第五話 音楽と自由
病院に到着すると、私はいつもの通り「面会者受付」と書かれた窓口で名前を書いた。今日は平日のせいか、名簿を埋める文字は少ない。もちろん私が面会相手として書くのはおじいちゃんである。ここに来た目的がタクトさんだとしても、昨日会ったばかりの私がタクトさんを友人と書いていいのかは微妙だ。しかも面会理由が「楽器を練習するため」じゃあどう考えても正当な理由じゃない。おじいちゃんには悪いが、この時ばかりはぎっくり腰がありがたい。
かちゃりかちゃりと楽器ケースの金具を鳴らしながら、部屋番号とプレートを確認して病室に入る。ここまでは昨日と変わらない。しかし今日の病室にはおじいちゃんの姿はなく、タクトさんだけがベッドで本を読んでいた。真剣に読書に勤しむ姿は、いつも吹奏楽部の仲間たちが演奏している姿と似ている。普段より何倍も凛々しく、いつもふざけているのが嘘みたいに練習をこなす。私はそんな部員を見る度に、いつもそうしていればいいのに、と思うのだ。
入り口でしばらく突っ立っていると、タクトさんが私に気がついた。
「カナデちゃん!」
一瞬にしてさっきまでの固い表情が崩れ、昨日と同じ柔らかな笑顔が出来上がる。どうやらそれがいつものタクトさんらしい。あまりの変わりように軽く会釈程度にとどめた私を見て、それさえも嬉しいとばかりに頷き、読んでいた本をデスクの上に置く。するりとベッドを降り、私に近寄ってくる。嬉しさが体からあふれんばかりな様子は、昔おばあちゃんが飼っていた犬みたいだな、と思った。ブンブン振られる尻尾が見えるようだ。
「今日もお見舞い?2日連続だなんてゲンジロウさん喜ぶね。さっきカナデちゃんのお母さんがお見舞いに来て、一緒にリハビリに行ったんだ。あと30分もすれば帰ってくると思うけど…。」
「あの…っ!」
緊張で大きな声が出た。
それに驚いたタクトさんは少し目を見開き、そのまま首を傾げる。私の発言を待ってくれている事が分かって、あわてて息を吸い直した。
「今日はおじいちゃんのお見舞いじゃないんです。」
「あれ?そうなの?」
キョトンとするタクトさん。
昨日のようにピタリと私の目的を当ててくれればいいのに。そうは思えど、気持ちが伝わるはずもない。
私は恥を捨て、潔く、すっぱり、はっきりと言ってしまえばいいんだ!
「またッ…あそこで練習させてもらえませンか?」
最後の最後で声が裏返った。
カァッと頬が熱くなる。
しかし、タクトさんはそれを笑うこともせず「いいよ」と即答した。
「まだ部活動禁止令出てるの?大変だね。」
「あー…そんなところです。」
ひとりだけ活動禁止令が出ているとは口が裂けても言えず、なんとなく言葉を濁した。思ったよりさらりと流されて拍子抜けしてしまう。
「昨日の今日だから、あんまり長時間は一緒にいられないけどそれでもいい?」
昨日とは、タクトさんが倒れたことだろう。確かに、連日病人を連れ出すのも気が引ける。
「場所さえ貸してもらえればいいんです。別についてこなくても…。」
「それは僕がつまんない。でもそのハングリー精神、相変わらずかっこいいね!」
「………。」
「ごめんごめん。カナデちゃんが昨日よりも何倍も素直だから可笑しくて…。」
「…………。」
「わぁぁあああ!そんな怖い顔しないでよ!怖いよ!」
「元からこんな顔なので諦めてください。」
「そんなことないでしょ!?絶対今『何言ってんだコイツ』って顔してたよね!?」
「何を言っているのかよく分かりませんけど、タクトさんは面倒くさい人間だなぁとは昨日から思ってました。」
「うわぁ…。素直さの度を超えたストレートな言葉が胸に突き刺さるよ。僕、心折れそう。」
「折れるなら礼拝堂を開けてからにして下さい。練習するので。」
「あっそうだよね。ごめんね。ついつい楽しくなっちゃって…。」
すぐに態度を切り替え、タクトさんが年上の顔に戻る。調子に乗って華の時と同じような勢いで話してしまったが、タクトさんがダメージを受けた様子はない。悉く調子の狂う相手だと思いつつ、頼りになることもまたしかり。タクトさんはまたどこかへ電話をし、短い問答の後、電話を切った。その姿は様になっていて、淡々と仕事をこなす大人みたいだった。
「オッケー。それじゃあ鍵を借りに行こうか。」
「…昨日みたいに引きずっていかないでくださいね。」
「あれはやらないよ。今日は逃げないでしょ?」
得意げに言われると、ますます恥ずかしさが募る。私がぐぬぬ…と何も言えずにうなっていると、タクトさんはひょいっと車いすに座った。
「それじゃあ、運転をお願いします。」
「…はい?」
早く早くとばかりに足をばたつかせるタクトさん。子どもみたいな言動が、どう見ても体の大きさにミスマッチだ。
「昨日は私を引っ張っていくくらい元気に歩いていたじゃないですか。なんで今日は車いすなんか…。それに、その車いす一応自走式ですよね。なんで私が運転しないといけないんですか?」
そんな私の発言を明らかに聞き流しながら、PHSと飲み物が入ったペットボトルを車いすのポケットに突っ込んだタクトさんはキョトンとしていた。
「昨日も言ったでしょ?車いすに乗ってるのは体力温存のためだって。また昨日みたいになったら嫌だし、あそこを使いたいならこうしろっていう院長命令なんだもん。」
「だもんって…。」
これは本当に年上の大学生なんだろうか。
それに、わざわざ院長から言われるということは、それこそ連れ出してはいけないくらい病状は芳しくないのではないだろうか。
やっぱり他人の力なんて借りるべきではなかったのだろうか?
そんなことをぐるぐる考えていたら、タクトさんはまた首をかしげて言ったのだ。
「何?練習したくないの?」
私はその言葉で、やけくそ気味に車いすの持ち手を掴んだ。
「行きましょう。時間の無駄です。」
「そうこなくっちゃー!」
とはいえ車いすを押すのなんて初めてだった。思いの外緊張したが、タクトさんは想像していたよりはるかに軽く、楽器を背負っている私にも簡単に動かすことが出来た。おそるおそる運転する私をにやにや見つめるタクトさんが気に食わなかったので、慣れてきてからはテキトーに車いすを運転してやった。到着後に文句が言われたのは言うまでもない。
でも、最後には「ありがとう」と言って、音符柄の包み紙の飴玉をくれた。
○ ○ ○
車いすの運転についてはブーブー文句を垂れたタクトさんだったが、礼拝堂の鍵は何も言わず開けてくれた。昨日は嫌な印象しかなかった独特のカビ臭さが、今日ばかりは私の思考を高揚へ導く。そう。私はたった一日でこの礼拝堂が気に入ってしまっていた。これではますますタクトさんの思うツボじゃないか、と思いつつ、肯定せざるを得ないこともまたしかり。それにこの礼拝堂に罪はない。むしろ、この礼拝堂を建ててくれた院長さんにお礼を言いたいくらいである。ここがなかったら、私は満足な練習をすることなんてできなかっただろう。とはいえ昨日のこともあり、今日も思うように練習できるかは微妙なところではある。また何か問題が起きない内に練習を始めてしまおう。
私はためらいなく礼拝堂を突っ切り、ステージに駆け上がった。必要なものを取り出し、空になった鞄はステージの下へ。楽器を取り出し、リードを咥える。そうしていると、タクトさんが昨日と同じように譜面台を組み立ててくれた。少し口うるさいことは玉に瑕だが、こういう時のタクトさんはいたって協力的だ。同じ吹奏楽部の仲間だとしても、私に干渉してくるような人はいないし、自分が練習するわけでもないのに手伝ったりしない。世間的にもそれが普通だと思う。それに、私なら仲良くなったルームメイト(という表現をおじいちゃんに使うことが適切かは微妙だが…)の知り合いだからといって、ここまで世話を焼くことはないだろう。するとしても、場所の提供だけしてほおっておくに違いない。
場所といえば、この礼拝堂のセキュリティーどうなっているのだろうか。電話一本で一介の患者がおいおい借りられるような施設だとは思えない。
いくつもの疑問が湧いてきて、私の心に影を作る。
このままでは素直な気持ちで練習に集中できる気がしない。
というか、悩むより聞いた方が早い。
譜面台を組み立て終わり、昨日と同じ長いすに座り直したタクトさんに声を掛けた。
「ここの礼拝堂って誰でも貸し切りにできるんですか?」
私が真っ先に練習するとばかり思っていたらしいタクトさんは、意外そうな顔をしていたが、すぐに質問に答えてくれた。
「そうだね。頼めば誰でもこの礼拝堂に出入りできるし、使えるよ。僕らがこうして貸し切りにできるのは、他に使う人がいないっていうこともあるけど。」
口に咥えていたリードをマウスピースにつけ、ストラップを首にかける。楽器本体を出し終えたケースはステージの端へ。さすがにこれをステージの下に落とすというわけにはいかない。楽器本体をかけると、首には金属の重み。自然と背筋が伸びる。
「でも鍵がかかってますよね。そしたらいつでも使うってわけにはいかないんじゃないですか?」
「するどいねぇ…。そうしたいのはやまやまらしいんだけど、防犯上の理由でこうせざるをえないみたい。他の病院みたいに病院内に礼拝堂が作られていたらそうする必要もないんだけど、ここは病院の敷地内にはあれど、誰でも出入りできる外にあるからね。」
そう言われれば納得できるような気がする。
しかし、それにしてもだ。
「タクトさん事情にやけに詳しいですね。」
「あ…やっぱり気になっちゃう?」
おどけた調子で言えば、私が嫌がって話題を変えるとでも思ったのだろうか。
何も言わずに凝視していると、タクトさんはやれやれという感じで視線を逸らした。そして視線が戻った時には、いたずらっ子みたいに笑っていた。
「えっと…。ここの院長が僕の叔父さんでね、その縁で入院させてもらってるの。だから普通の人よりもその辺の事情に詳しいし、融通も利くんだ。つまりはコネだよコネ。分かりやすいでしょ?」
今までの口調とはまた違い、嫌味を強調するような言い方だった。
私には、その皮肉が自分の境遇ではなく、タクトさん自身に向けられているような気がした。
「朝、昼、夕それぞれ食事前の時間に1回ずつ開くようにはなってるよ。でもその合間は閉まってる。その時間に使いたい時には事前に申請が必要なんだ。特に入院患者が使用するときには必ず付き添いをつけなきゃならない。僕にとってはカナデちゃんが付添い人ってわけ。過保護だよね。」
「昨日倒れた人が何を言ってるんですか。」
「…確かにね。」
タクトさんが苦笑いをする。
でも、意見は変わらないようだった。
「でも、お祈りくらい、1人でしたいじゃない。ある意味プライベートなことなんだし。」
「タクトさんは病人なんだからしょうがないじゃないですか。」
すぐさま反論してから、後悔した。
入院している本人が言うならまだしも、私なんかがタクトさんを病人呼ばわりしていいわけがない。小さな声で「ごめんなさい」と言うと、タクトさんはけろりとしていた。
「カナデちゃんは当たり前のことを言っただけなんだからそんな気にする必要はないでしょ?らしくないよ。」
タクトさんが私に気を使っていることは分かったので、さらに気まずくなる。
「というか…それならタクトさんが一緒に来なくてもよかったんじゃないですか?私一人でも、おじいちゃんとでも使えるってことですよね。」
「僕だって気分転換くらいしたいよ。別に練習の邪魔をするわけじゃないんだから、いいでしょ?」
「でも…。」
タクトさんはそんな私を見て、さらに困ったような顔をした。
「カナデちゃんくらいはそんなこと気にせず、自由にしてていいと思うけどな。存分に僕のこと、利用してくれていいのに。」
「突然なんですか…?」
疑問の表情を浮かべた私を見て、タクトさんは安心したように笑った。
「こんな細かいこと気にしてないでいいってこと。、やりたいことを他人に左右されるずに、全力でやっちゃっていいんじゃない?若い故の特権ってやつだよ。周りにあるもの全部利用して全部自分の糧にしちゃうの。少なくとも、僕から見たカナデちゃんの自由はそんなイメージ。」
他人に左右されたくない。
でもみんなでアンサンブルがしたい。
そんな矛盾は自分を苦しめるばかりで。
自分の理想と、他人の理想と、顧問の理想と、音楽の理想は違っていて。
自由にしていたら顧問や先輩に怒られて。
私はその理不尽さに怒っていて。
それなのに自由にしろと言われても、何が自由なのかさえよく分からない。
「自由って具体的には何ですか…?」
不機嫌が伝わるような口調になっていることは自覚したが、どうしても止められない。
いつもと言われることが違う。
何が正解で何が不正解なのか。
私は他人に翻弄されてばかりいる。
タクトさんはというと、腕を組みながら唸っていた。
「うーん。難しいな。自由は自由だから自由なのであって、自由の定義はないんじゃないかな。」
「じゃあなんで自由にしろなんて言ったんですか。」
「なんとなく。」
立てかけた楽譜から目をあげると、タクトさんが体育座りをしながら笑っている。
「無責任です。」
「僕からしたら、カナデちゃんは自由だから。それを大切にして欲しいって思ったの。」
そんなこと、改まって言われたことはない。
だって、わざわざ言うことじゃない。
大人に近づけば近づくほど、自由はなくなっていく。
好きで失っていくものなんてなくて、強制的にそぎ落とされていく。
連帯責任という重りで、動けなくなっていく。
これが大人になるってことなら、ずっと子どもでいたような。
指図され続けるくらいなら、さっさと大人になってしまいたいような。
そんな微妙な位置にいる。
『ここはこんな風に吹きなさい』
『先生はこんな風にするのが好きだからそういう風に』
『ひとりで突っ走らないで。みんなで合わせて』
『もっと周りを考えて』
ここ1年くらい、そんなことばかり言われてような気がする。
私が自由にしようとしたら、それを全力で邪魔されてきた気がする。
いや、実際はそうでなかったとしても、私はそう感じていた。
「今日のカナデちゃんは昨日以上に窮屈そうに見えるよ。いつもは他の楽器と合わせたりとか色々考えながら演奏しているのかも知れないけど、たまには頭を空っぽにして、自分のことだけ考えて、好きなように吹いてみればいいんじゃないかな?基礎も大切なんだろうけど、楽器って自分を表現するためのものでしょ。カナデちゃんらしく、その曲を吹いてみなよ。音楽ってそういうものじゃない?」
「…自由に……。」
もう一度楽譜を見る。
そこに並んでいる音符たち。
ここ数カ月、ずっと睨み合って、とっくに頭に入っている音符たち。
これを、自分の好きなように吹いていい?
「ほらほら。きっと楽しいよ。わくわくしてこない?」
自由そのものは分からない。
でも、自分のやりたい音楽はちゃんとある。
自分の中でくすぶっている。
外に出たいと私に訴え続けている。
それを、今、ここで、出してしまっていい?
タクトさんの一言でスイッチが入ったみたいに指先が震えた。
今までのように、何かに気を付けながら、他人に押し付けられた音楽を演奏しなくてはいけないという使命感が抜けた…とでも言うのだろうか?
リミッターが外れた、といった方が正しい気がする。
自由に、自由に、自由に――。
音楽のイメージがバカみたいに頭からあふれ出す。
楽器のネックと本体をつなぎ合わせたカチンという音に合わせて、楽譜に書き込まれた指示が消えたような気がした。
音だしもそこそこに、勢いのまま、頭の中のイメージを吐き出していく。
大きく息を吸い、サックスの小さいマウスピースへと息を注ぐ。
楽器から飛び出す音と脳内に流れる音がリンクして、私の興奮を煽ってくる。
夢中になってその感覚を追えば、自分の体と楽器がひとつになったような気さえしてきた。
少し間違えたって気にしない。
指が滑ったって気にしない。
誰も止めるものはいない。
これは、私の音楽だ!
私の曲だ!
私自身だ!
叫びそうになる感情を音に込める。
言葉の代わりに音を生み出す。
体をめぐるエネルギーはすべてこの音に変えてやる!
そうして吹き終える頃には、いつも以上に息が切れ、くたくたになっていた。
でも、とてもすっきりした気持ちになっていた。
放心したように呼吸だけを繰り返す私に、タクトさんが静かに拍手を送ってくれた。
「やっぱりカナデちゃんはそうでなくっちゃ。」
それが今まで受けたどんな拍手よりも小さいのに、誇らしさで目から涙がこぼれた。
―これが、私のやりたかった音楽だったんだ―
―音楽って、楽しいものだったんだ―
―私は、ここで、今を生きているんだ―
今更ながら、そんなことに気がついた。
アンコールを君に 蒼生真 @esm12341
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