕は太郎少年に顔を近づける。彼は「どうしたの?」と首を傾げてから「早くしてよ」と焦燥を口にした。

「いや、その前にちょっと左、あ、きみからだと右を見てくれる? 憑依に必要なんだ」


 しれっと嘘を吐く。太郎少年は少し戸惑っていたが、すぐに指示に従った。すると彼の首、その右側にあるほくろが露わになる。小指の爪ほど、ほくろとしてはやや大きめの黒い部分にそっと指先を当てる。返ってきたのは柔らかな感触ではなく、平べったく硬い感触だった。

 太郎少年はくすぐったそうに身を捩り、抗議の声を上げる。


「純くん、何ふざけてるんだよ!」

「いや、太郎くん、違うんだ」

「言い訳はいいよ!」彼は通路側から後ろを覗く。「あいつがもう来てる!」

「太郎くん、二つ、伝えておくことがある。まず一つはきみのほくろ、たぶんそこに発信器がつけられてる。落ち着いたら早いうちに壊した方がいい」

「は?」

「もう一つはきみに憑依するまでもないってことだ。勝負はもう決まってる」


 困惑を表情に貼りつけた太郎少年の肩を叩き、僕は息を吐く。後方に視線を送る。もうバイクとの距離はほとんどない。

 だというのに黒男はさらにスピードを上げ――

 そして、勢いよく、跳び上がった。

 彼の身体はリアガラスのさらに上に行き、すぐに視界から消えてしまった。どん、と天井から鈍い音が響く。それがさらに二度、続く。バスの上を走っているのだろう。足音の進行方向で前方から突入してくると判断し、僕はミヤコに座席の間に移動するように指示した。彼女は這いつくばったまま通路を開ける。同時に後ろでバイクが倒れ、ガードレールに衝突する音がした。黒い破片がぱらぱらと渓谷へと落ちていく。


 次の瞬間、黒男が前方に現れた。

 彼は曲げていた両足を思いきり伸ばし、フロントガラスを粉砕する。飛散したガラスの破片に広岡がわめき声を上げ、ブレーキを踏んだ。しかし、黒男は一切の反応を見せず、悠然とこちらに歩み寄ってきた。


 ――大丈夫だ、あいつには広岡くんが見えている。


 僕はそれだけを信じ、黒男と対峙した。顔面まですっぽりと覆われているフェイスガードは禍々しく、表情が見えない。だが、視線がぶつかっている実感があり、僕は彼を睨み据えたまま、太郎少年を後ろへと下がらせた。

 トランクルームへと繋がる穴の前で黒男の歩みが止まる。


「……おい」


 三十代前後だろうか、彼の低い声は喉元を貫くような響きを持っていた。現役の超人から発せられた圧迫感は鋭く僕へと突き刺さり、勇気を削いでいく。僕は唾を飲み込み、拳を握り、視線を逸らさないように努める。

 黒男は太郎少年を指さし、言った。


「そいつを寄越せ。従えば命だけは助けてやる」

「それは……本当っぽいですね」

「余計な口を聞くな。お前は道を空けるだけでいい」

「でも、たぶん、そこにいるミヤコも連れて行っちゃうんですよね」


 僕の言葉に不自然な沈黙が流れた。黒男は仁王立ちしたまま、僕を見据えている。それだけで抱いていた危惧が現実感を増した。


「なら、っていうか、そもそもですけど、お断りします」

「……もういい」

「純!」「純くん!」


 冷たい声色にミヤコが悲痛な叫び声を上げる。太郎少年が絶望を滲ませる。黒男が恐ろしい勢いで穴を飛び越える。伸ばされた黒男の腕は猛禽類のような鋭利さで僕の確信を引き裂いた。

 本当に、この男に乗り移ることが可能なのか?

 その疑問に不安がせり上がる。堪えきれず、僕は訊ねた。 

「大丈夫、なんですよね――!」


 ――ああ。


 下山の声が僕の内側で響いた。同類として疑う余地もないのだろう、爆発の衝撃で意識を取り戻していた彼はすぐさまその力を解放した。僕の霊力と合わさり、彼の能力が一瞬にして増幅する。霊的磁場を生み出す彼の力は容易く黒男を飲み込み、「道」を作った。

 澄み切った霊道ははっきりと目に映るほどに強い。


 僕の霊体は下山の身体を離れ、黒男の体内へと突入する。強い意志の反抗を感じたが、超人と言えど霊体の鍛錬はできない。強く押さえ込むと彼の意識と肉体は驚くほど呆気なく断絶した。

 そして、一瞬のち、ごん、と間の抜けた音が車内に響いた。

 その余韻がしばらく宙に浮く。

 咄嗟に身体の制御ができなかったため、思いきり頭を床へと打ち付けてしまったのだ。頭部の保護パーツのおかげで痛みはなかったが、僕は照れ隠しに額を擦った。その仕草があまりにも外見とかけ離れていたのだろうか、太郎少年は絶句し、ぽかんと口を開けていた。ミヤコが座席の隙間から顔を出して、僕の名を呼ぶ。


「……純?」

「なに、ミヤコ?」

「純!」


 ミヤコは這々の体で近づいてくる。それを僕は腕を広げて迎え入れた。抱擁を交わしてから、事態を把握し切れていない太郎少年に視線を向ける。すると彼は呟くような調子で、恐る恐る訊ねてきた。


「……純くん、乗っ取れたの? そんな簡単に?」

「下山さんのおかげだよ」


 下山に視線を向けると彼もまた照れくさそうに頭を掻いた。その仕草だけで愛する人の意識が戻ってきたと気付いたのだろう、ヤシマユミは陶然とした表情のまま彼へと歩み寄った。


「忠志さあん!」


 二人は互いの背中に手を回し、頬を擦り合わせている。長々と鑑賞していられる光景ではなく、僕はすぐに幸福の中へと割り込んだ。


「でも、まさか協力してもらえるとは思えませんでした。僕たちバスジャックしてたのに」

「ああ、私も似たようなものだったからねえ」

「あ、そういえばヤシマさんと心中しようとしてましたね」

「それに」と下山はただでさえ下がっている目尻をさらに下げて言った。「きみはお客様だったから」

「え?」

「きみが幽霊でも二人分の料金を払ってくれていただろう? そういうのは珍しいからすごく好感を持ってたんだ」


 乗車時、下山と会釈を交わしたことを思い出す。あれは批難の目つきではなかったのか、と当惑するとミヤコが声を上げて笑った。「ちゃんと二人分、払うもんだねえ」あまりに愉快そうで僕も口元が緩み、それが伝染したかのように下山も目尻の皺を深めた。


「でも、これからどうするんだい? いつまでもその悪漢の身体にもいられないんじゃないか?」

「そうですね、外に捨てて来るつもりではあるんですけど……結局追われたらしょうがないですよね」

「純くん」と声をかけてきたのは太郎少年だ。彼はこちらに背中を向け、その背中をとんとんと叩いた。「このあたりに拘束具とか入ってない?」


 言われて僕は背中に腕を回す。黒男の身体は柔軟性が高く、驚くほどすんなりと背中の中ほどまで届き、指先に硬い感触が当たった。横にポケットがあるらしく、手を差し込んで入っている物を取り出す。

 出てきたのは枷、と呼べばいいのだろうか、二箇所に穴の空いた金属の板だった。おそらく手用と足用の、併せて二つだ。くすんだ銀色をしており、真ん中で割れるようにできている。ずっしりとした重さがあった。


「超人用のだからさ、それを嵌めればさすがに追って来れないと思う。横の金具を閉じれば電子ロックで偉い人にしか開けられないんだ」

「なるほど、使わない手はないね」僕は顔の前で拘束具をぷらぷらと揺らす。「じゃあ、ついでに一郎さんたちも連れてこようか、太郎くん」


 そう言ったところで隣にいるミヤコが肩を叩いてきた。彼女は穏やかな微笑みを浮かべたまま、バスの後方を指さす。


「その必要、ないかも」


 あっ、と大きな声が響いた。太郎少年は顔をぱっと明るくさせ、窓から飛び出す。彼はそのまま野獣のような速度で駆け、後ろから追ってきていた老夫婦へと飛びついた。二人に怪我はないようだ。太郎少年をしっかりと受け止め、強く抱きしめていた。車内の空気が柔らかくなり、その場にいる全員が笑みを溢した。


「じゃあ、ミヤコ、ちょっと行ってくる。バス直す体力はある?」

「すぐには無理だけど……少し休めばぎりぎりいけるかな」

「それはよかった。……あと、そうだ。広岡くん、運転ありがとう! これからどっちが運転するかは下山さんと話し合って……って、え、ちょっと、広岡くんなんで泣いてんの?」

「うるせえな」と返ってきたものの号泣しているせいで他の言葉はほとんど聞き取れない。彼は濁った声で二言三言喚いたあと、鼻水をすすりながら運転席を離れた。

「俺、ああいう親子の対面とか、苦手なんだよ」

「……広岡くん、暴走族だよね。泣いてたら舐められるんじゃないの?」

「泣いてねえよ、泣いてねえって」


 ミヤコが手を叩いて笑っている。つられたのか、下山の目も潤み始めていて、呆れてしまった。僕は下山の頭を撫でているヤシマユミに乗客を座席に戻すようお願いしたあと、窓から外へと降り立った。

 初めに感じたのは柔らかな風だった。全身を覆っているスーツは風を通さない素材であるはずなのに、なぜか風が身体を撫でる感触を深く実感した。人の身体はいいなあ、と少し惜しみながらゆっくりと足を踏み出す。あまり下山から離れられないが、今後いつ味わえるかわからないアスファルトの硬さを足に染みこませたかった。


「一郎さん、花子さん」


 立ち止まって拘束具を掲げる。一瞬老夫婦の表情が強張ったが、黒男の身体を操っているのが僕だと太郎少年が説明したようだ、彼らは大きな嘆息を漏らした。


「純くん!」


 太郎少年は僕へと駆け寄ってくると腕を掲げた。ハイタッチだな、と思って手を挙げ、前へと動かす。図らずも超人同士のハイタッチとなってしまい、空気が破裂するような音が山間の道に鳴り響いた。僕は老夫婦が近づいてくるまではしゃぐのに付き合ったあと、二人へと向けて宣言した。


「一郎さん、花子さん、これからこの身体をそこに」ガードレールの向こうにある深い渓谷を指さす。「捨ててきます。超人なら死ぬこともないでしょう」

「ああ……だが――」

 真剣な表情で一郎老人は首を振ろうとする。僕は彼が何か言う前に割り込んだ。

「だめですよ、人殺しの目をしちゃ。そう言ったのは一郎さんじゃないですか」

「しかしだね、これからもこういうことが起こるだろう? なら、後顧の憂いは絶った方がいいじゃないか」

「ああ、そのことなんですけど」とそこまで言うと太郎少年が僕の言葉を奪い取った。

「なんかさ、純くんが言うには僕に発信器が埋め込まれてるらしいんだよね。首のところだって。ばあちゃん、ちょっと見てくれる?」


 花子夫人が指先を太郎少年へと伸ばす。彼女はその感触に目を瞠り、苦笑にわずかな後悔を滲ませた。


「あら、大変。本当に何かあるみたい」

「あと携帯電話を捨てれば完璧ですね。あれ、追跡されてるかもしれませんから」


 超人の常識はどうにも理解しづらい。花子夫人は「そんなこともできるのねえ」と深い感心を覚えているようだった。一方で、一郎老人の反応は鈍い。彼は黒男を殺害しない選択にまだ不服を持っているらしく、渋い顔をしていた。

 僕は頭を掻く。あまり言いたくなかったが、仕方がない。


「一郎さん、ここは年長者の意見に従ってくださいよ」

「……年長者?」


 顔を顰めたのは一郎老人だけではなかった。花子夫人も太郎少年も正気を疑うような視線を送ってきていた。

 だから言いたくなかったのだ。僕は顔を顰めて、説明を絞り出す。


「幽霊だから分からないかも知れませんけど、僕、もう四百年くらい生きてるんですよ」

「え?」と声が三つ重なる。「四百年?」

「あ、生きてはないか。まあ、でも、そのくらいはこの世にいます。ミヤコもそうですよ。そうじゃなきゃタメ口なんて叱ってますって」


 目の前の超人たちは目を見開き、口をぱくぱくと動かした。信じられないのも無理はない。ミヤコの力で身体を修復したり霊体を保っていたりの繰り返しで今ここにいるのだが、それを証明するのはなんと難しいことか。僕はしばらく考えたあと、ある与太話を思い出した。

 戦後、米軍の統治下で知り合った男の話だ。もしかしたら、と男の名を口にしてみると老夫婦の顔色が変わった。どうやら本当にその男が超人機関を作ったらしい、一郎老人は「どうして初代所長の名を……」と表情を強張らせた。あとでミヤコに知らせておかないとな、と笑いつつ、僕は続ける。


「信じてもらえましたか?」

「いや、まあ、信じがたいけれど、きみは嘘を言っていないかもとは思い始めてはいる」

「じゃあ、お願いしますよ。ほら、太郎くんからも何か言ってくれよ」

「え、なんで僕が?」

「だってきみが言ったんじゃないか。『この世でもっとも重要なのは順番だ』って」


 太郎少年はしばらくぽかんとしたあと、思い出したかのように勢いよく噴き出した。「そうだったそうだった」と頷き、彼は「純くんがいちばん年上みたいだから言うことを聞かなきゃだめだよ」と老夫婦を諭した。どうやら今回は生まれた順番を考慮にいれてもいいらしい。不満は消え去っていないようではあったが、それを口にする気はもはやないのだろう、一郎老人はそれ以上の反駁はおこなわなかった。


「それじゃ先にバスに戻っていてください。話ができなくなるのは残念ですけど」

「ああ」と一郎老人は深い笑みを称える。「ありがとう、純くん」


 伝わるわけもないが、僕はウインクをしてガードレールに足をかけた。大腿筋が破裂しそうなほど膨張したところで、思い切り脚を伸ばす。背面跳びのようにして浮き上がった身体はやがて放物線を描いて落下を始めた。下山から離れるにつれ、黒男の意識が浮上をするのを感じた。僕は急いで足に枷をはめ込む。がちゃり、と硬い音が鳴り、完全にロックされたのを確認してから左腕に枷をかけた。

 しかし、両手両足を拘束して生きていられるものだろうか。黒男の意識が優勢となってしまうのは時間の問題で悩むこともできない。最後に信じるのはこの人か、と辟易しながら僕は身体をうまく使って右腕にも枷をはめ込んだ。


「がんばれ、黒男!」


 そう言うと同時に僕の意識が肉体から追い出される。黒男は一瞬にして事態を理解したようで、何度か身じろぎしたあと、隣にいる僕を睨みつけてきた。もちろん顔は見えない。だが、ある程度怒りを抱いていることは手に取るようにわかる。


「じゃあ今日はここまで。次は命とか関係なしに遊ぼうね」


 僕はだめ押しの挑発をして黒男から離れた。叫び声とともに彼は木々の間に吸い込まれていく。怨霊と化してしまうことも覚悟していたが、うまくやってくれたらしい。木の幹がひしゃげる音が自然の中にこだまし、その直後に彼の怒号が山彦となった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る