一刀両断
鋼野タケシ
一刀両断
奈良、
天然の巨石が転がる山中を、一人の男が駆けていた。
走り、勢いをそのままに抜き身の刀を敵に叩きつける。
男の刃に胴を切り裂かれた敵は、しかし平然と立ちあがる。
己の直感を信じ、男は振り向きざまに刃を払った。紫電の如き一閃も、敵の影をかすめたに過ぎない。霞のように揺らぎ、敵は姿を消した。
男の名は
彼はいま、戸岩谷で天狗と死闘を繰り広げていた。
宗厳に剣の腕で敵うものはいなかった。
あの時までは。
新陰流の開祖・
敗北し、止めも刺されずに捨て置かれた。屈辱に身を震わせる宗厳に、上泉信綱は新陰流の極意を語った。
敵対し、殺すための剣に非ず。活きるため、活かすための剣こそ新陰流。
すなわち「活人剣」と。
宗厳には理解ができなかった。刀は敵を殺すための道具、剣術は殺人の技術。相手よりも早く得物を叩き込む。どれほどの達人であれ、髪一重の隙間があれば赤子の柔肌すら断てはしない。敵を斬ることが剣の神髄であるはずだ。
宗厳は新陰流との再戦を果たすため、山にこもっての修行を始める。
その晩、
生い茂る木々に覆われた山間は、昼間であろうと薄暗い。
薄闇が濃さを増す頃、日の沈みかけたその時。樹上に立つ天狗を見た。
鬼のように赤い顔、突き出した鼻、
「何者っ」
宗厳の
抜け――低く響く声で、天狗は言う。
宗厳は両足に力をこめた。鞘走りの音を立てて刀を引き抜く。踏み込みの気迫をそのままに刀を振り抜いた。
刃は確かに天狗を切り裂いた。だが、天狗は血の一滴も流さず霞のように消えた。
それから毎夜、天狗は戸岩谷に現れた。
夜の帳が下りるころ、天狗がどこからともなく姿を見せる。
山中を駆けずり、剣を打ち合わせ、一撃を叩き込む。何度打ち込もうと手応えはない。水面を斬るように、刀は天狗の身体をすり抜けていく。
心身共に疲弊しきった朝、日の光が上ると天狗は消える。
春が過ぎ、夏を迎え、山の葉が枯れる秋も、雪に閉ざされた冬も、宗厳は山籠もりを続けた。天狗は夜が来るたびに必ず現れた。
天狗の剣を前に、宗厳は無力であった。鍛え上げた肉体も、磨き上げた技も、まるで通用しない。必殺と放った剣閃が天狗の肉体を割こうと、一切の手ごたえがない。
雪がちらつく真冬の夜。宗厳は死を覚悟した。柳生の村に残して来た妻子のことも、敗戦を喫した新陰流のことも頭になかった。
おれは、ここで死ぬ。
天狗が刀を振り上げた。疲労で肉体は岩のように重い。腕が痺れて刀が持ち上がらなかった。おれはここで死ぬ。ここで――天狗が刀を振り下ろした。瞬間、宗厳の目に光明が映った。
上泉信綱の言葉が蘇る。活人剣。活きるための剣だ。宗厳は両腕を上げた。刃を合わせ、天狗の剣を受け流す。ただ無心で、肉体が動いていた。
殺すためではない。生きることが剣の道だ。死の淵において生を見出すこと。剣の極意は、活人剣――宗厳は大上段に構えた刀を、振り下ろした。
粉雪が舞った。
手応えは感じない。ただ無想の一撃だった。気付けば刀を振り下ろしていた。
宗厳の振るった剣は、天狗を肩口から叩き斬った。切り裂かれた天狗は倒れ伏し、血の一滴も残さず霧散して消えた。
天狗のいたその場所には、巨石が一つ転がっている。真ん中から
宗厳は己の剣で、身の丈の倍はあろうかという巨石を両断していた。
その夜から、天狗は二度と現れなかった。
宗厳はその後、新陰流の上泉信綱に弟子入りし、新陰流二代目として一国一人の印可を得る。一国に一人、他に並び立つ者のいない剣の使い手という意味である。
柳生宗厳が世に広めた新陰流は、一般に柳生新陰流と呼ばれる。
やがて戦国の時代が終わり、太平の江戸時代へ移ると剣術はさらなる発展を遂げる。闘争の技術ではなく、己を律するための道、すなわち剣道。
日本の剣道とは、相手を斬り倒すための技術を学ぶものではない。ましてや腕を競い合うスポーツとして発展したのでもない。竹刀を真剣に見立て、疑似的に死と向き合う。互いに命の極限の中で、生きる道を見つけるための技法である。「活人剣」の神髄は脈々と日本に受け継がれている。
柳生宗厳が天狗と戦い、両断した大岩は「一刀石」の伝説として語り継がれ、四百年が過ぎた今も奈良県柳生町、
一刀両断 鋼野タケシ @haganenotakeshi
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