流れていく橋を渡る
雪瀬ひうろ
第1話
橋を見ている。
またの名を『流れ橋』という。
その最大の特徴は橋桁が流れてしまうように、あえて橋脚に固定していないことだ。橋脚が柱だとすれば、橋桁は床といったところだろうか。その二つが固定されていれば、嵐や洪水に襲われたときに橋桁と共に橋脚も破壊されてしまう。逆に橋桁が簡単に流れてしまえば、橋脚の方は破壊されずに済む。
橋桁が簡単に流されてしまうこと。
それが上津屋橋が『流れ橋』と呼ばれる所以だった。
「また来ちゃった……」
今住んでいる実家からは自転車を使えば、三十分ほどで、この場所に辿り着ける。
私は何かが起こる度にこの橋を訪れる。
初めて訪れたのは、小学生のとき。友達と喧嘩して、誰とも会いたくなくて、滅茶苦茶に走り回って辿り着いた場所だった。
小学生の私はその橋を見つけた瞬間に、心を奪われていた。
その橋は手すりもなく、ただ約一メートルほどの幅の橋桁が向こう岸まで続いている。橋桁は細長い木材を何枚も組み合わせて作られていて、それはまるで世界の果てまで続く線路のように思えた。
小学生の私は、怖々とその橋桁に足を乗せる。
私の小さな足にしっかりとした感触が返ってくる。次に小さな私は飛び跳ねる。じんとした衝撃が私の足を伝って全身に伝わった。こんなぼろぼろに見える橋なのにこんなにも力強い。
数メートル進んで橋の上から川を覗き込む。ゆったりと流れる透明な水。まるで一つの生き物のようにうねる川の流れに、私はゆっくりと息を飲み込んだ。
灰色のコンクリートの橋しか知らなかった私は、一瞬でこの流れ橋の虜になった。
私は誰かと競争するように向こう岸へと走り出した。
そうしている間の私は友達と喧嘩したなどという事実を、すっかり忘れることができたのだった。
中学生になって、親に塾に通えと言われたとき。
高校生になって、片思いの恋に破れたとき。
大学受験に失敗して、浪人することが決定したとき。
そして、今、就職のため、この町を離れようとしているとき。
私は橋桁の上に立って、向こう岸を見る。子供の頃は無限の果てのように思えた向こう岸も今なら一瞬だ。今の私ならいったい何歩で向こう岸まで辿り着けるだろうか。
「競争だよ」
気付けば、小学生の自分が私の後ろに居た。
小学生の私は、私をぐんぐん追い抜いて向こう岸へと駆けていった。
私はそれを黙って見送って、微笑んだ。
そして、私は愛すべき橋にゆっくりと背を向ける。
今の私が進むべき道は、この橋の向こうではないのだから。
いつか、必ずこの場所に、帰ってこようと思う。
それまでにこの橋桁は何度も流されているかもしれない。時と場合によっては復旧が間に合わず、むなしそうに橋脚だけが屹立しているかもしれない。
でも、いつか必ず直る。
この橋が無くなって、本当の意味で壊れてしまうことなんてない。
だから、私は辛くなったとき、何度もこの橋を訪れる。
「またね」
遠い向こう岸に居る誰かが私に向かって手を振った。
そんな幻を、私は確かに見た。
〈了〉
流れていく橋を渡る 雪瀬ひうろ @hiuro
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