最終話 それぞれの結末――そして、いつかの僕たちへ


二十九、  それぞれの結末


二十九の一、  コーヒーショップライフテクノロジーズ


 K大学から非侵襲細胞活性測定装置のデモ機を引き上げる俺達に、その研究室の教授である田畑が「来週までには御社のものか、D社のものを採用するか連絡します」と声をかけてきた。イノベーションGALAで田畑が言っていたように、研究室は真新しい建物の中にあり、まだ引っ越しの途中なのか段ボールがうず高く積み上げられていて、それを――これもあの時に言っていた通りなのだろうが、5、6人のパートらしい職員がてきぱきと開梱していく。

 田畑の研究室を出る際に崎村が短く礼を言うと、「もし採用となった場合は、改めて見積もりとかお願いしますね」と田畑が付け加える。



 ――というやりとりがあったのが四日前。


 あいだに土日を挟んで、すでに田畑の言っていた『来週』にはなっている。コーヒーショップライフテクノロジーズの全員が胃を痛くしながら、K大学からの連絡を待っていた。無関係の電話が鳴っても、いちいち全員が反応してしまっている。もちろん、俺もそうだった。


 そして俺のデスクに置いてある会社用のスマートフォンがなる。


 表示されている相手先は『K大学・田畑教授』で、俺はこちらを見ている全員に向けて無言で頷くと、レンタルラボのなかに緊張が走る。

 俺は緊張しながら電話に出る。

『……ああ、畠中さんですか? K大学の田畑です。この間の非侵襲細胞活性測定装置の件でお電話しました。すいませんね、お待たせしてしまって。調達課との打ち合わせが長引いてしまったものですから』

「いえ、大丈夫です。それで、ご検討の結果はいかがでしたでしょうか?」

 俺は努めて冷静に話そうとするが、ところどころ声の音が外れてしまう。周りでそれを見ている全員が固唾を飲んで見守っている。

 田畑はデモ機を使ってみた感想、得られたデータについて、現状で気になった点とここを改善してほしいという要望をいつも通りの穏やかな口調でゆっくりと話す。


『やはり一番は蛍光を使った代謝測定が出来ないのが、ですね』




 同時刻、D社本社研究開発事業部。


 研究開発事業部の部長である辻井は自分の居室で、部下であり、T大学との共同開発の責任者でもある立川から報告を受けていた。

「そうか……なるほど。決め手はやはり『蛍光測定部分』か。彼らが最初から指摘していた部分だったし……まぁ切り捨てたのも彼らだったわけだけど」

 『氷の男』とまで陰で言われている辻井が、抑揚もなくただ淡々とつぶやいているのを、立川は緊張したまま聞いている。辻井は立川が走り書きしたメモを机の上に置くと、ふーと大きくため息をつく。


「……法務部に連絡をしてくれるかな。”手続き”をすすめようじゃないか」




 再び、T自治体レンタルラボ。


「……はい、もちろんです。いえ、ご指摘ありがとうございました。それでは失礼します」

 俺は電話を切り、天井を仰ぐとはぁと溜まっていた息を吐きだす。スマートフォンをデスクに放り投げ、自分の頬を二回手のひらで叩く。


「……どう、だったの?」

 愛理がおそるおそる尋ねてくる。


「田畑先生からは、デモ機を使ってみた感想、現状で気になった点――特に長時間使い続けた時に時々起こるフリーズについて……だな、細かく指摘された。それと、やはりというか『蛍光による代謝活性の測定』についても」


 俺の話を聞いて、全員がどんよりとした顔で俯く。



「おい、みんな何を勘違いしてるんだ? 田畑先生は『早く蛍光による代謝活性測定のオプションを開発して下さいね』と催促の意味で言ってたんだぞ?


 ――



 何が起こったのかわからなかったのか、一瞬、きょとんとしてから、わぁと歓声が上がる。崎村は「ははは」とにやけて笑いながらいつものように頭を掻いてフケをまき散らし、飯島はガッツポーズで喜んでいる。斎木はへたへたとその場に座り込んでしまう。


 そして――愛理が俺の胸に飛び込んでくる。「やったぁ!」と嬉し涙の浮かぶ顔を埋めながら俺のシャツの背中の部分をぎゅっと両手で握る。

「……いいのか? みんな、見てるぞ」

 我ながら面倒くさい性格だと思いながら、照れ隠しにそう言うと、愛理は顔を上げ、俺の目を見つめる。

「いいよ、今日くらい。こんなに嬉しいことなんて滅多にないんだし」

 そう言って、まだ嬉し涙が残る目を細めて笑顔を作る。その拍子に頬に零れた涙の粒を、俺は右手の手のひらで拭い、そのまま愛理の背中に両手を回す。


「そうだな、今日くらいはいいか」


 そう言って愛理と唇を重ねると、さっきと同じくらいの歓声がレンタルラボの中に響いた。




二十九の二、  T大学大学院工学研究科バイオエンジニアリング専攻・竹ノ内研究室


「うちのじゃなく、コーヒーショップライフテクノロジーズの製品を採択するだと!? 馬鹿を言わないでください!」

 竹ノ内が受話器の向こうの相手に怒鳴っている。研究室の秘書もあまりの剣幕に吃驚してそのまま教授室から退出する。

『馬鹿って失礼ですねぇ。まぁ気にしませんけど』

「理由を……理由を言いたまえ!!」

『うーん。だから、僕はあなたの部下でもなんでもないんですけど。理由ですか? そんなの簡単ですよ。何で代謝活性測定が使えもしない機械を高値で購入しないといけないんですか。先生はあの蛍光測定部分使ってみましたか? 細胞の塊のままならかろうじてデータ出ますけど、パンフレットに書かれていた”一細胞ごとの”なんて全然無理ですよ、あれ』

「な……何!?」

『あーその様子だと、ご自分では使われていないんですね? あの部分に関するパンフレットのデータは――きっちり国立大学法人T大学大学院工学研究科バイオエンジニアリング専攻・教授・竹ノ内直樹先生ご提供と書かれていますけど、丸っきり出鱈目ですよ。あの機械では、まず細胞塊でもあんなにきれいに光りません』

「……ヒトの顔に泥を塗って、ただでは済まないぞ」

 竹ノ内は怒りで肩を震わせ、受話器が壊れるほどに強く握りしめながら、電話口の田畑に凄む。


『ぷっあはははは、何ですかそれ? 流行のギャグか何か? 僕はずっと海外に居たんでその辺の事情というかそういうものにはまったく興味ありませんねぇ。それにここはT大学でも、国立大学ですらもない、ただの私立大学――つまり、民間企業ですし。あなたの”お山の大将”の権力なんて何も及びませんよ。ははは、いや、本当に面白いジョークでした。ありがとう。それじゃぁ、失礼します」



 田畑が電話を切ると受話器を投げつけ、怒りに任せて机を蹴っ飛ばす。今度は廊下に出て話が終わるのを待っていた秘書に怒鳴りつける。

「佐藤を、佐藤を呼び出せ!!」

 涙目の秘書が慌てて研究室へと向かって走り出すと、それと入れ違いになって見知らぬスーツ姿の男女が教授室に入ってくる。

「何だ、お前たちは! 今日は忙しいんだ、帰れ!!」

 まだ名乗りもしていない突然の来訪者に向けて、竹ノ内が怒鳴る。

「竹ノ内直樹先生ですね? 私たちは総長直轄のT大学研究公正局(the Office of Research Integrity, ORI)の者です。先生に用が無くても、私たちはあなたに用があります」

「ORI? 何を……言っている……んだ?」

 竹ノ内がORIという単語を聞いて、急に狼狽える。


 ORIとは、科学研究において、ねつ造や剽窃などの不正行為がないかを監視、捜査するための機関で、本来は大学などの研究機関の外に設置される第三者機関であるが、現在の日本においては、未だORIにあたる組織がないため、T大学では総長直轄の他の学部や組織とは独立した機関として独自に設置している。


「あなたの今年出した論文について、『ねつ造の疑いがある』という匿名の投書がありました。こちらで投書の内容を慎重に精査したところ、単なるいたずら目的ではなく、調査に値する情報であることが確認されたため、本日、総長名で本調査に入ることが決定されましたので、本学研究倫理規定の定めにより、本日14時を持ちまして、大学院工学研究科バイオエンジニアリング専攻・竹ノ内研究室の活動を制限させていただきます」

 女性の職員が淡々と告げる。

「そんな……何も……俺は何も聞いていないぞ……そ、そうだ中村は!? 中村がやったんだ!」

 竹ノ内は酷く狼狽しながら、醜い言い訳を始める。今度は男の職員がため息をついてから、それに応える。

「中村やよい助教は、すでに本学を退職されています」

「ば、馬鹿な! 第一、所属の長である俺に何も言わずに退職できるはずがないだろう!!」

 食って掛かる竹ノ内に男の職員が冷たく続ける。

「先月末日付けで退職願が事務局に提出され、工学部教授会ではなく理事会にてその審議および承認がなされ、昨日付けで退職しています。その件についても、ハラスメント防止委員会の方で先生への調査が開始されると聞いていますが、本件とは直接関係しませんので、それ以上はなんとも」

「ハラスメント委員会……だと!?」

 竹ノ内が男の襟元を掴もうとするのを、男は冷静に払いのける。

「だから、その件に関してはわれわれの知るところではありません。われわれの業務は本件の調査委員会での本調査が終わるまでの間、この研究室で証拠等の保全を行うだけです。それと、あなたと研究室内のポスドクである佐藤氏には本日これからコンプライアンス担当理事のヒアリングを受けるように業務命令が出ています。速やかに本部理事室に向かってください」

 竹ノ内は目を大きく見開いたまま、その場に力なく崩れ落ちる。それを見下すように一瞥した女性職員がため息をついてから「速やかにお立ちになって、理事室へ向かってください。ここは私たちが封鎖します」と言い放つ。



「うふふ、間一髪ってところかしら」

 国際線の飛行機のなかで中村が不適に笑う。

「あのキモ髭面君、なかなかやるじゃない。あの短い時間で資料を自分のスマートフォンに写真として残しておいて、佐藤の論文、発表データと合わせて投書してくるとはねぇ」

 眼下に広がる雲の隙間から見える街を見つめながら、にやりと口角を上げる。

「でも、まぁ詰めが甘いわね。まさかとは思いもしなかったのだろうけど。ふふふ」



「さてと……次はどこに行こうかしら。まぁどこに行っても、あなたを貶めて私”だけ”のものにするまで何度でも戻ってくるわ。 ……ねぇ、”セイ”ちゃん」





二十九の三、  T自治体にある総合病院の病棟の一室。


「おい、婆さん。見舞いに来てやったぞ」

 病室でベットに横たわる居酒屋『あじさい』の女店主は、そっぽを向いて「余計なお世話だ、帰れ」と返す。ふぅとため息をついてから久保はベッドの横にあった丸い椅子に腰を掛けると、持ってきたお見舞いの品をサイドテーブルの上に置く。

「あのピーピー泣いてた孫娘、立派になったじゃねぇか」

 店主は、ふんとやはりそっぽを向いている。

「……あの時、カンナちゃんと旦那が交通事故で亡くなって、それからあんたが一人で大学卒業まで育ててきたんだろ。大したもんだよ」

 店主は何も答えない。久保は「よっこらしょっと」と立ち上がり、窓側に移動すると、ほんの少しだけ窓を開ける。まだ寒い冬の風が一筋入り込むと、カーテンがひらりと揺れる。

「お、そうだ。辻井も来るってよ。何でも『大失敗の責任とらされて降格するかもしれん……お前があんな連中紹介するからだぞ!』とか言ってたけどな」

 久保は「ガハハハハ」と豪快に笑う。店主はそれにも反応しない。


「……なぁ、婆さん。店、辞めるんじゃねぇぞ? 俺と辻井はあの時に食った『とんかつ』のおかげで、今になってようやく『勝てた』んだ。周りからのどんな理不尽な力をもはねのけ、自分たちの未来を、自分たちで切り開くあの若造たちのおかげでな。負けっぱなしの俺達の希望なんだよ、連中は。だから、あいつらにもっとアンタの『とんかつ』、喰わせてやってくれ。頼んだぞ」


 久保がそう言い終わると、病室の扉が開き見舞いの品を両手に抱えたスーツ姿の男が入ってくる。久保が笑顔で「よぅ」と声をかけると、電話口では会話をしていても顔を合わせるのは二十数年ぶりだったはずの親友が「ああ」と昔のように答える。




二十九の四、  いつかの僕たちへ



 三年後、T大学。


 学位授与式で入ったっきりだった昔の寄付者の名前の付いた講堂に、俺と飯島、愛理、斎木が座っている。会場内は一階席が大学関係者や大学院の学生で埋まっていて、二階席に俺達と一般参加の人間が座っている。D社の戸部と長谷川も二階席で、俺達と同じように開始を待っている。久しぶりにあった戸部と長谷川は、D社内で新規事業を社内ベンチャーとして立ち上げる部署を辻井のもとで始めていて、ずいぶんと逞しくなった印象を受ける。


 ただ、そこに竹ノ内や佐藤、諸住もろずみ、それに中村の姿はない。


 やがて開会の時間になると、司会役の教員がマイクを取って今回のシンポジウムの趣旨を説明し、続けて総長が挨拶をする。そして、いよいよ崎村の名前が呼ばれ、会場の灯が落ちると、大きなスクリーンに『コーヒーショップライフテクノロジーズ』と俺達の作った会社の名前が映し出される。


 崎村が演台に立ってマイクを取り、落ち着いた口調で話し始める。


「僕たちは会社を興す寸前まで、いわゆる”ポスドク”でした。ここにいる大学関係者の皆さんには馴染みの言葉でしょうが――」




 “ポスドク”という言葉をご存じだろうか?


 大学院博士後期課程を修了し博士号を取得した多くの研究者は、大学などの研究機関に『教員』といった常勤職員として採用される前に、採用期間の限られたいわば契約社員のような立場で研究業務に携わる。

 これを博士の『後』の研究員という意味で、postdoctoral fellowポスドクと呼んでいる。

 その多くが数年の任期しかなく、多くのポスドクとなった研究者は、その不安定な立場のなかで研究活動を行い、期間中に書いた論文などの業績を糧にして、次の研究職を探していく。

 このようなポスドクの不安定な雇用状況やその後の就職難は『ポスドク問題』と名付けられ、今や大学や研究機関以外の人間でも認知しているほどである。



 ――では、ポスドクは傍から見れば”不安定で可哀そうな”キャリアなのだろうか?


 俺にはその答えはわからない。個々人が置かれた状況はそれぞれ違うのだし、もしかしたら共通の答えなどないのかもしれない。


 それに、竹ノ内の思惑で突然解雇された俺達がとった行動は、決して最善策ではなかったと思う。それどころか、実際の起業家や起業論を研究している人間からすれば、無謀でおかしなものに映ったに違いない。


 それでも俺はようやく『ポスドクを経験して良かった』と堂々と言える気持ちになっていた。




 持ち時間40分の崎村の講演もようやく終わりに差し掛かったようで、崎村が演台に置いてあったペットボトルの水を少し口に含み、喉を湿らせる。


「……以上が、私たちコーヒーショップライフテクノロジーズの起業の経緯と、現在の事業内容です。


 実は、僕たちには特定の日、例えば『あの日』とか『この日』とかに対する思い入れ……というのがあまりありません。さっき話した寒空のなかでの創業秘話のようなものも、今となっては何月何日だったのか結構うろ覚えです。たぶん、あと何年かもすれば確実に忘れていると思います。


 僕たちはポスドクでした。


 そして、ポスドクを突然解雇され、どうしようと頭を抱えていた仲間たちと、当面生き残るためにコーヒーショップライフテクノロジーズを作りました。会社の名前もただ作った場所が、全国チェーンのコーヒーショップだったってだけです。


 ”今できることを何でも試す”――結局これを三年間ずっと繰り返してきただけなのかもしれません。


 でも、一緒に戦ってくれた仲間がいてくれたおかげか、ずっと大変でしたけど、一方で面白かったのも確かです。


 もちろん去っていった仲間もいます。でも、僕らは彼らよりも成功したか、あるいは幸せかということについて、正直わかりません。ひょっとしたら、僕ら以上に成功しているかもしれないですからね。


 

 この場を借りて、T大学の学部二年生の頃から現在に至るまで、苦楽を共にしてくれた親友、畠中幸太郎君に感謝します。


 また、創業時の苦しい時代を一緒に切り抜けた、飯島誠君、愛理さん、斎木真奈美さん、今は別の会社に居ますが、戸部潤君、長谷川海人君――そして、当時何も実績もなかったわれわれの会社に未来を託してくれた故・高井誠二さんに感謝しています。



 最後に、アカデミアでのキャリアパスに悩んだり、壁にぶち当たった後輩の君たちに――”いつかの僕たち”へ



 『ああ、こんな進路もあるんだな』と示し続けることのできる会社を目指そうと思います。


 コーヒーショップライフテクノロジーズ、代表の崎村征市郎でした。皆さんご清聴ありがとうございました」



 会場が盛大な拍手で包まれる。やがて、一階席の学生たちを中心にぽつぽつと立ち上がり始めると、すぐにほとんどの観客が立ち上がり、壇上の崎村に拍手を贈る。俺は隣に座っていた愛理と顔を見合わせ、一緒にゆっくりと立ち上がる。


 崎村が頭を下げて壇上を離れてしばらくしても、その拍手は途切れることがなかった。




(了)

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コーヒーショップライフテクノロジーズ トクロンティヌス @tokurontinus

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