バースデイ・バイ・バースデイ

さくらもみじ

【365/365×364/365×363/365×……×(365-n+1)/365 < 1/2】


 ――数学の塾講師をやってみないか。

 叔父おじにそう誘われたのは、大学を出て数週間ほど経った春の時期である。

 どうやら経営している塾の講師陣に、予定外の欠員が出たらしい。

 ちょうど、目的もなくモラトリアムを謳歌おうかしていた私には願ってもない申し出だったので、人助けになるならと、ふたつ返事で承諾した。

 今日は着任初日。

 目の前には初対面の生徒たちがずらりと座っている。

 名簿に記載された生徒は十二名と、そこまで人数が多いわけではないが――重度の上がり症の私は、心臓が早鐘を打つのを自覚できる程度には緊張していた。

 とりあえず、少しでも肩の力を抜くため、生徒たちに背を向け、とある計算式をホワイトボードに書き記す。


 “365/365×364/365×363/365×……×(365-n+1)/365 < 1/2”


 振り返り、一つ咳払いを挟んだ後、私は授業前の余興を開始した。

「皆さん、初めまして。講師の野之原ののはらです。さっそく授業に入ることもできるのですが、多少なり皆さんとの交流を深めてからにしたいと思います。この数式をご存じの方はいらっしゃいますか?」

 誰かと目が合えば露骨に身体が硬くなってしまうため、なるべく焦点を合わせないようにしつつ私は話す。

 静かだった講義室がにわかにざわめいたが、誰も挙手はしなかった。

 少しだけ安心し、解説を始める。

「これはですね。『二十三人以上の人が集まると、その中に同じ誕生日の人がいる確率が五十パーセントを超える』ということを教えてくれる式です。この講義室の中には私を含め十三人しかいないので、かなり望み薄ではありますが……せっかくなので試してみましょう。皆さんの誕生日を教えていただけると嬉しいです」

 この方法なら、さり気なく親睦しんぼくを深められると同時に、数学の魅力も伝えられる。

 我ながら名案である。

 と、そのとき、勢いよく講義室の扉が開いた。

 姿を現したのは、制服ブレザーをルーズに着崩した茶髪の青年。

 いかにも問題児といった風体である。

「すんません、ちっと遅れました。もう始まってます?」

「と、とっくに始まっています。すぐに着席してください」

 私は彼が現れるまで、生徒が全員揃っていると無意識に思い込んでいた。

 というか、大学時代の癖が抜けず、出席を取るという文化自体を忘れていたのだ。

 目が合わないようにこっそり数えなおしてみると、生徒は彼を除けば十一名である。

 やはり私はどうしようもなく緊張しているようだ。

「お、先生、もしかして初めての人?」

 彼は一向に着席しようとせず、慣れ慣れしい口調でそう尋ねてきた。

「それがどうかしましたか? 早く座ってください、授業が続けられません」

 厳密にはまだ余興の段階であり、授業は始まっていないのだが、私はムキになって着席を促す。

「表情、硬いよ。せっかくの美人が台無し。ほら、笑って笑って」

「な……っ」

 恥かしげもなく、何てことを。

 だが――今の私は確実に赤面している。

 生まれつきこういう体質なのだ。

「余計なお世話です。減らず口ばかり叩いていないで、さっさと座ってください」

「減らず口って、もともと口は減るもんじゃないし」

「そんなことばかり言っているから減らず口と言われるんです! もう頭にきました、初回の遅刻だから大目に見ようと思っていましたが、親御さんに連絡させていただきます!」

 言って、ふと冷静になる。

 顔を真っ赤にして年下の男子と口喧嘩を繰り広げている大人気のない塾講師がひとり、そこにはいた。

 大仰に咳払いをして、居住まいを正す。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ先生。親父、怒るとめちゃめちゃ恐いんだ」

 しかし、発言の内容自体は効果覿面てきめんだったようで、彼はひどく狼狽ろうばいしている。

「自業自得じゃないですか」

「うーん、その敬語も堅苦しいなぁ」

「だから余計なお世話ですってば!」

「わ、わかった、ごめんなさいごめんなさい。えっと、ほら、その数式、誕生日のアレでしょ」

 慌てて話題を逸らすように、ホワイトボードを指差す彼。

 高校生ながらにこれを知っているとは、見かけによらず知的好奇心が旺盛なタイプなのかもしれない。

 しかし、今さら彼を好意的に評価するのもしゃくだった。

 自然、口を突く言葉はとげを帯びる。

「そうですが、何か?」

「へへ、いいこと考えた。先生、俺としようぜ」

 彼はそう言うと、意地の悪い顔で微笑んだ。

「この中に同じ誕生日のやつが『いる』か『いない』か。俺は『いる』方に賭けるからさ」

「え……っ?」

 この講義室の中にいるのは、彼と私を含めても

 そして、例の数式からも分かるとおり、いなければ、同じ誕生日の人間がいる確率は五十パーセントを大きく下回ることになる。

 すなわち、あと十人はいないと、この申し出は真っ当な賭けにすらならない。

 ざっと頭の中でそろばんを弾いたところ、十三人では二十パーセント弱といったところだ。

「本気ですか?」

「本気本気。先生が勝ったら俺の親に連絡していいよ。ただし俺が勝ったら――」

 そこまで言うと、彼は突然声のトーンを落とし、私に耳打ちをしてきた。

「――先生のファーストキス、俺にくんない?」

「…………は」

「ん?」

「はぁぁああああ!?」

「先生、声でかいよ」

「ななな何で、どうして私がそんなことをしなくてはならないのですか!」

「俺、年上好きだし、先生美人だし」

「それに、私が勝っても全然お得な感じがしません!」

「いいじゃん、元から圧倒的に俺が不利なセッティングなんだからさ。ていうか、否定しないってことは、先生やっぱりファ……」

「わーわーわー!」

「まあ、逃げるってんなら仕方ないけど。これで負けちゃったら、先生は講師の面目、丸潰れだもんね」

「く……っ」

 な、なんて挑発的な。

 私が密かに負けず嫌いであることを見透かしているかのよう。

 ここまで言われて逃げ出すなんて、それこそ講師の面目丸潰れではないか。

「……やむを得ませんね。受けて立ちましょう。ただし、もうひとつだけ条件を加えさせてください。もし私が勝ったら……」

 今度は私が彼に耳打つ。

 精一杯の意趣返しだ。

「これから一年間、無遅刻無欠席。雨が降っても槍が降っても、私の講義に出てもらいますからね」

「へえ……面白くなってきたな」

 こうして、私と彼の奇妙なギャンブルが始まったのだった。


 ◆ ◆ ◆


「俺は九月十九日。先生は?」

 彼は勝手に備品のマーカーを使い、ホワイトボードに数字を並べる。

 意外に字が綺麗なところも小憎たらしい。

「貴方に教える義理はありません。私は私で書かせていただくのでご心配なく」

 別のマーカーを手に取り、彼の誕生日からできるだけ離れた位置に八月四日と小さく書き記す。

「嫌われたもんだね」

 彼は芝居がかった仕草で肩をすくめると、他の生徒の誕生日を聴取し始めた。


 三人目、一月二十六日。

 四人目、六月二十九日。

 五人目、五月十六日。

 六人目、六月七日。

 七人目、十一月三十日。


 ホワイトボードには、順当にばらばらの誕生日が羅列されていく。

 彼は一体、何を考えているのだろう。

 あえて最初から勝ち目の薄い勝負を仕掛けてきたからには何か秘策があるはずだ。

 もしや彼と交流のある生徒がこの中にいて、もともと誕生日の重複を知っている、とか。

 そう考え、さらりと全員の制服を見回すも、彼と同じ高校のものを着ている生徒はひとりもいなかった。

 この塾は、公立から私立まで種々雑多な高校とアクセスがよく、色々な学校から生徒が集まっているのだ。

「悪いけど不正はないよ。誓って言うけど、俺は今こうして聞き出すまで、自分以外の誰の誕生日も知らなかった」

「ふ、不正だなんて、私はひと言も口にしていません」

「口にしてないってことは、心の中では思ってたんでしょ? そんなツンケンしちゃって、可愛いなぁ」

「は、早く続けてください!」

 か、可愛いだなんて。

 もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 私の心拍数は、なぜこんなにも跳ね上がっているのだろうか。

「へいへい。じゃあ、次の君、お願いね」

 憎たらしい余裕の表情を浮かべて、彼が続きを促した。


 八人目、七月九日。

 九人目、十二月十一日。

 十人目、四月二日。


 かすりもしない。

「ふ、ふん。このままでは私の圧勝ですね。まあ、当然の結果ですが」

 ここまで大局が見えてくると、さすがの私も気が楽になってきた。

 やはり大番狂わせはないようである。

 と。

「先生、まだ気づかないの?」

 堪え切れずに――といった様子で、突然、彼が噴き出した。

「な、何のことですか」

 意味が分からない。

 この期に及んであおりを入れてくるとは、一体どういった了見なのだろう。

「仕方ないなぁ、そろそろ教えてあげようか。次の子と、その次の子の顔。よく見比べてみなよ。とんでもなくニブい先生でも、ここまで言ったら分かるんじゃないかな」

「とっ、とんでもなくニブいとは何です……か……」

 言葉は途中で覇気を失い、失墜する。

 紅潮していた自分の顔が、急速に蒼褪あおざめていくのが自覚できた。

 冷や汗が頬を伝う。

 動悸が狂う。

 分かってしまったのだ。

 彼が強気で勝負に出られた理由が。

「――双子だよね、君たち」

 そう。

 十一人目と十二人目の女生徒ふたりは、明らかに酷似した顔立ちをしていた。

 確率などに意味はない。

 最初から、勝負は決まっていたのだ。

「先生ガチガチだったからさ。きっと誰とも目を合わせてないんだろうなぁと思ってたんだよ。そりゃ、気づかないのも無理はないね」

「…………」

 彼の言う通りだった。

 言葉が何も出てこない。

「そんじゃ約束通り、お勉強が終わったら、ゆっくり楽しませてもらおうかな」

 ようやく彼は空いた椅子に腰かける。

 浮かべているのは勝者の笑み。

 対照的に、私は教壇で立ち尽くしていた。

 だが、そのとき。

「あの」

 おずおずと、双子のうちのひとり、十一人目の彼女が手を上げた。

「……なんですか?」

 私は力なく答える。

 すると、今度は双子の片割れ、十二人目の彼女が発言した。

「私たち、確かに……その、双子です」

 駄目押しだった。

 重かった気持ちが、さらに深くへ沈み込む。

 しかし――。

「けど……誕生日は、その。わたしとこの子、違うんです」

 再び十一人目の彼女が、とても言い辛そうに、謎のひと言を口にした。

「な……っ」

 にわかに動じたのは彼だ。

「おい、どういうことだよ。今さら情けをかけようったって、そうはさせないぜ」

 十二人目の彼女は、彼の剣幕にひるむ。

 しかし、十一人目の彼女は果敢に反論した。

「ち、違います。わたし、妹なんですけど、姉とは日付けをまたいで産まれてきたんですよ。大変な難産で、姉はどうにか自力で出られたそうですが、私は帝王切開でした」

 これは――。

「だから、私は一月十日産まれ。姉は一月九日産まれです!」

 勝った、のだろうか。

 あまりの展開に、私の頭は軽く思考を放棄した。

 彼もまた同様らしく、口を開けて放心している。

 それは、彼が初めて見せた、歳相応の表情だった。


 ◆ ◆ ◆


「野之原先生、初出勤お疲れ様でした。鍵、よろしくお願いしますね」

 私を除けば最後に残っていた講師の方が、微笑みながら会釈をして、講師室から出ていく。

 開講初日ということもあってか、ほとんどの先生方は、講義を終えてすぐに帰っていった。

 今、この塾に残っている講師は私ひとりである。

 あとは、目の前の書類をしまい込んで、各部屋の見回りをして、戸締まりをして帰ればよい。

「なぁ先生。そろそろ俺も帰りたいんだけど」

「駄目です」

 そう。

 講師は私ひとりだが、生徒もひとりだけ残っていた。

 というか、残しておいた。

「俺んち、門限が……」

「大丈夫です。親御さんには説教するために小一時間、貴方をお借りすると伝えておきました。お父様、ふたつ返事でしたよ」

「あのクソ親父……」

 呟いて、彼はがっくりと肩を落とす。

「……まあ、美人の先生とふたりっきりなんだから、まんざら悪いもんでもないか」

「美人とか、可愛いとか、誰にでも言っていい言葉ではありません」

「ん? 俺は本当に美人だと思わなければ美人だなんて言わないし、可愛いと思わなければ可愛いだなんて言わないぜ? 見ての通り、馬鹿正直なんだ」

「じゃ、じゃあ……貴方の目は節穴なんですね」

「おいおい、失礼しちゃうぜ。先生さあ、ほんと……自分に自信、全っ然ないんだな」

 図星だった。

 私は小さい頃から、勉強はよくできた方だと思う。

 体を動かすことも好きだったし、手先もそれなりに器用だったし、不得手と認識していることはほとんどなかった。

 けれど、唯一。

 致命的なほど、大勢の前に出ることが苦手だったのである。

 いや、それどころか、一対一でも相手の目を見て話すことができない。

 今も、既に片づいた書類を改めて整えるふりをして、彼に背を向けて話している。

 元をたどれば、塾講師を引き受けたのも、ひとえにそんな自分を変えたいと考えたからだ。

 でも、駄目だった。

 私がもっと自信を持っていれば。

 人の目を――人の顔を見て話すことができれば。

 こんなみじめな思いをすることもなかったのに。

「隙ありっ」

「ひぅっ!?」

 突然、彼が背後から、私の脇腹に指をわせてきた。

「や、やめ……うわは、くすぐったひ……ひはは……っ」

 まるで警戒していなかった私は、手に抱えた資料をそっちのけで暴れる。

 ばさばさと紙が床に落ちるが、そんなことを気にしている場合ではない。

「ちょっと、本当に……っふは……や、やめなさぁい!」

 脇腹に回された二本の腕を、強引に振りほどく。

 見ると、顔全体を真っ赤に染め上げているであろう私をよそに、彼はいい笑顔で親指を立てていた。

「敬語、初めて抜けたね。その方がずっといいよ」

「う……うう……っ」

 なぜか涙がこみ上げ、私は彼に再び背を向ける。

 年下の男子に、いいようにもてあそばれて、私は何をしているのだろう。

 あの賭けだって、私が生徒の顔を見て授業できていれば、そもそも前提として成り立たなかったはずだ。

 彼のように生きられたら。

 彼のように、人と向き合って生きられたら。

 私は、私は――。

「私の、負けです……」

「お、やっとわかってくれた? そう。先生は美人だし、可愛いし、とっても面白い人なの」

「ち、違……っ。あの賭けの話です」

「へ?」

 彼はきょとんとした顔で首を傾げる。

「いや、先生の勝ちだったじゃん」

「確かに結果だけ見れば、私の予想が当たっていました。けれど、それは偶然に偶然が重なっただけのこと。私は試合に勝って、勝負に負けたのです」

「でもさ、賭けは賭けであって……」

 調子が狂ったように頭をかく彼。

 これまでの人生で、勝ちを譲り合うという事態に陥ったことがなかったのだろう。

「やっぱ先生の勝ちだよ」

「貴方の勝ちです」

「先生の勝ち」

「貴方」

「先生」

「強情な人ですね……分かりました。では痛み分けということで、あの賭けはなかったことに……」

「そうだね、痛み分けには俺も賛成だ。でも……」

 その声が聞こえたかと思うと、私は肩を掴まれ、強引に振り向かされていた。

 瞬間、目を閉じた彼の顔が間近に迫り、唇に柔らかいものが触れる。

「ん……っ!」

 何が何だかわからない。

 抵抗すらも忘れて、私は完全に硬直していた。

 しばらくすると、ゆっくり唇が離れる。

「なかったことにするのは勿体ないよ。こういうときは、両方勝ちってことにしちゃおうぜ。俺、先生の講義だったら、雨が降っても槍が降っても、必ず来るからさ」

 赤面するのも忘れて、ただただ呆然とすることしかできない。

 私のファーストキスは、勝手気ままな彼に、こうして奪われてしまったのだった。


 ◆ ◆ ◆


 月日は流れ――夏。

 講義開始の一時間ほど前、他に誰もいない講師室で、私と彼はお茶していた。

「しっかし、あの賭けは酷かったよなぁ。どう考えても予測不能だし」

 言いながら、彼は甘い紅茶を苦々しげに飲む。

「またその話ですか」

「当ったり前じゃん。俺、自慢じゃねーけど、あの賭け以外じゃ負けなしだったんだぜ。あんなの、人生に一度あるかないかの大誤算だよ」

「その話も、何度も聞きました」

 きっちり十回目の話題である。

 さすがに聞き飽きもするというものだ。

「ねぇねぇ。その敬語、まだ抜けないの?」

 自分でも話題に飽きたのか、突然、彼が顔を寄せてくる。

 必要以上に近いため、私は焦った。

「よ、寄らないでください。人が来たらどうするんですか」

 こんなところを誰かに見られでもしたら、私たちの関係が露呈してしまう。

 倫理的に、最低でも彼が高校を卒業するまでは秘匿しなければならない。

「別に、俺たちが付き合ってることなんて、みんな知ってるぜ」

「っ!?」

 声にならない悲鳴が出た。

 嘘だ――私は誰にも話していない。

 まさか、今みたいに親しくしているところを、こっそり覗き見でもされたのだろうか。

 生徒間の風聞で済めばよいが、講師の先生方に知れたら一大事だ。

 まずは噂の出所を……。

「俺が言いふらしてるからなぁ」

「し、死んじゃぇええ!」

 全力で名簿を投げつける。

「おっ! 久しぶりに敬語、外れたね。その方がずっと可愛いってば」

 全然さっぱりこたえていない。

 だが、私の方は見る間に茹でダコ状態になってしまった。

 こういう直球には本当に弱い。

 そう簡単に人は変われないものなのだ。

「しかし、俺たちももうすぐ三ヶ月かぁ」

 一転して感慨にふける彼。

 そうなのである。

 私と彼は、あの後、なぜか付き合うことになった。

 詳しい経緯いきさつは覚えていないが、ひとつはっきりしていることは、彼が非常に強引だったということである。

 間違っても私が彼に惹かれてしまった、などということはない。

 間違ってもだ。

「もうすぐ夏休みだし、海にでも行く?」

 さらりと誘われた。

 しかし、私は自分の水着姿を想像して、すぐに首を横に振る。

「受験生は、大人しく部屋にこもって勉強していてください」

「えー」

「文句は言いっこなしです。大切な時期でしょう?」

「でも、一日くらいさー」

「駄目です」

「八月四日だけ」

「……えっ?」

「その日くらい、二人で出かけたってバチは当たらないだろ?」

「お……覚えていて、くれたんですか」

 あんなに端っこの方に書いたのに。

 あんなに小さく、書いたのに。

「当然」

 歯を見せて彼は笑う。

 屈託のない笑顔。

「…………」

 絶対にときめいてなどいない。

 絶対にだ。

「で、どうなのさ。いいの? 駄目なの?」

「仕方ありませんね……一日だけですよ」

「よっしゃ!」

 子供のようにはしゃぐ彼。

 こんな風に素直になれたらと、私は彼をうらやましく思うのだ。

 そのとき扉のガラス越しに、私のクラスの生徒が集団で講義室へ歩いていく姿が見えた。

「今日は皆さん、随分と早い到着ですね」

「ああ、今日は葛西の誕生日だからな。あいつら誰かの誕生日には、必ず早めに集まってお祝いしてるんだぜ」

「仲がよろしいようで何よりです」

「先生のおかげだろ、あんま他人事みたいに言うなよ」

「わ、私はきっかけを作っただけですから……」

「そう言わずにさ。せっかくだし、今日は先生も一緒にお祝いしてやんなよ」

「え?」

「思い立ったが吉日!」

 彼は勢いよく立ち上がったと思うと、すぐに私の手を引いて歩き出した。

「ちょ、ちょっと! 待って、くださいよぉ!」

 思ったよりもずっと力が強い。

 抗うこともできず、私は講義室まで連行された。


 ◆ ◆ ◆


 まだ講義開始の三十分前であるにも関わらず、講義室には私と彼を含め十三人――つまり、クラスの全員が集まっていた。

「わぁ、先生だ!」

 双子の姉が気づいたのを皮切りに、私は女の子集団に囲まれる。

 なぜかはわからないが、不思議となつかれているようなのだ。

 しかし、複数人の女の子に話しかけられているだけでも目が回りそうになる。

 私の人見知りは相変わらずだった。

「お嬢さん方もこっちこいよー、今日の主役は先生じゃないだろ?」

 鶴の一声。

 こんな風に、彼はたびたび私のフォローに回ってくれていた。

 軽薄なようでいて、根は優しいのだ。

 どうにか解放され、女の子集団と共に男子組の方へ歩み寄る。

 テーブルの上にはケーキがふたつ――葛西くんと、峰岸くんの前に置かれていた。

「おや?」

「あれ?」

 彼もそれに気づいたようで、二人同時に声を上げてしまう。

「峰岸くんも、何かお祝いごとですか?」

 私の質問に、皆は顔を見合わせて苦笑する。

 当の本人が代表するように立ち上がり、軽く咳払いをした。

「あの誕生日合わせのとき――実は、僕だけ誕生日を聞かれていなかったんですよね」

「え……っ?」

 言われてみれば。

 あのとき黒板に書き出されていたのは、私と彼とその他八名――合計十名の誕生日。

 そして双子の誕生日を確かめたところで、いつの間にか決着の雰囲気になっていた。

 十三人中、確認した誕生日は十二人ぶんだったことになる。

「僕の誕生日は葛西と同じ今日、七月九日。つまり、このクラスは結構な低確率を引き当ててしまっていたわけです」

「じゃ、じゃあ、やっぱり勝ってたのは俺だったんじゃねえか!」

 彼が叫ぶ。

「どうして黙っていたのですか?」

 私も尋ねずにはいられなかった。

 しかし、峰岸くんは知れたこと、といった表情で嘆息する。

「言えませんよ、あの空気じゃ。先生、あそこで再逆転を貰っていたら、きっと泣いてしまっていたでしょう?」

「な……泣きません! 大人を何だと思っているんですかっ」

 思い切り気色ばんで反論してしまった。

 大人気ないことこの上ない。

「いや、泣いてたな……」

 彼が言うと、皆うんうんと頷いていた。

「とにかく、僕は十三人目ユダにはなれませんでした。その後、気づいた皆がこっそり聞き出してくれたんですよ」

 私は真っ赤になって萎縮いしゅくする。

「まあ……よかったんじゃねえの? 何だかんだで俺は一番楽しい展開になったと思うぜ」

 私の頭をぽんぽんと叩きながら、彼はなぐさめの言葉をかけてくれた。

 その後、耳元でささやくように言う。

「でも、ちょっと優しくされたからって峰岸になびくなよ。先生は俺のだからな」

「妬いているんですか?」

「妬くに決まってんだろ」

 相変わらず素直な彼。

 私たちは顔を見合わせ、互いに吹き出してしまった。

「さて、それじゃささやかなパーティと洒落込みますか。葛西、峰岸、おめでとう!」

 彼の音頭に皆がならう。

 私も輪の中に加わった。

「おめでとうございます」

 あの日、黒板に書いた数式は――決して無駄ではなかったようだ。


 【了】

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