蠅。

ダイナマイト・キッド

蠅。

 蝿が居る


 決して広くは無い、白とモスグリーンのタイルに囲まれた明るいバスルームの中を見え隠れに飛んでいる。湯船に肩まで沈んだまま辺りを見渡してみると、うっすら湯気のたちこもる天井の片隅を、一瞬小さな黒い物体が通り過ぎて行った。びびびび……という、あの耳障りな羽音と一緒に

 ゆっくりと湯船に浸かって、ぼんやりと体を温めているこの時間が好きだ。頭の中まで温まってきて、絡まりあい凝り固まりあい不細工なタペストリーのようになった色々な悩み事も、段々とほぐれていくようだ。だけど今日は違う

 

 びびび……びびびび

 

 また羽音だ。鬱陶しいったらない。気になって見渡してみると、もういない。羽音もしない。そしてまた考え事をして、ぼんやりと思考が溶けてくる頃になって

 

 びび……びびびび

 

 と小刻みな音を立てて浴室の天井近くを飛んでゆくのだ。何度か逡巡した。我慢ならん! と勢いよく立ち上がっても

(まあ、一寸の虫にも五分の魂と言うじゃない)

 と、なんとなく躊躇ってしまう。蝿の一匹ぐらいわざわざ殺すのも気が引ける。けれど、それも三度までだった。元々長風呂なタチなので普段から三十分ぐらい湯船に浸かっていないと気が済まないのだ。これではゆっくり心身を休めることもままならない。勢いよく浴槽から立ち上がると、今度は浴室の壁や天井をじっくりとにらみつけた。もう「見渡す」などという生ぬるいものではない。これは戦いなのだ。温まった体から湯気が出ている。シャワーのお湯をざあっと勢いよく出しながら、怪しい所をじっと見ていると──

 

 びび


 出た! 窓だ。斜めに開く大きめの窓と網戸の間のわずかな空間に、奴は潜んでいた。すかさずシャワーのお湯を浴びせる。四十二度だから熱湯と言うほどではない。案の定はじめはあまり効果が無く、浴室を飛ぶ羽音を掻き消すぐらいにしかならなかった。しかし一分ほどお湯をかけ続けていると流石に体が重くなってきたのか、だんだんと高度が下がってきた。このまま撃墜してやろう。排水溝のそばをへろへろと飛んだ一瞬の隙に、手桶になみなみと汲んだお湯をぶっかけた。するとシャワーとは格段に質量の違うお湯の塊が どざあっと排水溝に落ちていった。蝿も巻き込まれたらしく、もうどこにも姿が見えなかった。

 勝ったか……。全てが終わったと思ったとたんに、自分の大人気なさが気恥ずかしくなってきた。すっかり冷えた体を温めるためにもう一度湯船に浸かって、今度こそ頭の中が白く溶けてきたそのとき


 び……


 羽音だ。馬鹿な。そうか、やっぱりあの時逃がしていたのか。半分億劫だったが気になるので、照明の白っぽい明かりの周りを飛んでいる所へ手桶いっぱいの一撃を喰らわせてやった。そのまま低く飛んだ所を、今度は平手で叩き落した。蝿を素手で触るのは気が進まないが、ここは風呂場。石鹸で手を洗えばいいじゃないか、とブツブツ独り言を言いながらウレタンのマットで痙攣している蝿をシャワーで流してしまった


 そしてハンドソープのボトルを手繰り寄せて、ポンプを押そうとした、さらにそのとき


 びび


 蝿だ。こんな所にも隠れていたのか?ボトルの裏から勢いよく飛び出した蝿を見て、憎たらしい気持ちが再びよみがえってくる。ああもう、気分悪い!浴槽のお湯とともに苛立ちも手桶一杯に汲んで、次の獲物も排水溝にくれてやる。やれやれ…もう今日は上がってしまおう。そう思って浴室のドアノブを握った


 びび


 びびび


 蝿だ。今度は二匹居る。咄嗟にシャワーを握ってお湯を出し、標的めがけて水流を振り回す。天井に溜まった水滴がぽつぽつと落ちてきて

ぽたっ

 と肩に落ちた水滴がやけに黒かった

 蝿だ! 手で払ってタイルに落とすと、それも排水溝へ流し込む。後の一匹は…照明の辺りか。それとも窓の裏側か


 びび

 

 居た!


 びびび

 

 えっ!?

 

 びびびび

 

 蝿が、増えてる? おかしい。さっきから落としても落としても蝿が出てくる。それも次々に。網戸に穴でも開いているのか。それを確かめたかったが、もし、もしも馬鹿げた、あまりにも子供じみた想像だけれど。あの斜めに開いた窓ガラスの裏側に、びっしりと黒い蝿がたかって蠢いていたら……? ガラスは分厚く、表面が波打つようなものを使っている。その為に裏側は透けて見えない。当たり前だ透けてたまるか。だが次々に湧き出てくる蝿の住処が、あのガラスの裏側だったら。絶対に確かめたくは無い。ただ、この調子だと放っておいても次々に蝿が湧いてくるだろう。試しに、シャワーを窓の裏側に向かって浴びせてみる事にした。もし蝿が一斉に飛び立ってきたら、急いで浴室を出てしまおう

 意を決して、ざばざばざばざば! とシャワーのお湯を浴びせてみる。すっかり腰が引けているので、大変に間抜けな姿勢の自分が鏡にうつっていた。蝿は……出てこない。どうやら窓ではないようだ。浴槽をまたいで網戸を見てみる。穴などが開いている様子もなさそうだ。ばたん! と大きな音を立てて窓を閉めて、しっかりと鍵をかけた

 時計は夜二十二時を少し回った所。明日のために、もう今日は寝てしまわないと。残った蝿を片付けようか少し迷ったけれど、そのままにしておく事にした。もういいや。余計な時間を使ったな、と後悔しながら、丸めた浴槽のふたをバタバタと閉じた。湯船に取り残された蝿が こつん、こつん とふたにぶつかる音がする。いつの間にこんなに増えたんだろ。

 ふと天井を見上げると……一、二、三、四、五、六。天井に六匹もの蝿が逆さになって張り付いている。浴槽に居る奴を含めると十匹近くになるだろう。これだけの蝿が、短時間で狭い浴室に集まってくる事なんてありえるだろうか。何か動物の死骸や、下水のトラブルでもあったのかもしれない。流石に気味が悪くなり、張り付いている蝿をシャワーで落としてしまおうとお湯の温度設定を少し上げて、コックを捻った


 きゅっ

 と音がして、透明な水が細かな水流になって噴出してくる。やがてそれは四十六度のお湯に変わり、冷えた浴室にもうもうと湯気を立て始めた。天井の蝿はお湯を浴びると一斉に飛び立ち、浴室内を飛び回った。これだけ飛んでいると狙いやすいが、素肌に触れそうで腰が引ける。それに不意に冷たいタイルに背中が触れて驚いたりもする。そうだ、壁を背にして戦えばいいんだ!それなら後ろから狙われる事はあるまい。

 ひんやりするタイルに背中をゆっくりと押し付ける。お尻の山がタイルの冷たさにきゅっと引き締まったが、すぐに温度差を感じなくなった


 ざあああああああああああ

 

 さっきから流しっぱなしのシャワーを出鱈目に振ってみるが、一向に蝿は落ちない。しかし軽い気持ちでシャワーを使っているが確かにこれでは蝿も死なないし、勿体無い。けれどこの狭い場所で殺虫剤を使うと、自分がそれを吸い込んでしまいそうだ。結局シャワーの温度を四十八度まで上げて、再び蝿どもに向かって放水を続けた


 蝿にしばらくシャワーを当てていると、段々と高度が落ちてくる。そこを狙って平手で落とし、排水溝へ流し込む。そんな作業に慣れてきてしまい、はっと我に返ると


 ぶわあああああん


 いつの間にか浴室中を無数の蝿が飛び回っていた。落としては流し、落としては流しても一向に減らないわけである。呆然としてしまった。浴室の湯気の中を、黒くて丸い戦闘機のように飛び回り、まとわりついてくる蝿の大群。一体、何が起こったというんだ!?

 ふと上を見ると、天井にも何箇所かに固まって蝿がとまっている。照明の裏側にも閉め切った窓の内側にも張り付いた蝿どもが次々に飛び出してくる。そして気付いた

 

 排水溝だ

 

 それは、数匹まとまった死体を排水溝に流し込む最中に起こった。いや、先ほどからずっと起こっていた事に漸く気付いたのだった

 排水溝の激流の中から、黒い、小さな生物がもがきながら現れて飛び立ってゆく。流しても流しても、そこから湧いて来ていたのだ

(もう限界だ、さっさと浴室を出よう!)


 そう思って素早く壁から離れた途端


 ばたーーん!!


 急に眩暈がして、勢いよくウレタンのマットに倒れてしまった。どうやら貧血を起こしてしまったらしい。シャワーの熱湯が下腹部に当たって熱い。けれど身動きが取れない。頭がクラクラする。ああ、シャワーを握った左手が体の下敷きになっている。熱い……呼吸が苦しい。蝿がわんわん羽音を立てて飛び回って、上になった脇腹や肩の上にとまっている。やめろ……やめろ……!

 

 声も出ない


 そうしている間にも、あの排水溝からは次々に新手が湧いて来ているはずだ。目の前のマットの上にも沢山の蝿が立ったり転がったりしている


 ざああああああああ


 一瞬、シャワーの音だけが響いた。あれほど鳴っていた羽音がほんの刹那、止んだ。

そして次の瞬間、浴室中の蝿が一斉にこちらに向かって飛んできた


 わあ、わあわあ!

 わあーーーっ!!


 声にならない叫びが、ごく狭い虚空に吸い込まれてゆく。暗闇が視界の隅からじわじわと染み出してきて、世界が真っ暗になった


 そして数日後。ある地方新聞の片隅に奇妙なニュースが載った

 某市のアパートに住む二十代の女性が浴室で死亡しているのが発見された

 死因は風呂場での事故によるものと断定されたが、死体の穴と言う穴、口も鼻も耳も肛門も膣からも、無数の蝿が出入りしており現場に居合わせた者を驚かせたという


 しかして、その死体を解剖した者は更に凄惨な驚きを味わう事になった

 亡くなった女性の体内は内臓から骨髄、目玉の裏側、陰部から子宮・腸内に至るまで、さらには脳味噌にさえも

 数千匹もの蛆虫が蠢きあい、その体内を食い荒らしていたのだ


 おしまい

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