こいにかにぱん

鋼野タケシ

こいにかにぱん


 彼女はいつも、かにぱんを食べていた。

 パンを一口食べ、小さく千切ったパンくずを川に落とす。

 ばしゃばしゃと音を立てて鯉が群がってくる。まるで妖怪みたいに大きな鯉が、水を蹴立ててパンくずに食いつく。なにが楽しいのか、彼女は鯉の様子を熱心に眺めていた。

「へんなやつ」

 つぶやいた声が聞こえたようで、彼女はぼくをにらみつけた。


 川崎市多摩区。南武線沿線の宿河原しゅくがわら駅。

 駅からちょっと歩いた場所に、用水路が流れている。川幅は二メートルほどだろうか。多摩川から農業用水として引かれたもので、名前は二ヶ領用水にかりょうようすい

 歴史は古く、関ヶ原の戦いが始まる三年前には測量が始まっていた。徳川家康の命令で治水事業が始まって、どうのこうの。由緒ある有名な場所、400年以上の伝統を持つ郷土の誇り、だとか、なんとか。

 小学生の時に授業で習った。でも、あまり覚えていない。

 春になると桜がキレイで、夏にはセミがうるさくて、妖怪みたいな巨大鯉が悠々と泳いでいる。二ヶ領用水は、どこにでもあるような小さな川。特別なことなんて、何もない。


 小学生の頃、よく二ヶ領用水でザリガニを釣っていた。ぼくが絶好の釣りスポットと思っていた場所に、彼女もいた。

 鯉にかにぱんを与える彼女と、ぼくは犬猿の仲だった。

 ぼくが「へんなやつ」とつぶやいたのをきっかけに、彼女もぼくに突っかかって来るようになった。

「邪魔なんだけど、ザリガニ男」彼女はぼくをそう呼んだ。

「うるせー、かにぱん女」負けじとぼくも言い返した。

 男子と女子だから、殴り合うようなケンカにはならなかった。ただ、お互いを見かけるたびに悪口を言い合った。ぼくは彼女が大嫌いだった。


 二ヶ領用水は、川を挟んで両側が桜並木になっている。ソメイヨシノが満開になる春、二ヶ領用水の遊歩道は花見客であふれる。

 どうして大人たちが花見をするのか、子供のぼくにはわからなかった。

 春になれば桜が咲く。二ヶ領沿いを歩いていれば、いくらでも桜が眺められる。見上げた視界が桜色で埋め尽くされるのも、雨のように花びらが舞うのも当たり前。大人たちがわざわざ見たがる意味がわからない。


 中学生になっても、かにぱんの彼女を見かけた。

 学校からの帰り道、二ヶ領用水を通りがかる。彼女は制服のままでかにぱんを食べて、パンくずを鯉に与えている。

 同じ中学だな、と制服を見て気が付いた。

「なんか用? ザリガニ男」

 ザリガニ釣りはずいぶん前にしなくなったけど、彼女の悪口は変わらない。

「うるせー、かにぱん女」と、ぼくも言い返す。


 週に一回か、二回。かにぱんの彼女はいる。見掛けるたびにぼくは声をかけた。

「他にやることねーのかよ、かにぱん女」

「アンタは? お友達のザリガニとも最近は遊んでないね」

 彼女は強気で、口が悪い。やっぱり、ぼくは彼女が嫌いだ。


 大学に入学して、ぼくは初めて地元を離れた。

 その頃から春の過ぎ去るスピードが変わった気がする。

 年が明け、暖かくなってきたと思うとすぐ夏になる。真夏の酷暑にジッと耐えていたはずが、いつの間にか布団の中で寒さに震えるようになる。

 二十歳を過ぎると時間の流れるのが早く感じると言われて来たから、きっと誰もが同じなのだろうと思っていた。


 就職が決まり、久々に春の宿河原へ戻って来た。

 二ヶ領用水には桜が咲いていた。ひらひらと桜の花びらが散った。

 キレイだと、生まれて初めてぼくは感じた。

 大きく枝を広げた桜も、空を埋め尽くすような花びらも、存在するのが当たり前だと思っていた。だから二十年も気付かずにいた。

 ぼくの生まれたこの町は、こんなにも美しい。


 久々に、二ヶ領用水を散歩した。昔ザリガニを釣っていた場所を通りがかると、大人になった彼女が居た。

 彼女は今日も、鯉にエサを与えている。

「なんだ。生きてたんだ、ザリガニ男」

ぼくに気が付いて、彼女が言う。思わず笑みがこぼれた。

「うるせー、かにぱん女。鯉にエサやるの楽しいか?」

「別に。この場所が好きなだけ。それに……おばあちゃんが生きてた頃、よく一緒にエサあげてたから。ただの習慣を続けてるだけ」と、彼女は答えた。

 彼女が誰かと居るところは、見た覚えがない。ぼくと知り合う前に彼女のおばあさんは亡くなったのだろう。

 彼女はここで、思い出に浸っていたのかも知れない。

「あのさ。悪かったな。いつもからかって。今さらだけど……」

 ぼくが謝ると、彼女は微笑んだ。

「お互い様だね」

 二ヶ領用水の桜が咲くと、春が来たと感じる。つぼみが少しずつ膨らんで、一気に咲き始める。やがて一枚、また一枚と花びらが散っていく。緑が芽吹く。桜の葉が花に勝るようになると、もう春も終わるのだなと思う。当たり前に見ていた景色が、ぼくにとっては四季を感じさせるすべてだった。

 離れて初めて気が付くこともある。

 特別さなんて何もない景色が、ぼくはこんなにも好きだった。

 桜の花に満たされた空。ささやかな二ヶ領用水の流れ。

 それに、ときどき見掛ける彼女のことも。

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こいにかにぱん 鋼野タケシ @haganenotakeshi

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