伍>- 人の心は知られずや 真実 心は知られずや
初瀬には、どうにも状況が掴めなかった。
人には渡れない道なき道を使い、直接村に現れた初瀬が見たものは、怒号と悲鳴の嵐。
なにか尋常ではない事態が起きたのだとは知れたものの、逃げ惑う人びとには悠長に事情を尋ねられる余裕はなく、初瀬はただ焦燥感を抱いて周囲を見回しているしかなかった。
そんな中、辛うじて見知った顔を見付けた初瀬は、機を逃せないとばかりにその人物の元へ駆け寄った。
自分達の元へ、助けを求めに来た二人組のうち、小柄な方。たしか、名前は平八だと思い出しながら。
平八の腕は、がっちりと初瀬に絡み付いている。捕らえられた初瀬はただ狼狽の表情で、那智を見ているしかなかった。
「大丈夫かよ、平八。随分手が震えているじゃねえか」
那智がからかうように尋ねると、平八が口から泡を吹かんばかりに声を荒らげるのが、背中から伝わる振動で分かった。
「う、うっせえっ! いいから、その大太刀を捨てろ!」
「那智、私のことは捨て置いて下さって構いません!」
初瀬は咄嗟に、なんとか那智の不利にならないよう叫ぶ。
それぞれに反対のことを言う初瀬と平八に、那智は半ば呆れたような眼を向けた。
「早くしろぉ!」
平八の怒鳴り声で、一刻の猶予もないと感じたのだろう。初瀬の懇願も虚しく、那智は言われた通り大太刀を手放した。しかし、
「ぎゃあっ、なにしやがる!!?」
平八は悲鳴のような声を上げて、たたらを踏む。初瀬もまた、思わずと言ったように息を飲み、身を竦めた。
それもそのはず。二人の足下すぐそばに、那智が投げつけた大太刀が勢い良く突き刺さったのだ。
「冗談だ」
しれっと那智は答えるが、もちろん、冗談などと言う可愛いものではないのは確かだ。
「その腰の大鉈もだ! こ、今度は自分の足下に置け!」
「へえへえ」
「那智、いけません!」
初瀬は再び制止するが、那智は無造作に無骨な刃物を足下に放り捨てた。これで、那智の持つ武器は背負った弓矢のみとなってしまう。
その弓矢もまた肩から下ろしながら、那智は平八に尋ねる。
「なあ、平八。仲間を裏切り、神を人質に取ってまで、てめえがしたいことは何だ? そこまでするってえたァ、よっぽど御大層な野望を抱いてるみてえだがよ」
挑発するように言う那智だったが、しかし平八は予想外の事を言われたと言わんばかりの顔で、怪訝そうに答えた。
「別にそんなモンねえよ」
初瀬は意外な気持ちになって、背後の平八を仰ぎ見る。野望とまでは言わなくとも、何かのっぴきならない事情か、譲れない信念あっての行動だと思っていたからだ。
しかし、平八は不貞腐れたような、つまらなそうな表情で鼻をならした。
「おれはこれまで好き勝手、自由にやって来たんだよ。それを農夫になれ? 真面目に暮らせ? ハッ、今更やってられっかよ」
平八は、心底うんざりしたと言わんばかりに吐き捨てる。
「おれは楽して愉快に暮らしていきたいんだ! 他人の顔色を窺いながら、地道に生きていくなんて真っ平ごめんだね!」
いっそ堂々と言い切る平八に、初瀬は怒りを覚えた。そんな自分勝手な理由で、こんな事をしでかすような男が自分の氏子だったなんてと、情けなさすら覚える。
「恥を知りなさい! 自分を律することができて、初めて人間と呼べるのです。それでは獣同然ではないですか!」
「黙れ! テメエに何がわかるっていうんだ!」
初瀬の叱責に、逆に平八は怒りを露わにする。初瀬に押し当てていた刃物を握る手にも力が入り、切っ先が僅かに皮膚に沈む。
と、突然弾けるような笑い声が辺りに響いた。
「てめえはあたしに良く似てるぜ、平八よ」
唖然として向けた視線の先で、くつくつと那智は可笑しそうに腹を抱えている。
「自分にはこれだけだと思い込み、自分が何をしているのか、それがどういう事なのか考えることも放棄して。楽なモンばっか選んで生きてんだ。そりゃあ自由で愉快だろうよ。だけどな」
すっと那智の目が細まる。底冷えするような迫力に、平八どころか初瀬さえも、びくりと肌を粟立たせる。
「人生のツケを支払わされる時は、いつか必ず訪れるんだよ」
那智は手に持った弓に素早く矢をつがえ、ぎりりと引き絞る。その切っ先は、初瀬と平八に向けられていた。
「て、テメエこいつが見えてないのか!?」
平八は見せ付けるように、初瀬の背中を押し前に突き出す。しかし那智はニタリと笑った。
「よぉぉく見えているぜ?」
だがぴんと張った弦は少しもたわむこと無く、矢はまっすぐ初瀬と平八を狙って揺らがない。
「お、おれは神を殺すことなんか、何とも思っちゃいないんだぜッ!?」
「奇遇だな、あたしもだ」
裏返った声を張り上げる平八とは対照的に、那智は淡々と言葉を返す。あまりに平然とした声音は、那智の言葉が嘘でも強がりでもない事を端的に証明していた。
「悪いな、初瀬。これが三度目の正直ってやつだ。せいぜい学習してくれよ」
覚悟を決め、ぎゅっと唇を噛み締めていた初瀬は、その一言ではっと顔を上げる。
「よ、止せえぇぇっ!!」
悲鳴のように声を張り上げ、初瀬を盾にする平八と真っ直ぐに彼女を見据える初背に向けて、那智は遂に弓を射た。
風を切り、一直線に飛ぶ矢が刺さる、その直前。
初瀬はその身を透過させ、平八の腕をすり抜け手前に倒れる。
矢は、驚きに目を見開く平八の肩を貫いた。
射られた矢を追うように飛び出した那智は、 次の瞬間、 再び実体化していた初瀬を踏みつけながら乗り越え、突き立っていた大太刀を引き抜いた。
そして地面に情けなく倒れる平八の首筋に、その切っ先を突きつける。
「よお、平八。あたしは言ったよな。――次は無いって」
ちゃきりと大太刀をつば鳴らせ、那智は身を屈めて平八の顔を覗き込む。
「あの贋ナムチは膾切りなんて言ってたけどよ、本物の《非道の
愉快そうに顔を歪めながら笑う那智を前に、平八はろくに息も吸えず、引き攣った声をずっと漏らしている。
恐怖に凍り付いた身体は制御を失い、温かい液体が下半身を濡らし、ジワジワと地面に広がっていく。
「だがしかしだ」
ふいに那智は、優しく諭すような声で続ける。
「今のあたしは非道の己貴じゃなく、巫女の那智だ。ここは神の御心に従おうじゃないか」
突然振り返られた初瀬は、びくりと身をすくめる。
「どうしたい? 好きにしてやるぜ、初瀬よ。一息に首を跳ねるでもいい。ジワジワとなぶり殺しにしてやってもいい。全部お前の心一つだ」
初瀬は、戸惑った。
この男の心根は、録なものじゃない。私利私欲で人を殺し、それを愉快とすら感じる、初瀬が憎む山賊そのものだ。
ここで見逃せば、必ずやまた悪行を働き、人を殺めるだろう。
ならばいっそここで憂いを断ってしまった方が、いいかも知れない。
しかし――、
初瀬は、閉じていた目をふっと開けた。
「どうか、殺さないであげて下さい」
平八が心底安堵の顔を上げ、那智は面白がるような色をその目に浮かべた。
「いいのか?」
「ええ」
初瀬は、ためらいなく頷いた。
平八は感極まったという態度で口を開く。
「助かったぜ、ありがてえ……」
気が抜けたようにずるずるとと弛緩する平八であったが、目には早くも、抜け目のない狡猾そうな光が過ぎる。
そして、初瀬はそれを見逃さなかった。
「しかし、まったくの無罪放免と言うわけではありません」
すっと初瀬は声を低くする。
「平八、あなたは私の氏子です。それは、あなたがずっと私の
初瀬の目から、常に浮かんでいた慈悲の色が消える。
「私はあなたを祟ります」
平八は息を飲み、顔を青褪めさせる。
「一度は祟り神と化したこの私。初瀬比古命の祟りが、彼女の仕打ちよりも生易しいとは、期待しないことです」
そこには確かに、初瀬の神としての凄みが感じられる。
初瀬が言い終わるや否や、平八は泡を食って飛び上がり、脱兎の如く逃げ出した。
初瀬はそれを引き留めようとする事もなく、見送った。
「――もっとも、あなたが自らを律し、礼儀正しく生きている限りは、私は氏神としてあなたを庇護し続けますがね」
その背に向けて呟いた初瀬は、ほっとしたように膝から崩れ落ちる。そして那智を振り返った。
「これで、良かった……ですよね?」
「さてね。あいつがこの先どんな道を歩むのかは知らねえが、あんたのした事はきっと間違っちゃいねえよ。何せあんたは、あたしの選んだ神なんだからよ」
那智はふっと笑ってみせる。そして天を仰ぎ、おもむろに宣言した。
「あー、ところで後のことなんだがよ。村のどっかに吾作が閉じ込められているはずだから、アイツ見つけて片付けさせとけ。あたしはもう流石に、限界みたいだ」
見れば彼女の足元には、滴り落ちた血が水溜まりを作っている。
「まったく。 愉快だぜ、 実によ……」
にやりと笑って呟くと、那智はそのまま仰向けにはひっくり返った。
「那智……っ!?」
初瀬は悲鳴をあげると、青白い顔で横たわる那智のもとに、必死になって駆け寄った。
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