CAGE OF InnOCENCE

宵待なつこ

第1話

CAGE OF InnOCENCE



「いよいよね……エレノア」

 東屋のベンチに腰掛けた少女が、隣に座る金髪の少女に胸の高鳴りを抑えるような小声で話しかけました。

「ええ。リーシャ。私も何だかわくわくしているわ」

 エレノアと呼ばれた金髪の少女が答えると、二人は悪戯っぽく密やかに微笑います。

「……でも、誰かに見られないかな」

 リーシャと呼ばれた黒髪の少女が心持ち不安そうに訊ねると、エレノアは二人を囲う校舎を見回しながら言いました。

「平気よ。この学校にいる人間は教師も含めてみんな〈クリーン〉なのだから。授業中に余所見をするなんて考えられないし、私たちみたいに授業を抜け出す生徒なんていないことになっているのだし」

 自信有りげなエレノアを見て、リーシャはぱっと顔を明るくさせながら「それもそうね」と再び笑顔に戻るのでした。

 けれどもリーシャは生来の真面目さ故に、授業をさぼるという、生まれて初めての罪を犯したことに対して、心踊らせながらもやはり罪悪感が拭えないでいるのでした。

 今頃教室では『新帝王学』の授業をしている時間でしょうか。自分たちの教室を見上げながら、ふとそんなことを考えていると、エレノアが優しいまなざしを向けて訊ねてきました。

「何を考えているの、リーシャ」

「ううん、ちょっと」

「授業をさぼって良かったのかしらって考えているのでしょう。分かるわよ」

 苦笑いして頷くリーシャに、エレノアは大仰に咳払いをひとつして。

「あなたたちは劣性遺伝子を持たない〈クリーン〉なのですから、選ばれた者としてふさわしい言動、立ち振舞いを常に心がけるのですよ」

 歴史担当の、悪趣味な眼鏡をかけた初老の女性教師の真似をします。

「ノーブレス・オブリージュのもとに、悲しくも劣性遺伝子を引き継いでしまった方々を、あなたたちは正しく導かねばなりません」

 リーシャが同じく女性教師の真似をして答えると、とうとう二人は堪えきれずにかしましく笑ってしまいました。誰かに聞かれたら大変なので、すぐに口唇に指を当ててお互いに自粛しましたが、それでもクスクスという微笑はしばらく止まりませんでした。

 やがてその微笑も止むと、二人のいる庭園に再び静けさが戻りました。

 薔薇や百合やジャスミンの甘い薫りが漂う中、管理が行き届いた美しい庭園に、赤錆びた古い鉄製の風見鶏が風に吹かれて軋んだ音を立てています。

 その様子を眺めていたリーシャは不意に、あたかも波打ち際のように先ほどまでの高揚がさあっと引いていって、後には濡れた砂浜のような哀しみが心に染み渡るのを感じたのでした。

「ねえ、エレノア。私たちって何なのかな」

 リーシャの呟きにエレノアは深刻な面持ちで、しかし何も言いません。視線は真直ぐに、ひらひらと舞う蝶を見つめています。


 リーシャの問いは「世代間における優・劣の遺伝は形質的事象に留まらず、次世代の精神的、心理的構造にも含まれる」ということが証明されて以来、恐らくほとんどの人が一度は自問したことがあるでしょう。「子は親に似る。しかし良いところばかり似るとは限らない」という至極当然に思われてきた事柄が、それらの遺伝を左右する「優性遺伝子」と「劣性遺伝子」の新たな発見によって、途端に不気味でグロテスクに思われてきたのは、科学力と精神性を高めることによって世界は平和で豊かになると信じてきた人類にとって、大いなる皮肉といえるかもしれません。

 ともあれ、人間は自らが持つ遺伝子という得体の知れない恐怖から逃れるため、まるで呪いを振り払うようにこぞって遺伝子走査を受けたのでした。その結果、人類の大半は親世代から何らかの劣性遺伝子を引き継いでいて、しかしごく僅な人だけは、劣性遺伝子をまったく引き継いでいない〈クリーン〉な遺伝子を持っていることが分かったのでした。

 この事実は世界中に戦慄を走らせました。〈クリーン〉ではない劣性遺伝子を持つ大半の人々〈ステイン〉たちは、自分の祖先から代々連なる罪悪を受け継いでいるかもしれないという事実を認めなくてはならなくなったのです。殺人者の息子は殺人を犯し、姦通者の娘は売春婦になる可能性が高いという妄執がまことしやかに噂され、しかし誰も明確に否定することが出来ないのでした。そして顔も知らない祖先がそのような罪を犯してはいないという者も、誰ひとりいませんでした。

 いたるところで新たな差別、紛争が起こり、かつての優生学が遺伝学の支援を受けて再び台頭し始めると、富裕層は自分たちの子供は〈クリーン〉であるということの証明をあらゆる手段を用いて医者に求めました。そして『持たざる者は持つ者によって正しく管理されなければならない』という信念のもと、〈クリーン〉な者のみが行くことを許される学校を人里離れた安全な場所に建て、将来の相手をその学校の生徒の中から選ぶということを子供たちに強制したのでした。彼らの子孫が、世界を再び平和に導くリーダーになるという希望を持って。


「その答えは、誰にも分からないわ」

 長い沈黙の後で、エレノアは沈んだ声で言いました。リーシャは立ち上がって、俯きがちに不安を口にします。

「私……本当は〈クリーン〉じゃないのかもしれない」

 自ずから発した言葉に触発され、声を震わせながら、リーシャはまくし立てるように続けます。

「だってそうでしょう? お金さえ積めば嘘でも〈クリーン〉だと証明してくれるっていうじゃない。私……、勉強も運動も芸術もみんなびりっけつで、自分が〈クリーン〉だなんて、とても信じられない……」

「でも、私は貴女が好きよ」

 その言葉にはっとしてリーシャが顔を上げると、弱い灰色の日射しをまるで後光のように背に受けた、美しいエレノアの微笑みがあったのでした。心臓がひとつ大きな音を立て、冷たかった身体が徐々に熱を帯びてゆきます。

「私はね、リーシャ。この学校へ入ってからずっとひとりきりだったの。みんな、優秀な遺伝子を持っていそうなのは誰か、〈クリーン〉であると偽っているのは誰なのか、という風にしかお互いを見ていなかった。一番仲の良かった友達でさえ、私の行動を抜け目なく注視し、私の言った言葉のひとつひとつを、会話をしながら頭の中で分析しているようだったわ。

 そしてこの学校ではそれが普通なの。より優秀な遺伝子を残すという目的のために、誰も彼も、親しげな微笑みの間から値踏みするような視線をお互いに投げかけていて、私はそれがとても嫌だった。恐ろしかった。薄気味悪かった。

 でも、貴女は違ったわ。貴女だけは、私をそんな風に見なかった。

 貴女に初めて逢ったとき、私思ったの。なんて綺麗な眼をしているのだろうって。貴女のまなざしには、ありのままを素直に受け入れ、喜びに笑い、悲しみに泣く純粋さがある。

 一年中曇っていて霧の深いこの森からは、青い空はほとんど見えないけれど、貴女の蒼い瞳を見つめるたびに、私はいつも青空を連想していたのよ」

 リーシャの身体は喜びに震えていました。エレノアが教えてくれた孤独は、まさに、まさにリーシャが抱いてきた孤独とまったく同じだったからです。

 そして何より自分のことをそれほどまでに想っていてくれたことにも、嬉しさで胸がいっぱいになりました。本当は自分の方がエレノアにどれだけ救われてきたか、その高貴な、聖母のような微笑にどれだけ憧れ、どれだけ心奪われてきたか。たとえ万の言葉を用いても表しきれないその想いを口に出すことも出来ず、顔を覆った小さな両手の間を縫って、雫がひとつふたつ、リーシャの腿から紺の靴下、革製のローファーへと伝い落ちてゆくのでした。

「リーシャ……いい子……」

 エレノアがリーシャを優しく抱き止め、その手が髪を撫でると、リーシャの全身にえもいわれぬ恍惚が走りました。それはまるで抱き締められている部分から二人が溶け混ざり合って、心も身体もひとつになったかのようでした。

「ああっ……、エレノア……」

 痺れた足が身体を支えられなくなって、リーシャはエレノアに抱かれたまま、レンガ敷きの地面にぺたんと腰を落としてしまいました。

 荒い息を続けるリーシャを落ち着かせるために、エレノアはいったんリーシャの身体を離しました。そうして細い鎖骨が浮き上がった白い制服の胸元に手を入れると、プレート型のペンダントをおもむろに取り出して、昆虫標本を見るような眼を向けながら言いました。

「こんなものに一体何の価値があるというの」

 エレノアの眼前でぷらぷらと揺れているプレートには、エレノアの名前とDNAの塩基配列が彫られていて〈クリーン〉であることを誇らしく証明しています。

 エレノアは膝下のレンガをひとつ抜き取ると、その大切なプレートを、開いた隙間へ無造作に放りました。ごみのように。秘密を隠すように。

 リーシャもすぐに自分のプレートを放ると、エレノアと一緒にレンガを元に戻して、悪戯っぽい笑顔を浮かばせながら言いました。

「これで二人は一緒ね」

 けれどもエレノアの顔は暗く、沈んでいます。

「いいえ、これだけじゃだめよ」

 遠い世界に憧れるようなエレノアのまなざしに、リーシャはこの場所へ来た本来の目的を思い出しました。

「リーシャ……、私たちの仲は決して世界には認めてもらえない。〈クリーン〉な者が同性を好きになるなんて、あってはならないことだもの。もし誰かに知られたら、世界中で『あいつらは〈クリーン〉に偽装した獣だ』『汚らわしい肉欲が刻まれた、最も忌むべき〈ステイン〉だ』と罵られるのよ。

 それでも二人一緒にいられるのなら私は構わない。けれど、彼らは私たちを引き離して二度と会えなくしてしまうでしょう。私たちがどんなにお互いを強く想っていようと、所詮は世界の片隅に咲いたちっぽけな灯に過ぎないのだから」

 でもね、とエレノアは続けて、スカートのポケットの中から細長い筒状のものを取り出しました。

「世界にも遺伝子にも邪魔されず、私たちの愛を永遠にする方法が、たったひとつだけあるの」

 そういってエレノアが筒からキャップを取り、中に隠れていた口紅を露出させると、それを見たリーシャは顔から一気に血の気が引いて、自らの心臓が恐怖に怯えているのが分かりました。

「怖がらなくてもいいわ。苦しまず、眠るように死ねる薬をちゃんと選んでおいたから」

 元よりそのために来たことはリーシャも当然心得ていましたが、やはり死神の鎌を目の当たりにすると、どうしても気持ちがすくんでしまいます。

 それでもリーシャは精一杯の勇気を振り絞って答えました。

「大丈夫。エレノアが一緒なら、私は何も恐れない」

 毒の塗られた口紅で、リーシャの口唇が優しく彩られてゆきます。リーシャも同じようにエレノアの口唇をなぞると、白く繊細な二人の肌の上に朱が一線引かれて、それは薔薇のつぼみのようにも、あるいは初雪の上に落ちた血の雫のようにも見えました。

「二人の愛の灯を――」

 熱を測るように額を接し、お互いの指をしっかりと絡ませ、繋いだ手が離れぬように、二人は強く手を握りました。

 白く細い腕に、青い静脈がすっと浮き上がります。

「――永遠に、咲かせ続けましょう」

 リーシャの言葉をエレノアが引き継いで、二人だけの、密やかな誓いが立てられました。

 辺りは甘く、切ない、誘われるような芳香に満ちていて、リーシャはその香りが、広い草原を思わせるエレノアの深碧色の瞳から漂ってくることに気が付きました。

 もはやリーシャに恐怖はありません。世界にも遺伝子にも、触れることさえ叶わない二人だけの秘密の聖域へ、エレノアとともに逝けるという喜びのみが心を満たしています。

「愛しています。エレノア」

 高鳴る鼓動をそのままに、リーシャは告げました。

「愛しているわ。リーシャ」

 エレノアも穏やかに答えます。






 そうして二人は、名残惜しむようにゆっくりと瞳を閉じると、優しく、そっと、口唇を重ね合わせるのでした。





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