陸>- 夢の夢の夢の 昨日は今日の古 今日は明日の昔


 焼跡に苔むす、長く人の気配の絶えた廃村。その外れにある境内。

 一時はどうにか整えられていた社だが、今は再び、何週間も放置されたように、薄汚れていた。


「――なあ、寝てるのも飽きたし、そろそろ起きて動きたいんだが」

「まだ駄目です。酷い怪我だったんですよ」


 ボヤくような声に、鋭い制止の言葉が飛ぶ。


「あんなのはかすり傷だっての」

「嘘おっしゃい! 大体あなた何ですか。今回のだけじゃなく、全身酷い傷跡だらけじゃないですか」

「あー、古傷だ、古傷。何年も前のやつだよ」

「それだけじゃないでしょう! 分からないと思って、いい加減なこと言うんじゃありません!」


 初瀬の叱責に、那智は五月蝿そうに顔を背ける。

 確かに那智の身体には古い傷跡が実に多かった。むしろ全身、傷の無いところを探す方が難しいと言えるほどだ。

 特に背中に袈裟がけに走った傷跡は酷く、那智の辿った過去の凄まじさを想起させるものである。

 しかしそれ以外にも、ここ最近に付いたばかりであろう傷跡が多く見られた。

 確かに那智は荒事に多く関わり、傷を負うこともあったとは知っていたけれど、それでもこんな酷いことになっていたと気付かなかった自分を、初瀬は恥じた。


 今回の事件で倒れた那智を運び、傷の手当てをしてくれたのは、吾作たちといった閉じ込められていた村の面々だった。

 彼らは非常に畏れ多いと言った態度で初瀬を敬い、懇切丁寧に那智を診てくれた。

 てっきり那智に脅されしかたなく従っているだけだと思っていた彼らだったが、そこには確かに神に対する畏敬の念が感じられた。

 平八のような人間がいる一方で、自らを正し、変わろうとする人々もいる。

 初瀬は彼らの過去だけを見て、真面目に生きようと努力する今の彼ら自身を見ていなかった己を省みたのだった。

 

「少なくとも、一番酷い傷がくっつくまでは大人しくしていて下さい。あなたは、……私の唯一の巫女なんですから」


 初瀬は気遣いながらそう言うが、那智は黙りこくったままだった。そして蒲団に仰向けになったまま、ボソリと言った。


「ばれちまったから話すけどよ。ほんの数年前まであたしは、初瀬が憎んでやまない悪党――賊の人間だったんだ」


 神妙な顔をする初瀬を前に、那智は瞬きもせず、天井を睨んだまま語りだす。


 那智は、都周辺ではそれなりに名の知れた盗賊集団の頭の、一人娘として生を受けた。

 略奪に火付け、拐かしに殺人さえも、何とも思わない悪党どもの集団の中で育った那智もまた、悪行に対する忌避感を一切持たない人間に成長した。


「実際、あたしは何でもやってきたよ。悪事とされる事で手を出してない物の方が少ないんじゃないかな。悪い事だとは理解していたさ。だけど、それに対して何も感じていやしなかった」


 長じて頭の跡目を継いだ那智は、その強さと、情け容赦ない残忍さによって《非道の己貴なむち》として広く名が知られるようになる。

 そうして己を省みることなく、好き勝手に生きていた彼女であったが、そんな日々にもついに終わりが訪れた。

 それは、いつものように貴人の家に押し入ったある日のこと。

 家人を殺傷し、屋敷を荒らして、一味はまんまと財を奪うことに成功した。そして無事に逃げおおせられ、もっとも油断が出たその時——。


 己貴は背後から、予想外の一太刀を浴びせ掛けられた。


 驚き振り返った己貴の目には、敵の姿は映らない。そのはずだ。

 それは、味方であるはずの配下からの一撃だったのだ。

 強く、残忍で、人の心を理解しない己貴の存在は、味方にとってもまた恐怖の対象であり、それは最終的にもっとも身近な者たちへの裏切りを誘発した。

 大怪我を負いながらも、何とか命からがら逃げおおせた己貴である。しかし、産まれた時から賊仲間と供にあった彼女は、その集団に裏切られれば味方の一人も、帰る場所さえも持っていなかった。

 そうして何もかも失い、空っぽになった彼女の脳裏に浮かんだのは、幼い子供時代に聞いた姉やの話だった。


「幼い頃のあたしは、実に気難しい癇の強い子供でね。周りの大人はとてもじゃないが相手を出来なかった。だから子守り姉やとして女を一人、人買いから買ったんだ」


 その女は顔に酷い火傷を負っており、まともな値段では売れないことは明らかだった。そのため、それを彼女の父親である盗賊の頭が安く買い叩いたのだった。


「八千姉と呼んでいてね、優しい女であたしは良く懐いたよ。あたしが自分の名前が嫌いだと言ったら、間を抜いてナチと名乗ればいいと言ってくれた。そうすれば自分とお揃いだと。何より彼女の作るトチ餅は、とんでもなく絶品だった」


 初瀬は凍り付いたように固まる。それは、二度と聞くことのないと思っていた名前だった。


「八千……代――、」


 朗らかに笑う、優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。

 あの決して忘れられない夜、他の村人たちと一緒にその命を散らしたものだとばかり思っていた。

 そんな初瀬の様子に気付いているのか、いないのか。那智は、普段からは想像もつかない程に表情を和らげ、歌うように喋った。


「彼女は子守唄代わりに、色んな話をしてくれた。山深い村での素朴な生活。春に採れる山菜や、秋の収穫を祝う祭のこと。そして村を守護し、見守ってくれる心優しい氏神様のこと。それらの話は、あたしにとっては想像もつかない夢物語だったよ」


「千代は……、彼女はどうなりましたか?」


 唇を震わせて尋ねる初瀬に、那智は静かに、端的に答えた。


「死んだ」


 初瀬は息を飲み、そして辛そうに目を伏せる。


「流行病が蔓延した時期があってね。都では多くの人間が倒れ、一味の中にもたくさんの死者が出た。だけど、そう……。彼女はあまり苦しまずに逝ったよ」

「そう、でしたか……」


 初瀬はかすかに頷いた。

 自分の手の届かない所で、彼女は死んだ。

 陰惨な悪夢を現実に味わってしまった彼女の人生は、その後も決して優しくはなかっただろう。

 けれど、その最後が苦痛に満ちたものでなかったことに、初瀬は少しだけ慰められた。

 

「何もかも失い、やるべき事も、行く所もなかったあたしは、八千姉の話を思い出した。どうせなら死ぬ前に一度、子供の頃に聞いて、ほのかに憧れた場所に行くのも良いかも知れないと思った」


 そして那智は、焼け落ちた廃村の外れにある、ぼろぼろに荒れ果てた神社にたどり着いた。


「一時の逗留をするつもりで、社殿を片しながらあたしは色々考えたよ。なんでこんな事になったのか、いったいあたしの何がいけなかったのかってね」


 何も考えずに、好き勝手をして生きてきた。

 残忍な振る舞いも、無情な行いも、気にせずなんでもやった。

 血も涙もない外道――。

 それが彼女という人間だった。


「変わりたい、と思ったよ。まともってモンが何かは知らないけど、なれるもんならなりたかった。今更手遅れかも知れないけど、それでもあたしは、別のものになりたかったんだ」


 血塗非道れの己貴ではない、血の通った人間に――。


「だからあたしは祈ったんだ。もしも神がいるのなら、こんなあたしを導いて欲しい。道を知らないあたしに、正しい方向を示して欲しいって」


 そう言って、どこか遠くを仰ぎ見るような目をする那智を見て、初瀬は唐突に思い出した。

 自分が久方ぶりに、現世うつしよに顕現した時の事を。

 あの時自分は、切なる祈りを、救いを求める声に呼ばれて深い眠りから目覚めたのではなかったか。

 呼びかける声は、確かに那智のものだった。


「そこに、あんたは現れてくれた。だからあたしは、巫女になろうと決めたんだ」


 そうきっぱりと言い放った那智は、おもむろに身を起こす。そしてバツの悪そうな表情を浮かべ、視線を逸らした。


「あたしは強いからさ、あんたが守ってくれなくて平気さ。あんたは何もせず、そこにいてくれるだけでいい。あたしが勝手にあんたを道しるべにするだけだから。それともやっぱり――、賊あがりの巫女なんて駄目か?」


 那智は不安げな目付きで、それでも必死にそう尋ねる。

 そんな彼女の様子に初瀬の胸は打たれ、その心に初めて、那智に対する愛しさが生まれた。

 横暴で、傍若無人で、乱暴者の那智。

 だけどそんな彼女もまた、救いを求める一人の人間であり、敬虔なる巫女なのだ。

 初瀬はようやく、そのことに気がついた。


「あんたはさ、……本当は早く死んでしまいたいんだろう?」


 ぽつりと、那智はこれまでずっと初瀬の胸に食込んでいた悲願を口にする。


「なら必ず、あたしが死ぬ前に、初瀬を殺してやる。あたしにできるのは、それぐらいだ。でも、それまではさ。太陽みたいに、月みたいに、あたしの道を照らしていてくれよ。約束する。だから頼むよ……」


 頭を下げ、必死に乞い願う那智の声は、らしくない程に震えていた。

 その姿は、泣き伏しているようにも、真摯に祈りを捧げているようにも見える。

 そんな彼女に手を伸ばし、初瀬は優しく彼女を抱き寄せた。

 那智はびくりと身を震わせるが、それでもされるがままになっている。

 同時に、初瀬の中からも固く凝った死への執着が、ほろほろと解けていくのが感じられた。

 初瀬比古の胸にあるのは、かつてとなにも変わらぬ、広く深い、包み込むような愛だけだった。





 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇






 その一帯は、古くは『那智の郷』と呼ばれる地域だった。

 市街から離れた山間を中心に広がり、いくつかの村々が点在するだけの静かな土地だ。

 時代が移り変わり、住民の高齢化や人口の移動とともに、自然の流れてとして村々が消えていく中、最後まで残った村があった。

 そこもまた、遠からず役目を終えるのであろうが、集落の外れには、付近一帯の氏神を祀る神社があった。

 村と、そのすぐ傍を流れる川と同じ名前を冠した神。

 定期的にトチ餅を奉納するのが、村の代々の約束事だった。


 その神は住民たちによって、愛され続けた。

 それは何百年も前から、今に至るまでずっとずっと、変わることはなかった。

 

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花の上なる露の世に ~ド外道な巫女と死にたがりの氏神~ 楠瑞稀 @kusumizuki

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