第10章 さよなら鏡の世界



 月日が流れて五月に入り、ゴールデンウィークがやってきた。

 今日は、その二日目のみどりの日。

 締切が迫った喫緊の仕事があるわけでもない私は、朝食を軽めに摂った後、少し街をぶらついてみることにした。

 ゴールデンウィークには、《ホーリーノエル》のメンバー同士で初めてのオフ会を開くことになっていたけれど、それは、チェシャが生きていた頃に交わした約束であって、そのチェシャがいなくなってしまった今、その件が話題に上ることもなく、その話は自然消滅してしまったようだ。

 残されたメンバー同士で、《エアフリ》を通じて会話しながら《リゼルヴィア》をプレイすることも、滅多になくなった。このままいくと、《ホーリーノエル》自体が自然消滅することにもなるのかもしれない。

 自宅マンションを出て、人通りの少ない欅の街路樹が並ぶ通りを、首から提げた携帯音楽プレイヤーで、フォーレの『レクイエム 第五曲 アニュス・デイ』を、イヤホンを通して聴きつつ、ゆっくりとした足どりで歩きながら、物思いに耽る。

 最近、こんな噂が人知れず囁かれるようになった。

 殺されてしまった都野國屋アリスの亡霊が夜の街中を彷徨っているというものだ。

 ウェブ上で結成されていたアリスのファンクラブのメンバーの一人が、彼女を夜の渋谷の街中で目撃したのが、その噂の出処らしい。

 だけどそれは、整形手術を受けて、アリスになり代わったミカを見て、というわけじゃない。

 なぜなら、ミカは、私に別れの言葉を告げたその日の深夜に、自宅マンションのビルの屋上から飛び降りて、自殺してしまったから。

 そのミカは、自殺する前に遺書を残していて、それには、自分の罪を洗いざらい告白する文章が書かれていたので、アリス殺害の容疑で拘置所に入れられていた白鞘留美は、無事釈放されることになっていた。

 相坂が自殺したのは、三月下旬。アリスの亡霊の噂が流れ出したのは、四月の初め頃。

 では、アリスの亡霊というのは、ただのデマでしかないのか、というと、それも違う。

 そのアリスの亡霊というのは、たぶん、私。

 《ホーリーノエル》内で、『白兎』というハンドルネームを使い、それを略した『ウサギ』の愛称で通っていた私は、他のメンバーに本名を明かしたことはなかったけれど、その本名は、都野國屋ルイスという。

 殺された都野國屋アリスと私は、一卵性双生児の姉妹同士で、私は彼女の実の妹になるのだ。

 私達二人は、まったく同じ顔をしてともに生まれた。けれど、実像と鏡像のように容姿がそっくりというだけで、性格は両極端だった。

 明るくて活発、自信家で迷いがなく、周囲を引っ張るリーダー性を持っていたアリス。

 それに対して私は、うじうじした暗く臆病な性格で、いつも周囲から遠ざけられていた。

 私達の名前の由来になった、ルイス・キャロルとその著作である『不思議の国のアリス』。

 その作品のヒロインであるアリスと、彼女を不思議の国へと導き、その後もしばしばアリスの前に登場する、ルイス・キャロルが語ったように、陽の属性を持つアリスに対し、その対比として生み出され陰の属性をもたされた白兎――その二者のように。

 どれだけ探しても、私が存在する理由は、見た目がそっくりなだけで中身が伴わない、できそこないの紛い物であること、というぐらいの答えしか見つけることはできなかった。

 そんな私だったけれど、大学在学中に、ある短編推理小説の賞を受賞したことで、子供の頃からの夢だった推理作家になることが叶い、それからは、俎上に載せられることも少ないマイナーな存在ではあるけれど、少しは自分に自信が持てるようになって、人付き合いも人並みにできるようにはなった。

 けれどそれでも、姉であるアリスに対する劣等感は、少しも拭われなかった。

 一日の大半を、ノートPCのディスプレイと向かい合って、頭を悩ませながら、ただ黙々とキーを打って文章を紡ぎ続けるだけの私に対し、姉であるアリスは、華やかな舞台に上がり、その美しい容貌と卓越した眩しい程の演技力で、多くの観客を魅了する。

 私は、アリスの舞台に招待されて彼女の演技を観た時、こう感じた。

 ああ、私達の関係は、子供の頃からなにも変わっていないんだ……、そして、これから先も、ずっとこのまま…………。

スポットライトを浴びて、魅力的にヒロインを演じるアリスは、常に輝ける存在。

 それに対して、暗がりで観衆に埋もれながら、ただ光当たる彼女を眺めるだけの私は、いつまでも陰に潜むばかりで、決して光が当たることも、自ら輝きを放つこともない。

 『不思議の国のアリス』で、アリスの対比として登場していた『白兎』の名をハンドルネームに選んだのも、そんな自分を変えることなんてどうせ無理なんだという、自虐めいた思いからで、顔を見せずにプロフィールも隠していたのも、自分への自信のなさがそうさせていた。

 イヤホンから流れ出ていた、フォーレの『レクイエム 第五曲 アニュス・デイ』が、中間部に差しかかり、幻想的な転調を遂げた。

 だけど、今は違う。アリスは、もうこの世にいない。

 アリスを殺して、彼女になり代わろうとした相坂も、自ら命を絶った。

 今の私は、唯一無二の存在。

 もう、姉であるアリスのおまけとして生まれた、複製品みたいな存在じゃない。この世界に一つだけの、完全なオリジナル。

 私のレゾンデートルは、私自身であること。

 そう、はっきりと自覚することができた。その矜持さえあれば、これまで陰に潜むばかりでいた私にも、光が射し、自ら輝きを放つ存在にもなれるはず。

「あの……」

 すれ違おうとした、一人の小柄であどけなさを残す二十歳前後くらいの女の子が、前で立ち止まり、おずおずながらも声をかけてきた。

 足を止め、流していた音楽を一時停止させて、イヤホンを外して向かい合う。

「どうしたの?」

 私が努めて優しげな口調で尋ねると、その女の子は、小さく声を震わせながら、

「……あの……、もしかして、都野國屋アリスさん……、ですか……?」

 たぶん、アリスの舞台を観に行ったことがあるとかで、生前のアリスを知っているんだろう。 彼女の亡霊の噂を耳にして、恐怖を感じながらも、彼女のファンだった一人として、沸き起こる好奇心に抗えずに声をかけた、といったところだろうか。

 私は明るく微笑みながら、

「いえ、違うわ。私は、都野國屋ルイス。白兎として長い間迷い込んでいた不思議の世界から抜け出して、ようやく表の世界に戻って来れたの」


                            (了)

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Each Desire 雨想 奏 @usoukanade

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