竜胆—りんどう—
aoiaoi
第一話
俯くことなく空を向き、美しい青紫色に咲く、秋の野草。
秋だ。
少しずつ山を彩り始めた紅葉が美しい。
時々、ひんやりとした空気を切るように、鵙の鋭い声が響いてくる。
「
花が、いつものように木陰からぴょこんと顔を出した。
「うん、今ちょうど切りのいいところだ」
太平は優しく答え、鍬を置いて首に巻いた手ぬぐいで額を拭いた。
「じゃ、食べよ」
花は、着物の端切れの小さな包みを差し出した。
「いつも僕の分まで、大変だろ?」
畑の脇の草の上に並んで腰を下ろす。
「ぜんぜん。だってこんなにちっちゃいんだもの」
花はおかしそうに笑って、包みを開いた。
そこには、小さなおむすびがみっつ。
花はそのうちのひとつを、太平の大きなおむすびの横にちょこんと乗せる。
「ありがとう」
太平は嬉しそうに、いつもそのちっちゃなおむすびから食べる。
その顔を見ながら、花も嬉しそうに残りのおむすびを食べる。
太平は、ある山裾の村はずれに住む青年。
青年と言っても、まだあどけなさが残る年頃だ。
幼い時に母を病で失った。
太平を育ててくれた父も、今年の春に山中で脚を滑らせ、崖から落ちた。
太平は、ひとりになった。
父の残した畑で、父から教わった畑仕事を何とか自分でするしかない。
幸い、隣家のおやじさんが情の厚いひとだった。
太平は、困ったときにはこのおやじさんに相談しながら、ひとりで暮らし始めた。
分からないことだらけの、ひとりきりの暮らし。
日が沈むたびに忍び寄る心細さと寂しさに、ただただ震えて夜を過ごした。
そんな春のある日。
畑の側の木陰からひとりの少女がひょっこり現れた。
それが、花だった。
年頃は、太平と同じくらいだろうか。
真っ白な肌に、涼やかな黒い瞳。
つややかな黒い髪を後ろでひとつに結んだ、びっくりするような愛らしい少女。
そしていつも、目の覚めるような美しい竜胆色の着物を着ていた。
紅色の帯が、その竜胆の色をひときわ鮮やかに見せる。
初めて木陰から現れたその日から毎日、花は昼の仕事休みの時間に、必ず太平の所に来るようになった。
隣村の外れに住んでいて、ここまではすぐなのだという。
「太平、今日も仕事が終わったら、ちょっと山へ遊びにいこうよ」
花は、おむすびを食べ終わると、嬉しそうに言う。
「今日は、どこにいくの?」
「うーん…考えとく」
花はそういって、いたずらっぽく笑う。
花は、山の中のたくさんの場所を知っていた。
小さな花畑や、甘い実のなる木。小さな泉の湧く場所、夕焼けの美しい丘。
午後、畑仕事が終わる頃、花は再び木陰からひょっこり現れる。
太平は、それから空が暗くなるまでの時間を、そうやって花に連れられて毎日山を楽しむのだった。
そうして——出会った春の日から、あっという間に夏が過ぎた。
今は、秋。
花がいてくれるおかげで、堪え難かった寂しさや悲しみも少しずつ癒された。
太平はふと、自分の心が温かな幸せで満たされていることに気がついた。
その日の夕暮れ。
山遊びを終えて花と別れた太平は、家へ戻りかけて——思い切ったように踵を返した。
花に、伝えたかった。
——これからずっと、自分の側にいてほしい、と。
そして——追いついた花の背に声をかけようとして、太平は思わず息をのんだ。
花は、木立の間の暗がりにするりと入ると——
美しい狐の姿になって、山の奥へ消えていった。
太平は、自分の目を疑った。
家に帰ってからも、何度も何度も、自分が見たものを打ち消そうとした。
しかし——どうにも消しようがない。
でも、もしも花にそのことを問いただしたら——きっと花は、もう二度と自分の前に現れないだろう。
そして不思議なことに——
信じ難い光景を見た後でも、太平の花への思いは、少しも揺らがなかった。
彼女の本当の姿が、たとえ何であったとしても。
死ぬ程寂しく、追い詰められていた心を救ってくれた花を——
自分は、心から愛している。
自分の想いの深さに、初めて気づいた。
太平は、何も聞かず、何も言わないことにした。
そんなこと、少しも知らないふりをして——今までと全く変わらず、花の側にいることにした。
ただ——花に伝えたかったあの思いだけは、心の奥にしまい込んだ。
それを打ち明けて、花に受け止めてもらえないことを考えると——
そして、その後自分たちの繋がりがどうなってしまうのかを考えると、怖かった。
*
この山に住む、一匹の狐がいた。
まだ小さな子狐だった頃——母親からはぐれ、村の側まで出てきてしまったことがある。
それを見つけてくれたのは、人間の男の子だった。
「母さん、狐の子があんなところにいるよ」
手を引く母に、小さな男の子が話しかける。
「おや…きっと、あの子はお母さんとはぐれたんだね。このまま村へ出てしまったら、きっと子ども達に追いかけられるよ。…太平、あの子を抱いておいで。山の木立の間へ戻してあげよう」
抱かれている間の、胸元の温かさと優しい匂い。
自分を見下ろす、くるくるまるくて大きな優しい瞳。
「太平。この辺りの草の分け目は、きっと獣道だよ。この側の茂みに、この子を隠していこう。——きっと、お母さんがすぐに見つけに来てくれるから」
母にいわれ、男の子は自分を草むらに優しく下ろした。
「もう、迷子にならないようにね。——どうか、はやくお母さんが迎えに来ますように」
そして、空に向かって、彼は自分のために祈ってくれた。
母ぎつねは、その後すぐに自分を探し出した。
あの子がもしも自分を見つけてくれなければ、きっと自分は生きていなかっただろう。
あの時に聞いた、「たへい」という響き——きっと、あの男の子の名前だ——それを、子狐は決して忘れなかった。
子狐は、太平に会いたかった。
会って、お礼を伝えたかった。
そして——できるなら、もっとたくさん側にいて、何か役に立ちたい——いつもそう願い続けた。
娘の年頃になると、狐は、山の奥深くに住む
老狐は、銀の艶やかな尾の中に自分自身を埋めながら、低く言った。
「——いいことはない。人の姿になるなど」
「自分の身体と命の使い方は、自分で決めます。私は、あのひとの力になりたい。
私にとってのいいことは、ただそれだけ」
老狐は少し顔を上げると、その娘狐をじっと見つめた。
「——その技は、お前の『命』を使う術なのだ。使えば使うほどお前の命が削られていく、そういう力なのだよ。——それでも、技を操りたいというのか」
狐は、老狐のその言葉に一瞬躊躇ったが——静かに答えた。
「——私には、他に叶えたいことはありません」
老狐は、しばらくじっと考えてから——ゆっくりと言い聞かせるように呟いた。
「毎日ここへ来なさい。技を教えよう。
ただ…その力はいずれ、お前自身を消す。——それでよいのだな」
狐は、みるみる力を身につけた。
毎日身体中のあちこちに傷を作るほど、老狐に厳しく教え込まれながら。
自身を人間の娘に変える技。
小さなおむすびを掌に作り出す技。
甘い実のなる木や花畑、小さな泉などを、まるで本物のように人に見せ、味わわせる技。
そして——着物の色を、大好きな竜胆の色に染める技。
「では、行きなさい。——お前の名は、自分で決めるのだ」
そして、ある春の日。
老狐は一言そう言うと、棲家の奥へと消えた。
娘狐は、ひとの娘の姿になった。
深く鮮やかな竜胆色の着物を着た、美しい娘に。
そして、あのとき太平に会った場所まで一心に走り続けた。
夕暮れの村はずれに近づくと、周りを気にしながら——小さな一軒の家の側までたどり着いた。
木の陰に隠れ、しばらくその家の様子を伺う。
「——じゃあな、太平。また来るよ」
人間の声がする。
「いつもありがとうございます、おやじさん」
「両親とも亡くなって辛いだろうが——また何かあったらわしに言え。ひとりきりでいないで、いつでもうちにきたらいい。何でも相談に乗るからな」
その家から、男がふたり出て来た。
今、確か——若い男は「たへい」と呼ばれた——。
両親とも亡くなって……ひとりきり……
そう聞こえたが…?
年配の男と別れ、ちらりとこちらを見た若い男の顔は——。
ああ、太平だ。
懐かしい、あの子だ。
随分成長したが——幼い頃の面影がはっきりと残っている。
その男が、満開の花をつけた木を見上げて、うつろに呟いた。
「ああ、桜が咲いた——これから、花の季節なんだな」
そう言いながら——流れる涙を、手の甲で拭いている。
はなの、きせつ——。
今、太平はそう言った。
狐は、このとき決めた。
自分の名前は、「はな」だと。
そして——明日から毎日、自分は「はな」になって太平に会いに来ようと決めた。
悲しみに打ち拉がれた彼の心を、少しでも元気づけるために。
やがて、太平と過ごす幸せな季節は巡り——秋が来た。
悲しげな眼をして俯くことも今はほとんどなくなり、自分の隣で明るく笑う太平を、花は幸せな気持ちで見つめた。
ただ——その一方で、自分の身体は日に日に疲れやすく、痩せ細っていくようだ。
そんな疲れのせいだろうか。
花は、先ほど太平に自分の本当の姿を見られたことにも気づかず——
今日の技を終えたふらつく足で、山のねぐらへと戻って行った。
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