月島路地裏物語
乙島紅
月島路地裏物語
いいか、てめぇら。
ここは『もんじゃストリート』じゃねぇ、正しくは『
昔っからここに住んでる俺様が言うんだから間違いねぇ。月島はテレビとか雑誌とかの影響でもんじゃもんじゃって騒がしい印象がついちまってるけどよ、平日昼間に来てもみろ、案外静かで
そんでもって
俺様はこの静かな月島こそ、ほんのり香る東京湾の潮の香りと江戸の下町の情緒が残っていて気に入っている。だからこそ、もんじゃ目当てでこの街に来る奴らにひとこと言ってやろうと思ってな、こうして出しゃばっているってわけよ。
——ほうら、早速。
言ったそばから鉄板でもんじゃを焼く匂いがしてきやがった。そろそろ夜になるからな、ここいらのサラリーマン共がもんじゃ屋で飲み会をしにやってくるんだ。
そもそももんじゃってのは「食事」じゃねぇ、「駄菓子」だってのは知ってたか? 元々は下町の駄菓子屋がタネで文字を書いて売っていた「文字焼き」、だからもんじゃって言うんだぜ。……ま、ボケた近所の爺さんからの受け売りだから、本当かどうかは保証しねぇけどよ。
駄菓子だった頃は粉を水で溶いて、しょう油やだしで味付けしただけだったそうだ。それが今や、キャベツや揚げ玉はもちろん、豚肉にベビースター、店によっちゃアナゴをまるまんま入れちまうところもあるらしい。べらぼうめ! そんなら生で一尾食べるのが
最近は洒落たイタリアンバルなんてのもできちまって、夜の月島はすっかり昼とは別の顔になる。寂しいねぇ。そのうち月島を下町だって知らない世代も出てくるんだろうか。
だがそんなイマドキの
そうそう、ここまで俺様の話を聞いてくれたてめぇらにはとっておきの情報をくれてやろう。西仲通りは案外隅田川に近い場所にあってな、川沿いの道は静かでベンチもあるから恋人とゆっくり話すにはちょうどいいんだ。明かりが点々と灯った高層ビルとライトアップされた
——おや?
路地裏の方に足音が近づいて来やがった。コツ、コツンと乱調子に響くヒールの音……女だな。顔はすっかり赤らんで、荒い息からはやっすいリンゴサワーの匂いがする。昼間はしっかりキメていただろう髪は、もんじゃの湯気と酒で上がった体温でべったりとしていて。あーあ、酔っ払ってやがる。女はふらふらとした足取りでこっちにやって来た。やめろ、来るな。ああ、俺様の神聖な縄張りが、女のスーツに染み込んだもんじゃの匂いに満たされちまう。
女は俺様の目の前にまで来ると、すっとしゃがんだ。膝と膝の合間から、薄い肌色のパンストとほんのりピンクの下着が見える。
まさか……アレか? もんじゃみたいなやつをここで吐く気か? くそ、路地裏だからって好き勝手しやがって。俺様は全身の毛を逆立てて身構える。
しかし女はへらりと笑って、小さな声で俺様に向かって言った。
「なーご」
てやんでい! てめぇの下手くそな発音に、この俺様が騙されるものか。だが女はニヤニヤと俺様の反応を待っている。はん、意地でも返事なんてしてやらないね。……なんて、相手にしている暇があるのなら、この瞬間に少しでも距離を取っておくべきだった。
——ぷぅん。
小さく漏れる音と、一瞬にして路地裏を占拠する臭いガス。
すまない……てめぇらに大事なことを言い忘れていた。
なんだかんだ俺様はこの街が大好きだ。多少時代の移り変わりで下町の影が薄れても、てめぇらがもんじゃを食いに来る限り、月島の月島らしさはそうそう消えねぇんじゃないかなって思っていたりもする。だから、もんじゃ観光大いに結構。だが……気をつけろよ。特に月島でデートなんぞしようと考えている奴は心に刻め。もんじゃを食った後の屁はとっても臭いからな。くれぐれも人前では出さないようにしろよ。
もちろん、猫の前でもな。
月島路地裏物語 乙島紅 @himawa_ri_e
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