第二話
その翌日。
夕方、畑仕事を終えた太平の前に、いつものように花が現れた。
「今日は、紅葉を見に行こうよ。とても綺麗な場所があるの」
花は愛らしい笑顔でそうはしゃぐ。
「本当?それは楽しみだな」
太平は普段と変わらない優しい微笑みで答えた。
歩き慣れた山のはずなのに——それほど登らないうちに、花は苦しげな息をつき始めた。
「花?——大丈夫?」
「うん…全然」
「……そういえば、花。最近少し顔色が悪くない?以前より痩せたようだし…」
「そうかな?…ちょっと咳が出るから、そのせいかな…太平、もう少しで着くよ」
花はそう言って、太平の心配をはぐらかす。
木立の茂る細道を歩き続けると、次第に美しい紅葉が頭上を飾り始めた。
「すごい…本当に綺麗だ!まるで空が紅葉に覆われたみたいだ。花、本当にこの山の素敵な場所をたくさん知ってるんだね…
——花?」
横を歩いていた花が、ゆらりと太平の肩に凭れ掛かった。
その唇は青ざめ、肌はあまりにも白く透き通るようだ。
「…太平。しばらくこうしていてもいい?
たまにはこうやって、太平に甘えてみたくて…」
「……ああ、いいよ」
その肩はか細く、身体の重みも心細い程に軽い。
太平は、花の異変に気づきながらも、黙って花の肩を支えて歩いた。
この見事な紅葉も、花の力が創り出した幻だ。
太平の喜ぶ顔が見たくて——いつも、いつも。
……少し、力を使いすぎたのかもしれない——
花は、太平に肩を抱かれながら、うつろにそう思った。
その日何とか山歩きを終えて太平と別れた花は、崩れるように狐の姿に戻ると、そのまま老狐の棲家へと向かった。
「——お願い致します。…あのひとの側に…これからも長く寄り添っていきたいのです…。
どうか…お力をお貸しいただけないでしょうか——」
花は、消え入るような細い声で老狐に懇願した。
老狐は、やつれた花の姿をいたわるように見つめた。
「毎日術を使うなど……
このままでは…お前の力は、間もなく尽きてしまう。
止めても仕方のないことだとは思ったが——」
「…私が消えれば——あのひとは、またひとりきりになってしまいます…。
どうか、良いお知恵を——」
「以前お前に話したことを覚えているか。——その定めは、私にもどうすることもできないのだ。
この先は——お前が、自分で考えるしかないのだよ——」
項垂れて、足を引きずるように帰ってゆく花の姿を、老狐は黙って見送るしかなかった。
*
あの紅葉を見た日から、十日程が過ぎた。
あれ以来、花はふつと姿を見せなくなった。
青ざめて自分に凭れ掛かる花の様子を、太平は繰り返し思い出していた。
体調に、何か大きな異変があったのだろうか——?
今、花は、どこでどのように過ごしているのか。
——もう、会えないのだろうか?
太平の頭を、不吉な思いが過る。
花の座らなくなった畑の脇の切り株に、腰を下ろした。
いつも花がひょっこり顔を出した木陰を、じっと見つめた。
もう一度、花に会いたい。
声を聞きたい。
あの笑顔を、もう一度見たい。
見たいけれど——
空に向かい、祈った。
神様——
もう会えないなら——それでもいい。
どうか、花が元気でいますように——。
そこへ、ふっと何かの気配が近づいた。
はっと見ると——
目の前に、花が立っていた。
以前よりもほっそりと、どこか大人びた笑顔で——
夕方の風に、黒髪がさらさらと美しく靡く。
気のせいだろうか。着物の竜胆色が、いつもよりひときわ深く鮮やかに見える。
「——花———!」
一瞬見蕩れてから…再び会えた喜びに、思わず叫んだ。
「しばらく来られなくてごめんなさい、太平」
花は艶やかに微笑む。
「今日は——私の一番好きな場所へ、太平と一緒に行きたいと思って」
そう言うと、花はそっと太平の手を取った。
「行きましょう」
無邪気な娘から、大人の女の空気を纏い始めたその手に引かれ——太平は胸がざわざわと高鳴るような思いで、山へ向かって歩き出した。
花は、どんどん山の奥深くへ入って行く。
木立が鬱蒼と生い茂る中を分け入っていくと、突然ぽっかりと、枝が頭上を包み込むような細道が現れた。
身を屈めるように、その細道を進んで行く。
——どのくらい歩いただろうか。
突然、目の前に現れたのは——
一面に竜胆の咲き誇る、それは美しい野原だった。
鮮やかに深い色をした、見たこともないような美しい竜胆。
「綺麗でしょう——?
ここは、私とあなただけの場所」
花は、野原の真ん中に立って微笑む。
一面の竜胆の中に立つ、竜胆色の着物を着た美しい女。
「あなたにあげる」
花は、足元の花を数輪摘むと、静かに太平に差し出した。
次第に暮れてゆく空。
吹き抜ける風に、無数の竜胆が一斉に揺れる。
夕方の薄暗さが、風になびく花の波の色を更に濃く、深く見せる。
あまりの美しさに——心を吸い込まれるようだ。
「——もっと奥へ…そこはもっと美しいわ」
花は太平の手を離さず、そう誘う。
「そうだね。——一緒に行こう」
太平は、躊躇うことなく花の手をしっかり握ると、再び歩き出した。
花園の奥深く——一層濃い闇が漂うその先へ踏み込もうとして——花が突然足を止めた。
そして、静かに振り返ると、鋭く太平に言った。
「この野原から、今すぐ出て———走って。早く!」
「なぜ?
——僕は行かないよ」
太平は、いつものように穏やかに答える。
花は振り絞るように呟いた。
「今ここを離れないと——あなたは死ぬわ。
私は、人間の娘なんかじゃない。狐よ。
昔あなたが助けた、子狐。——太平、覚えてる?
今まであなたに見せた物は皆、私の創り出した幻。
この場所も全部、幻よ。
本当は、ここには竜胆の野原なんかない。——そして、今立っているこの地面も、もうすぐ消える。
このままここに立っていたら——深い谷底へ堕ちるわ」
「ああ——君は、あの時の子狐だったんだね」
太平は、そんなふうに静かに微笑む。
「ここが幻だっていうことも——もうとっくに知ってるよ。
だって、ここは——父が足を滑らせた崖だから。
この野原も、竜胆も、この地面も、本当はどこにもない。
この場所が全て幻だって、気づいてた」
花の表情が、驚きに変わった。
「——私が狐だと……もう、知っていたの——?」
優しい笑顔を変えないまま頷き、太平は答える。
「君の本当の姿なんて、関係ない。
君に会えずにいた間に、僕は決めたんだ。
もし、今度会えたら——僕は、君の手を決して離さないと」
花は、太平の手を振りほどこうとしながら静かに答える。
「私は、あなたを騙そうとしたのよ?
私のこの力が尽きたとき、私の命も尽きる。
あなたをまたひとりきりにするくらいなら——
いいえ、違う。
私が、あなたと離れたくなかったから——
いっそ、谷底へ一緒に堕ちてしまいたかったの。
でも——あなたは若く、健やかで——そして、だれよりも優しい。
そんな、大切なあなたを騙して——命を奪おうなんて……私は、恐ろしいことを考えていたのよ。
もう間もなく、私の力は尽きる。この地面も、あと僅かな時間しか持たないわ——お願いだから、この野原から出ていって」
太平は、離れようとする花の手を一層しっかりと握りしめた。
「今日は、僕は君から決して離れないつもりで来たんだ。
例え、君が僕を騙しているとしても——。
でも、君は僕を騙さなかった。
こんな最後の時にさえ。
今、僕は生まれて初めて、こんなに幸せなんだ。
僕は、君から離れない。
——何があっても、絶対に。
僕は、君の側にいること以外、叶えたいことなんてないんだ」
花は、はっとしたように太平の顔を見つめた。
——それは、かつて花が老狐の前で言った言葉と同じだった。
側にいること以外、叶えたいことはない——。
自分も、太平も。
叶えたいことは、同じ。
そのただひとつだけなのだ。
視界が、白くかすみ出し——
花は太平の胸にふわりと倒れた。
咲き乱れていた竜胆の花の色が少しずつ淡くなり、風に吹かれながら一輪ずつ消えて行く。
花びらを離れた美しい青紫色は、空へ舞い上がり——夕空を一層深く、濃く染め上げていく。
ふたりの足元に、白い靄が立ちこめ始めた。
花と太平の姿も、だんだんと靄に包まれていく。
「太平。——私たち、一緒ね」
その腕に抱かれて苦しい息をつきながら、花が太平を見上げて微笑む。
「うん。一緒だ。——ずっと一緒だ」
か細い身体を包むように抱え、太平は花を見つめて優しく微笑んだ。
真っ白な靄に包まれながら——地面が消えていく。
その瞬間、ふたりはしっかりと抱きしめ合った。
そして——そのまま、静かに谷底へ堕ちていった。
*
太平が突然いなくなったことを心配した隣家のおやじさんは、村の男達を集めて方々を探しまわった。
そして——父親と同じ谷底で、太平の亡骸を見つけた。
不思議なことに、太平は一匹の美しい狐を包み込むように抱いていた。
そしてその手には、どこで摘んだとも知れない鮮やかな竜胆の花が数輪、しっかりと握られていた。
その穏やかに満たされた死に顔は、村の男達が思わず見入るほどだったという。
村人達は、太平が抱いたまま離さない狐の亡骸を、太平と一緒に葬ることにした。
そして、その小さな墓に、太平の握っていた竜胆の花を供え、弔った。
竜胆は、幾日も美しく咲き続けた。
太平と花は、幸せだった。
誰が何と言おうと——
彼らは、誰よりも幸せだった。
竜胆—りんどう— aoiaoi @aoiaoi
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