深酒

猫田芳仁

深酒

 それはそれは、暗い夜だった。

 同時に寒い夜でもあった。

 いつもの一本前の通りで、無性に温まりたかったあなたは、見なれぬバーへふらりと入った。

 黒猫が嫌味な笑い顔を浮かべている看板に、「キャッツテイル」と書かれている。店に入るとカウンターの向こう側で、看板の猫にそっくりなマスターがグラスを磨いていた。

「いらはい」

 笑うとますます看板そっくりだ。あなたはカウンターの一番隅に座り、ジントニックとサラミを注文した。

 反対端では、古風な三つ揃いの男が真っ赤な酒をちびちびやっている。

「うちははじめてですね」

「わかりますか」

「小さい店だもの、常連ばっかりなんですよ」

 奥の常連さんをほっぽらかして、マスターはしきりにあなたに話しかけた。あなたもべつだん嫌だとは思わず、マスターにつつかれたり、つつきかえしたりしていた。たまに常連さんが酒やつまみのおかわりを所望し、マスターはそれにそつなく対応するのだが、給仕が終わるとまたあなたのところに戻ってきてなんだかんだと話をした。毎回同じ顔ぶれというのも、暇なのだろう。そう解釈してあなたはマスターとおしゃべりを続け、いつのまにかグラスを重ねていた。


「おにいさん、おにいさん」

 視界が真っ暗なのは、自分の腕に顔をうずめているせいだと気がついた。いつのまにか寝てしまったらしい。そんなに酒に弱いほうではないあなたは首をかしげつつも、まだぼうっとする頭を上げた。

「家、どっちですか。方向によっては、終電出ちゃったかも」

 あなたは腕時計を確認する。残念ながら、電車は終わってしまっていた。タクシーで帰るには、あなたの家は躊躇する距離だ。近場のホテルはあいているだろうか。あなたの横に、いつの間にか三つ揃いの常連さんが立っていた。

「わたし、この近くに寝床があるけど、泊るかい」

 むやみやたらに背が高い、みどりの目の常連さんはあなたにほいと手を出した。さすがに握りはしなかったが、なぜかあなたは、この見ず知らずの異人に、ついていきたい気になった。


 連れて行かれたのはいかにも高級そうなマンションだったが、部屋の中はひどく殺風景だ。本宅ではなく、こちらで仕事をする時に使う事務所みたいなものだと常連さんは言った。明らかにヨーロッパ系の顔をした常連さんが蒲団を敷いてくれたのはありがたかったが変な感じだ。冷蔵庫の中身は好きにしていいと言われたが、確認したところ、酒と缶ジュースしか入っていない。

 すぐ上の部屋がたまり場になっているのでちょっとやかましいかもしれないと常連さんは言っていたが、さすがは(おそらく)高級マンション、まるで響かない。

「こういうところって、どんな人が住んでいるんですか」

「ここはね、変なやつばかりだよ」

 常連さんが言い終わるかどうかというタイミングで、がつん、と大きな音がした。あなたは思わず身をすくめる。がつん。がつん。常連さんは舌打ちをして、大股で玄関に向かう。

「今、何時だと思っているんだ」

「アルくん帰ってきたって、聞いてさぁー。誘わないわけには、いかないじゃんさぁー。あそぼうよぉー」

「いまは客が、くそ、随分できあがってるな」

 しばらく攻防が繰り広げられた後、常連さんはあなたのところへ戻ってきた。赤い髪、赤いジャケットの男を半ば引きずるようにして。そしてひどく申し訳なさそうな顔で、上のたまり場に行かなければ離してもらえそうにないこと、あなたは一人でここに泊って行ってもいいことを説明した。赤髪の男は始終機嫌よさげににやにや笑っている。あなたが返答に困っているとその男は今あなたに気付いたような顔をして「きみもおいでよ」とますますへらへらした。

 ただでさえいましがた会ったばかりの相手に泊めてもらうことになったのだ。とことんまでいってやろうじゃないかという考えがあなたの頭の中で触手を伸ばしていく。幸い明日は休日だ。あなたは「いきます」と元気よく答え、常連さんは苦笑しつつも止めはしなかった。


 玄関扉を開けたとたんに、大きな話し声、笑い声、音楽、その他様々な音が一斉に飛びかかってくる。よくもまぁ扉一枚で、この騒音が防げるものだとあなたは感心した。李銀具の扉をあけると喧騒は、当然ながら一層大きくなり、ふいに静まった。

 部屋にいた数人の男女は、あるいはグラスを傾けかけ、あるいはテレビのリモコンを握ったまま「ぎょろり」とあなたを見た。縞スーツ。黒スーツ。ゴシックロリータ。チャイナドレス。一瞬あとには射殺さんばかりの目つきが嘘だったかのように全員ぱっと笑顔になり、「おかえり」「久しぶり」と口々に常連さんへ声をかけた。

「今回はどのくらいいられるんですか」

「タイミング悪かったね。弟さん、ちょうど夜勤だよ」

「とにかく、座って」

「いいワインがあるんですよ。せっかくだし、開けましょ」

 ひとしきり常連さんを歓待した後に、縞スーツが「で、そちらは」と顎をしゃくった。漫画の悪役のように険のある吊り目だ。あなたは内心、彼を香港マフィアと命名した。

 常連さんがかくかくしかじかと事情を説明し、赤髪の男がおしかけてきたくだりにさしかかると全員「ああ」という顔で、こたつにしなだれかかっている酔っ払いを見た。

「先生、いつも以上に呑んでましたもんね」

「わたし、止めたんだけどいうこときかなくって」

 フリルもレースも色のあるものは何一つない真っ黒ゴシックと、服装こそ黒スーツだが時代錯誤なリボンで止めた長髪の男が顔をつき合わせる。あなたはそれぞれ、葬式、貴族と勝手に名づけた。散らかるお菓子の袋や空き缶をぼうっと眺めていたあなたの前に、ずいと新しい缶が差し出された。

「飲んで」

 赤いチャイナ服の、少女といってもいいような女性がビールの缶をさらに押し出してくる。髪は真っ白。根元まできれいに脱色されている。どうも、とこたえてあなたは缶を開けた。彼女はぬるりと元いた場所に戻り、空のグラスに琥珀色の酒をどぼどぼと注ぐ。放りこんだ氷をじっと見つめる姿は、猫に似ていた。

「先生前後不覚だし、かけちゃいますか」

「いいんじゃない」

 葬式がリモコンを弄るとバラエティ番組が切り替わり、おどろな事態のタイトルが浮かび上がる。古いホラー映画らしい。

「ホラー、大丈夫かい」

画面とあなたを交互に見ながら、香港マフィアが問いかける。特に好きでも嫌いでもないあなたは、大丈夫だとかえしておいた。画面の中では、早くも雪山で何者かに追いかけられているようだ。

「飲んで飲んで」

 ビールを空けたところで、狙っていたかのように常連さんがグラスを押し付けてくる。水滴がいっぱいついていてぐっしょり冷たい。橙色の可愛いお酒で、カットオレンジがぷかぷかしている。可愛い女の子に似合いそうなカクテルだ。

「なんですか、これ」

「マスターに教えてもらった。うまいよ」

 流し込むと見た目に反して強いようで、アルコールがあなたの喉を焼いた。ビールで胃の腑に点った火が大きくなる。

「死人も起き上がるほど強いんだ。反対に、死人のように前後不覚になると言う話もあるけれど」

 だからゾンビというんだよ。そう言って常連さんは笑った。あなたの頭は、へんにぐらぐらする。酒の酔いとはまた違う。

「きみがわるいんだぜ。マスターが目をつけていたから、せっかく助けてやろうと思ったのに。のこのこついてくるんだもの。もう我慢できないな」

 あなたは視界がごたごたしていくのをどうしようもない。一度叩き割って、もう一度景色を組み直したみたいに、ぐちゃぐちゃにしか見えない。卓上の飲みかけのワインでもはまったのか、常連さんの眼と唇が異様に赤い。いつの間にか赤髪の男も身を起こしているようにあなたは思ったが、それもすぐに極彩色のモザイクに流された。

 ただただ、常連さんの声、そしてとりまくひとびとの笑い声があなたの耳へさざ波に似て寄せては返した。

「わたしだって、腹が減っていたんだ。もう、ずっとね。わたしだけじゃない。だれも、かれも、うまい食事なんてそうそう手に入らないんだから。我々にとっては食事だけれど、エンターテイメントとして楽しみたいという方々もいるし」

 じり、じり、迫ってくる気配がある。複数。瞬きをすると赤いチャイナドレスや縞スーツの裾がちらついた。転換。テーブルの向こうが見える。先生の赤毛と貴族の黒スーツが並んで、顔が見えなかったのににやにや笑っているのがびっくりするほどよくわかった。転換。葬式の荒れた白い手がもくもくと私物をまとめ、酒瓶を一本かっさらった。

「帰っちゃうの」

「わたしはあまり見たくないので」

 耳元でささやかれているように、あなたには聞こえた。なにを。葬式は。見たく。ないのか。もはやあなたはこころさえもぶちぶちに引きちぎられつつある。鮮烈な感覚。氷のように冷たい手指が、あなたの頬を抱いた。

「感謝したまえよ。先生に。彼が一服盛ろうと言い出したから、きみはおそらくさほど、つらい思いをしなくてもいいのだよ」

 たおやかでやわらかい手が、痩せて骨ばった手が、あなたの腕と言わず脚と言わずぬるぬると絡みついてくる。沼の匂い。ひなたの匂い。鉄錆と薔薇の匂い。ひとの姿を借りる、飢えた怪物たちがあなたを蹂躙するその前に、幸いあなたは壊れていた。

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深酒 猫田芳仁 @CatYoshihito

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