seasons

桜井今日子

her name

 会社の飲み会のあと、俺は同じ路線の電車に乗る後輩の女の子と一緒にある店の前を通りかかる。ブックカフェだ。夜は奥のバーラウンジもやっていると看板が出ている。

 彼女がウインドー越しにその店を眺めているので、少し飲んでいく? と誘ってみた。


 昼間はブックカフェのそこは雑居ビルの1階で通りに面している。通路の反対側はテイクアウト専門のカップケーキ屋で今は閉店準備をしている。ブックカフェの入り口から店に入る。夜だけ奥のラウンジがバータイムとなっている。


 カウンター席は俺達だけだった。カウンター内には限りなく気配を消しているマスター。

 座った彼女の向こう側に本棚がある。洋書がオシャレに並べてある。彼女は横文字の写真集を1冊持ってきた。綺麗な海外のビーチリゾートの写真集だった。

 ブックカフェともフロアは繋がっていて、気に入った本を棚からとった客たちがカフェのテーブル席へも戻っていく。カフェは通り側がガラス張りでランタンのような照明がいくつも天井から下がっており、落ち着いているが夜でも明るい雰囲気だ。


 俺も元々通りを歩いていて、このカフェが気になった。

 趣味の釣りの雑誌を眺めながらのコーヒータイムは仕事の息抜きにもってこいだった。

 そう、たまたま通りかかったわけではない。奥にラウンジがあって夜はバーになっているのも知っていた。


 ラウンジはカフェよりは相当照明を落としている。少しずつ本を並べてある濃いブラウンの木のボックスがセンス良く縦や横に並べられている。

 観葉植物や間接照明などのインテリアをうまく目隠しに利用してソファ席が2つある。

 完全なプライベート空間ではないが他の客からの視界を遮っている。やたらとカッコつけたオヤジがそのソファ席へと綺麗な女性を連れていく。不倫か? 商売か? 絶対まっとうな恋愛じゃない雰囲気だ。

 ま、俺には関係ないことだが。


 店に入ってきて外したストールとコートを隣の空いている席に置き、彼女はジャケットも脱いだ。会社でも飲み会でもジャケット姿だったから、その下がワンピースなことに今気がついた。テロンとした生地の柔らかい感じのベージュのワンピース。ふんわりしたショートカットの髪に小さなピアスが耳元で揺れている。


 何の曲か知らないが、緩やかな落ち着いた曲が流れている。ジャズなのか? 聴き心地のいい曲だ。

「こんなおしゃれなバーに来るんですね」

 カウンターに座った彼女があたりを見まわしながらそう言う。

「まあな」

 とカッコつけてはみたものの、

「いや、普段はあっち」

 とカフェの方向を指さした。

「ここならひとりで入っても手持無沙汰じゃないし」

 ちょっとガラでもないなと恥ずかしくなる。

「意外とおしゃれさんなんですねぇ」

 まさか、誰かさんを誘いたくて探し出したとは言えるわけがない。

「ま、な」

 とだけ答えておく。

 飲み会のあとなので、かんたんなツマミと飲み物だけオーダーする。

 彼女はキールロワイヤル、俺はジンライムにした。


 ゆらゆらと俺達のあいだのキャンドルの灯が揺れる。俺達が座っている正面はカウンターの内部になるが、壁の棚にも本が並べてあるし、ぼんやり灯る照明や松ぼっくりなどで作ったリースやリボンで結んだ木の実なども飾ってある。

「上原はどんなところに行くの?」

「女子会ならインスタとかに載っているおしゃれなお店とかにも行きますね」

「やっぱり美味いの? そういう店って」

「そうだったり。そうでなかったり」

 ふふっと笑いながら、彼女は写真集を開いた。


 本当はこんな色気のない呼び方をしたくない。けれどもこれ以外の呼び方はできない。キャンドルの芯の近くにロウが溶けて溜まっていく。

 オーダーしたドリンクとつまみのナッツが出される。お疲れ、と乾杯をする。

 彼女のスマホが鳴って、簡単に返信をしてバッグに戻す。

 さっきの飲み会のお疲れさまでしたメールだったらしい。バッグの中にちらりとキーホルダーが見えた。

 会社でも個人の机の鍵をあけるときにそのキーホルダーを見ることがある。

 キーホルダーには『T』のアルファベットの文字。


 彼女の名前はた行ではない。名前も苗字も。

 きっとヤツがTなんだ。T男。

 彼女の名前は今まさにその姿を赤く染めて秋を彩る樹と同じ名前だ。恐らくT男が彼女のKを持っている。

 そいつのことは知らない。大学の同級生だそうだ。俺は彼女とは同じ会社で同じ部署の3年先輩になる。


 俺の名前はた行ではない。濁点さえなければ……。

 タカシ、タカアキ、ツヨシ……、タナカ、タナベ……。た行の名前に猛烈な嫉妬を抱く。

「タパスでございます」

「タパス!?」

 予想外のリアクションをしたであろう俺をマスターと彼女が見る。

 口頭でつまみの盛り合わせとオーダーしたから名前まで見ていなかった。

 くそ、タパスめ。いや、これには罪はない。

「おもしろいですね、佐藤さん」

 ふふっと彼女に笑われる。少し首を傾げた動きでピアスが揺れる。


 そのピアス、彼のプレゼントなのだろうか。時々ケンカしたなどと言っているが、それで落ち込んでいるということはヤツのことを好きでいる証拠だ。

 そんな悲しませるようなヤツとなんか別れてしまえばいいのに。

 俺ならそんなことはしない。

 絶対に悲しませない。

 全肯定で守ってやるのに。

 出されたタパスをつまむ。少し彼女寄りに皿をスライドさせる。彼女もそれを口にする。あ、これ美味しいなんて微笑んでいる。


 彼女にとって自分が一番でないことはわかっている。

 それでも上原の同期の戸村(くそ、こいつもた行だ)よりは頼りになるだろう?プロジェクトリーダーの三村さんよりは話しやすいだろう? 仕事は向こうの方ができるが。(この人もトシアキだ、なんてことだ)俺達共通の敵の主任。コイツとは比べるのも嫌だ。(よかった、コイツはた行と関係ない)

 せめて職場での一番の位置にしてもらえないか?


 彼女が写真集をめくる。ブルーのグラデーションの海。浮かんでいるヨット。

「佐藤さんだったら、こんなところで釣りしてみたいですか?」

「いや、俺の釣りは川や湖だからね」

「海では釣らないの?」

「船酔いするんだ、俺」

 あははは、それじゃ無理ですよねぇ、と彼女は無邪気に笑う。基本彼女は後輩なので俺に対して敬語を使うのだが、ときおりふっと口調がくだけるときがある。

「海では釣らないの?」

 たったそれだけの言葉に俺の胸はうずく。


 彼女が眺めている写真。エメラルドグリーンのビーチ。

「こんなとこ、行ってみたいなぁ」

 誰と? まさか?

「誰と?」

 死刑宣告を聞きたいのか、俺は。自爆テロもいいところだ。

「お母さんやお姉ちゃんとかがいいかな」

 許す。大いに許す。

「家族、仲いいんだな」

 家族と一緒なら旅費出してもらえるかもしれませんもんね、と彼女は可愛らしく舌を出す。そうだな、楽しんで来い。

「佐藤さんなら誰と行きます?」

「ええっ?」

 そんなの……、

「そうだなぁ」

 言えるわけないだろうが。

「わ、わ、ここも素敵ですねぇ」

 俺の答えにさほど興味がないのか、ページはめくられた。


「もう秋も終わりですねぇ、すっかり」

 12月に入り、街は一気にクリスマス仕様だ。木目調のカウンターに控えめに置いてあるクリスマスの飾りを彼女が軽くつつく。

「そういえば外苑のイチョウ、今年は早かったですよね」

 会社の近くの有名なイチョウ並木だ。普段花や樹々には興味のない俺でもあの並木はキレイだと思う。秋の終わりのハイライト。青山通りから明治神宮外苑まで続くその並木道はよく映画やドラマのロケ地にもなる。

「そうか?」

 キレイだとは思うが、いちいち例年の紅葉の時期などチェックしていない。

「やっぱり名前と同じ紅葉こうようは好きなの?」

 チャンスだ。

紅葉もみじとか、か、かえでとか……」

 か、顔から火が出ていないか? 

 用心のためにジンライムを飲み干しておく。

「まあ、そうかな?」

 俺の顔を見ていない彼女はテーブルの上のナッツをつまんでいる。


「でも私誕生日秋じゃないんですよ」

「そうなの? いつ?」

 またもや、チャンス到来。

「2月。それもビミョーなの。バレンタインデー」

「なんでビミョーなの? 1回聞いたら絶対忘れないし、便利じゃん」

「女の子が告白する日に誕生日ですよ? ビミョーじゃないですか」

 そうか? いいじゃないか。その日に誕生日を祝ったって。

「そういうもんか?」

 それに、女の子が男にチョコ贈るのって日本だけじゃねぇか?

「そうですよ」

 俺なら……、盛大に祝ってやる。

 チョコでも花でもピアスでもなんでも買って祝ってやる。

 極力照明を落としている空間で温かい光を灯すキャンドルの丈が随分短くなった。来た時の半分くらいか?


 帰したくない。

 帰れなくなれば……


 雪でも降って……、

 季節外れの台風でもいい、

 電車が止まってしまえば……。


 この店の時計が止まっていて、

 実はもう終電の時間を過ぎているとか。


 あまりアルコールに強くない彼女は2杯目は炭酸入りのミネラルウォーターにした。俺はロックのバーボン。頬をピンク色に染めた彼女の横顔を見る。キャンドルの灯りがより彼女を綺麗に見せてくれる。

 この前友人と出かけたときのスイーツの人気店に2時間並んだ話や、別の友達の結婚式に行った話などをしてくれる。飲みに誘ったのは俺だが、もっぱら聞き役だ。少し無理をして話をさせているのかもしれないが、彼女の話は聞いていて楽しいし、耳心地がとてもいい。

 彼女のグラスの透明な弾けた炭酸が上へとのぼっていく。小さい粒が次々へと。


「あのさぁ」

「はい?」

 至近距離で彼女と目が合う。

 バーボンのグラスを思わず握りしめる。


 イマ、ツキアッテイルヤツノコト、ホントニスキ?


「いや、やっぱいい」

 俺の方から目をそらした。

 消え入りそうなキャンドルの灯が目に入る。


 オレガスキダッテイッタラ?


「どうしたの?」

 俺の顔を覗き込んでくる。息が詰まる。手の中のバーボンの氷が音をたてる。


 カエデノコトガダイスキダッテ、イッタラ?


「なんでもない」

 握りしめていたグラスから手を離す。

 俺のグラスから汗が流れ落ちる。


 スコシハカンガエテクレルカ?


「変な佐藤さん」

 彼女がミネラルウォーターに口をつける。俺ももう一度グラスを持つ。口へ運ぶ時に落ちた水滴が滲み、そこだけテーブルの色を濃くしてゆく。


 ちらっと

 彼女が店の時計を見た。


 止まってはいない正確な時計が、

 終電の時間が近いことを知らせている。


 例のソファのカップルもいつしかいなくなっている。




 残っていたバーボンと

 言い出せなかった言葉を


 俺は一緒に






 飲み干した。




It was based on " even if " by Ken Hirai.


NEXT↓ 『seasons after story』

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881949775

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