第6話 そして、藤の庭

 長い夢を見て、輝子は目を覚ました。

 ほおっと深い溜め息をもらす。

 最近は一日中眠っているような気がする。冬のはじめにひいた風邪が、なんのきっかけになったのか。冬の間のほとんど全てを、寝たり起きたりで過ごした。高熱と言う訳ではないのだけれど、なんだか熱っぽく、怠くて、長く起きていると目眩をおこすこともある。

 「お疲れなのですわ。しばらくお休みになればお元気にならましょう。」

 女房達の言葉の「しばらく」が「年の瀬」になり、「お正月」になり、「春が来れば」に変わっても、輝子の体調は一向に本復しなかった。

 むしろ少しづつ悪くなっているようで、寝たり起きたりの寝ている時間が、だんだん長くなっていく。ようやく春の気配の漂いだした近頃では、誰の目にも明らかに、寝ている時間のほうが長くなっていた。

 その長いうつらうつらとした眠りの中で、輝子はいくつもの夢を見た。

 内親王であった少女の日。

 故院の求めで迎えられた後宮。

 そして髪をおろした殯の日々。

 「まあなんて不思議なこと。姫宮様は亡くなった御息所に生き写しでございますわ。」

 あれは、誰の言葉だったか。あの言葉が輝子を後宮へ、そしてあの奈落の底へ導いたのだ。

 そうだ、あれは母上に使えていた女房の、伯母とかいう女官だった。姪のところに遊びに来て、たまたま輝子を見かけたのだ。

 その女官が寵姫を失って悲嘆にくれていた院に、輝子のことを知らせたのだった。

 院からの入内の申し出に、母はいい顔をしなかった。内親王宣下をうけた輝子には受け取るべき御封があり、母から受け継ぐ財産と合わせて十分に暮らしていける見込みがあった。

 「何のために気の張る入内なぞさせる必要があるのです。まして今の東宮の御母女御はなかなか厳しいお方だとか。苦労は見えているではありませんか。」

 輝子自身は入内の話を、すっかりよそごとに聞いていたように思う。母が認めない縁組を自分が受けることになるとは思っていなかったし、ましてや入内だなどと言われても、自分の話だとは思えなかった。

 母がもっと長く生きていれば、輝子の入内は実現しなかったことだろう。実際に、一度話は流れたのだ。

 母が思いがけず突然に亡くなったことが、輝子の入内の決め手になった。


 「母上、お加減はいかがですか。」

 人の気配に目を開けると帝がおられた。輝子が生み参らせた皇子はつつがなく御位につき、すでに中宮や女御も迎えている。

 「起こして下さればよろしかったのに。こんなむさ苦しい所にお迎えして。」

 母といえども、帝とは病室で床についたまま迎えるべき存在ではない。

 「よいのです。そのままで。」

 その帝の配慮に、輝子は自分の病がいよいよ篤い事を知る。

 「この間梅が咲いたと思ったら、もう桜が咲き始めていました。」

 女房が脇から壺に生けた桜の枝を差し出す。ふくらんだ蕾のいっぱいついた梢で、確かに2つ3つの花が咲いている。

 「藤は、まだでしょうか。」

 ふと、つぶやいた。

 長々と花房を垂れる薄紫の花。咲き誇るのは春の盛り。

 「まだ少し早そうですね。咲いたらお目にかけに参りましょう。」

 帝はそう答えて微笑んだ。

 ああ、似ている。

 輝子の中で帝にもう一人の面影が重なる。面差しも、身のこなしも、帝は光にとてもよく似ていた。あやかしを寄せ付けない清浄な体質さえも。

 ただ、帝には光の持つ残酷なまでの天真爛漫なところはなかった。光にはない微かな陰りが、思慮深さと落ち着きを添えているように見える。 

 輝子が落ちた奈落に光があるのだとすれば、帝こそがその光だった。

 きっと、随分我慢をさせた。

 輝子にもわかっている。

 輝子が早々と出家をしてしまったせいで、帝と会えることは間遠になった。まだ幼かった帝にとってそれは辛いことであったろう。父もなく、他人に囲まれて育つような生活を、輝子は幼い我が子に強いてしまった。

 この子を憎んだことはない。罪の結果生まれてきた子供ではあっても、輝子は帝を愛した。むしろ、愛していたからこそ、その出生に後ろ暗い秘密のあることが耐え難かった。

 この、賢く優しい我が子を、後ろ暗い所なく誇ることができたなら、どんなにか良かったろう。

 「楽しみにしております。」

 輝子の言葉に、帝は泣きそうな顔で笑った。


 今もまだ、輝子の殯は終わっていない。

 輝子の中には今もくすぶる熾火のようなものがある。このまま輝子の命の終わりとともに、輝子の殯は終わるのだろう。

 輝子の出家の後、光はいっとき須磨に蟄居することになった。時の帝であった朱雀の院の寵姫に通じた罪で、殿上の札を削られたのだ。朱雀の院本人よりも、母君の皇太后の意向によるものだと言われているのには、それなりに理由がある。

 光と通じたとされた寵姫が、その寵愛を失わなかったのだ。

 世間では、寵姫が皇太后の実妹であったのが理由なのではないかなどと言われていたが、輝子はそうは思わない。故院がそうであったように、朱雀の院の寵愛を失わせる理由には、ならなかったということなのだろう。

 もう、瞼を持ち上げるのも重い。

 少し前までは次々と舞い込むお見舞いの言葉に応えて、短時間なら筆を取ることもできたのに、今は身体を起こすことができない。

 「なぜこんなことに。」

 御簾の向こうで光は泣いていた。

 忍び込んできたわけではない。

 中宮の親代わりであり、帝の後ろ盾である光は、堂々と面会を申し込んでくるし、御簾越しの面会であれば輝子も別に拒まない。

 輝子の出家で男女の中ではありえなくなった光は、帝を支えるための輝子の盟友であり、共犯者でもあった。

 「たいした病とも思いませんでしたのに、どうやらこれでお別れのようです。」

 そう、返事をすると耐えきれなくなったのか、光は嗚咽を漏らした。

 去り難そうにはしても、今の光はちゃんと帰ってゆく。

 須磨から明石へ、そして京へ。朱雀院のお召を受け、返り咲いた光は、今や権勢の主だ。物腰には威儀が加わり、軽々しい行いをすることはなくなった。

 もしも、生まれ変わる事があったなら、輝子は決してこんな人生は望まない。今度は静かで穏やかな一生を送りたいと思う。

 けれど、それでも輝子の人生にも温かいものはいくつもあって、それをこの世の他の思い出に抱きしめていこうと思うのだ。

 「庭が見たいわ。」

 女房に御簾を上げさせると、春の気配が香った。輝子の目に、庭のみずみずしい緑が映る。

 もうすぐ、春の盛り。

 藤が咲いたら、あの子が見せにやってくる。

 ー花盗人は誰?

 あの庭には大きな藤の木があった。大きな花房をいっぱいにつけ、誇らしげに揺らしていた。

 ーあの、猫に花衣を着せるんです。

 大きな猫を腕に抱えて、あの子は見せに来てくれた。

 「藤が、咲いたら。」

 ー今度は一緒に。

 

 春の香りを運ぶ風の中、輝子の唇に笑みが浮かぶ。瞼が静かに閉じたあとも、その笑みは消えなかった。

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藤の庭 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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