43:てのひらは君のため(2)
「あー、ほんとに怖かった……」
漣里くんの教室から出るや否や、私は心底から呟いた。
自身の胸に当てた手から、ドキドキと心臓が騒ぐ音が伝わって来る。
鏡を見たら、私の顔は血の気が引いて真っ青になってるんじゃないかな。
一年校舎の廊下では数人が歩いている。
廊下の隅で震えながら大げさに息をついている私を見て、前を通り過ぎた女子生徒から怪訝そうな顔をされたけれど、体裁を取り繕う余裕もない。
あの後、漣里くんに「どこに行きたい?」と聞かれて、真っ先に挙げたのは彼のクラスのお化け屋敷。
漣里くんがせっせと近くのスーパーから段ボールを運んできたことも、下校時間ぎりぎりまでクラスの皆と色塗りや設営をしてたことも知ってるんだもの。
努力の結果がどうなったのか――彼女としては、お昼の空腹を満たすことより何より、気になるよね?
入り口である教室前方の扉の前で入場待ちをしている間に、中からは悲鳴や驚愕の声が聞こえて来た。
これはよほど怖いか、驚かされる仕掛けがあるに違いないと予想はついた。
だから、腹をくくったつもりだったんだけど――甘かった。
蛍光灯を赤や青のカラーセロハンで覆い、窓は暗幕や黒く塗った段ボールで塞いだ教室は、まるで異世界のようだった。
わずかな光ももらさないよう、徹底されて暗い中。
通路の脇には不気味な人形が置いてあったり、生物準備室から出張してきたと思しき人体模型や骨格標本が置いてあったりと、雰囲気たっぷり。
怖がりな私は、おっかなびっくり、漣里くんの腕にしがみついた状態で進んでいった。
途中では暗幕の割れ目から飛び出してきたお化け役の男子に驚かされ、悲鳴を上げた。
でも、ここで驚かされたんだから、もうこれ以上の衝撃はないだろう……と、安心したのが間違いだった。
最後の最後に、最大級の衝撃が待ち構えていた。
もうすぐ出口というところで、通路は暗幕に塞がれていた。
暗幕には『↑右端からめくって中に入った後、右を向いて立ち止まり、五秒後に目を開けてください』と指示する紙が貼りつけてあった。
ご丁寧にも、文字は毛筆で書かれていて、血しぶきのようなものが飛んでいた。
指示通りに私は――漣里くんは当然、この先に何があるか知っているため、私がやるべきだと言われたのだ――恐る恐る暗幕をめくり、体の向きを90度変えて目を瞑った。
胸のうちで五秒数えて、目を開ける。
そこにはなんと、凄惨な男子の死体が!
彼は天井からつりさげられた小さなランプに照らし出されていた。
椅子に座って、のけぞるような体勢。
胸にはナイフの柄が突き刺さっていて、白い着物も顔も、全身血まみれ。
口の端から血が垂れていて、のけぞっているからよく見える首元には、縄で締め上げられたような痕がくっきりと。
しかも彼は、事切れていることを示すように、完全に白目を剥いてた。
あまりの惨状に、私は漣里くんにしがみついて絶叫した。
入り口から聞こえてきた悲鳴はこれを見てのことだったのだと、ようやくわかった。
パニックに陥る私の上から、しゅっと、追い打ちをかけるように、霧吹きで水がかけられた。
もう私は半狂乱。
漣里くんに抱きついて、その場から逃げた。
無我夢中で明るい日差しに満ちた廊下に出て、悪夢から解放され――そして、今に至る。
「そんなに驚いてくれて嬉しい。俺たちが頑張った甲斐があった」
漣里くんは私の過剰ともいえる反応が楽しいらしく、笑っていた。
「そりゃ驚くよ!? あんなの見て驚かずにいられる!?」
一人だけ余裕たっぷりな態度が悔しくて、私は半泣きで訴えた。
「本格的すぎない!? 特に最後の、あれ! どうなってるの!? あの人の胸に刺さってたのは、突き刺したら引っ込むおもちゃのナイフなんかじゃなくて、本物のナイフの柄だったよね!?」
「あれは折り畳み式のナイフ。刃は出さずに先端をテープで固定してるだけ」
「あの、いかにも本物っぽい血は!?」
「あれははちみつと食紅を混ぜて作った血のり。首元の痕は女子が適当に、化粧道具で何かやってた」
「……い、生きてるよね? あの人」
「当たり前だろ」
私の怯えっぷりがよほど面白いらしく、種明かしをしている漣里くんの口元からは笑みが消えない。
「前に、俺白目剥けるって自慢してたから、じゃあ幸太郎がラストで死体役になれって、全員一致で決まった。真白が俺にしがみついてるとき、あいつこっそり親指立ててきたよ」
「そ、そうなんだ……?」
生きていたのなら良いけど。いや、生きてなきゃ大問題だけど。
でも、本当に死体になりきってたんだよあの人!!
「さすがにずっと白目剥いてるのは辛いだろうし、適当で良いよって皆、言ったけど。俺と真白が来るから頑張ってくれたんじゃないか」
「……うん。本当に怖かったですって、幸太郎くんに伝えといて」
微笑むと、漣里くんはわずかに首を傾げた。
これまで怯え切っていたのに、急に私が笑ったのが不思議だったのだろう。
「ううん。あの死体役の男子は、幸太郎くんっていうんだなって。下の名前で呼ぶほど親しい友達が、相川くん以外にもいるんだなって、ちょっと感動しちゃった」
漣里くんは少し困ったような顔をした。
「……本当、真白はたまに俺の保護者みたいなこと言うよな」
「ええ。そりゃあ、屋上で一人寂しく読書してた姿も見てますから」
背後で手を組み、意地悪く笑って見せる。
漣里くんは分が悪いと見たのか、目を逸らした。
「もうそんなことない……」
「うん。それは何より」
私は笑いながら頷いた。
漣里くんがいま、幸せそうで、何よりだ。
「じゃあ、もうこれ以上ないってくらいに楽しませてもらったことだし、私、いったん教室に戻るね」
そろそろ一時間のタイムリミットだ。
「この服、五十鈴に渡さなきゃ。すぐ戻るから、次どこに行きたいか考えといてね」
「どこでも」
漣里くんは即答し、唇の両端を上げた。
「真白が一緒なら、どこでもいい」
「…………」
その笑顔と言葉は、私の胸を強く打った。
「私も」
気づけば私も笑っていた。
「漣里くんがいるならどこでもいいや」
だって、漣里くんがいるだけで、私は幸せなんだもの。
楽しいイベントはあっという間に過ぎるもの。
一日目の文化祭が終わり、二日目の後夜祭――午後六時。
葵先輩から『後夜祭の時間になったら、ドレスに着替えて教室で待ってて。漣里を迎えに行かせるから』というメールを受け取り、私は暗い自分の教室に一人、ぽつんと立っていた。
この時間帯、生徒は体育館か講堂にいなければならない。
教室にいるのがばれたらまずいため、電気はつけられなかった。
後片付けの終わった無人の教室は、いつも通り綺麗に整えられている。
教室に落ちる暗闇と静寂は、夕方まで行われていた文化祭がまるで夢だったかのように錯覚させた。
「…………」
本当に漣里くんは私を迎えに来るんだろうか。
来て、くれるんだろうか。
彼はダンスパーティーに参加するつもりなどない。
衣装すらも用意してないはずなのに、葵先輩はどうするつもりなんだろう。
胸の中には不安という名の暗雲が立ち込め、私は悶々と時を過ごしていた。
更衣室で着替えを済ませた私は、ピンクのパステルカラーのドレスを着ている。
ふんわりしたフレアスカートに、腰にはリボン。
頭には漣里くんがくれたヘアピン。ドレスに似合う、大きな花がついたヘアピンとどちらか迷ったんだけど、最終的にはやっぱりこっちがいいと決めた。
足には踵のほとんどないパンプスを履いている。転倒防止、そしてマットを引いているとはいえ体育館の床を傷つけないためにも、ヒールの高い靴は原則禁止されているのだ。
体育館に入る前にチェックがあり、ヒールを持ってきた子は体育館シューズに変更を余儀なくされる。だから皆、ぺったんこの靴を履いてくる。
ダンスパーティーのときばかりは、文化祭という非日常の延長として、日ごろうるさい先生たちも、少々の化粧なら目を瞑ってくれる。
私も薄く化粧して、色つきのリップを唇に塗っていた。
準備は万端。
……でも、肝心のお相手が本当に来てくれるのかどうか……
葵先輩が約束してくれたんだから大丈夫だろう、という気持ちと、あの照れ屋の漣里くんが本当にその気になってくれるのだろうか、という気持ちがせめぎ合っている。
はあ、とため息をついたとき。
廊下から足音が聞こえた。
見回りの先生か、それとも漣里くんか。
前者の場合は隠れなければならない。
私は極力足音を殺して歩き、扉からそっとその姿を確認した。
非常灯がぼんやりと灯る廊下を歩いてくるシルエットは――漣里くんだった。
私はその姿を見て、瞠目した。
漣里くんはタキシードに身を包んでいた。
髪も掻き上げるようにして、ばっちり決めている。
でも、漣里くんは不機嫌そうだった。
……あ。やっぱり、乗り気じゃないっぽい。
来てくれたのはとても嬉しい。
初めて見た彼のタキシード姿は、ますます彼を凛々しく見せた。
でも、心が伴ってなければ意味がない。
どんなに漣里くんが格好良く決めてくれたって、姿と心がちぐはぐなんじゃ、台無しだ。
フレアスカートを揺らして廊下に出ると、漣里くんは目を軽く見開いた。
「……可愛い」
思わず呟いた、という感じだった。
無意識の領域から出る言葉だからこそ、嘘偽りのない本心だったのだろう。
それはとても嬉しいけれど――漣里くんが嫌がっているとわかってしまったから、暗がりの中、私は曖昧に笑った。
「ありがとう。漣里くんも凄く格好良いよ。……それ、葵先輩が?」
「ああ」
たちまち、漣里くんが面白くなさそうな顔つきになる。
「皆と講堂に移動しようとしたとき、後ろから腕を掴まれて。着替えさせられたり髪を整えられたりした後、真白が待ってるから行ってこいって送り出された」
漣里くんは普段とは違う髪型が気になるのか、髪に手を置いた。
「……そっか。ごめんね」
目を伏せる。
「嫌だってわかってたのに、私が葵先輩に頼んじゃったの」
「いや」
漣里くんはかぶりを振った。
「真白の姿を見たら気が変わるって兄貴が言ってたけど、本当だった。恥ずかしいから嫌だって、俺の感情を優先してダンスパーティーに参加しなかったら、こんなに可愛い真白を見ることもできなかった。間違ってたのは俺のほう。真白がそんなに踊りたいと思ってたなんて思わなかった。ごめん」
漣里くんは軽く頭を下げ、真摯に謝ってきた。
「え、ううん、そんなこと……でも、漣里くんは本当は嫌なんでしょう? 不機嫌そうだったし……」
「それは……」
漣里くんは言い淀んだ。
「タキシードなんて着るの初めてだし、この髪型だって、なんか……照れくさいというか……」
「え」
不機嫌なのではなく、単純に気恥ずかしかっただけなの?
「大丈夫だよ、さっきも言ったけど、すっごく格好良いから。見とれちゃった、惚れ直したよ」
「……そう? なら良かった」
私の言葉に安心したのか、漣里くんは表情を和らげた。
嬉しい。
私、漣里くんと踊れるみたいだ。
花火大会のときは髪もぼさぼさで、化粧なんてする暇もなくて、挙句の果てには転んで、泣いて、もう最悪の状態だったけど。
いまはちゃんと、綺麗に身なりを整えている。
一生懸命選んだドレスを着て、漣里くんがプレゼントしてくれたヘアピンを髪に差した、最高の状態だ。
「それじゃあ……。言っとくけど、いまだけは恥ずかしいっていう感情を封印するから」
「? うん」
なんだかよくわからないまま、頷く。
漣里くんは歩み寄り、すっ――と。
私の前で、片膝をついた。
そして、片手を差し出し、まっすぐに私を見つめる。
まるで、求婚するように。
「一緒に踊ってくれますか?」
痛いくらいの真剣な眼差しに、心臓が大きく跳ねた。
予想外の行動に唖然としていると、漣里くんが笑った。
私を見つめて、優しく、笑った。
胸の中で何かが弾けて、たちまちそれは身体いっぱいに広がって、隅々まで満ちていって――ああ、これが幸せなんだなって、実感した。
目頭が熱くなる。唇が震える。
あまりにも幸せで、涙の衝動が堪えきれない。
「……はい。喜んで」
私は手の甲で涙を拭った。
満面の笑みを浮かべて、漣里くんの手に自分の手を乗せる。
漣里くんが安心したように笑い、私の手を握ったまま立ち上がった。
ふと、この場にいない人のことを思う。
今頃、葵先輩はみーこと屋上で話しているんだろうか。
そうであったらいい。
いつだって最高の味方であってくれた葵先輩と親友が、穏やかに笑い合ってくれていればいいと、切に願う。
「じゃあ、行こうか」
どちらからともなく言って、指を絡め合い、歩き出す。
――さあ、行こう。
ありふれた高校の体育館で行われる、賑やかでおかしなダンスパーティーへ。
ううん、それが終わっても、どこへだって――そう、繋いだ手を離さずに。
私の手はあなたのために。
――あなたに愛を伝えるために。
《END.》
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