第6話
壁の金具に、ゴーグルとマスクをひっかける。よく見ると、ゴーグルの遮光レンズには細かなひっかき傷が数えきれないほどたくさんついているし、マスクの方は、鼻を覆っていた部分が他より褪せた色をしている。これが、僕が今まで積み重ねてきた時間のあらわれなのだろう。部屋へ置いてきたポンチョにも、空っぽのメッセンジャーバッグにも、探してみればきっと、同じような跡が見つかるに違いない。だが、それを見つけてどう出来ようか。
地下足袋を履いて立ち上がり、被った帽子の位置を正す。つま先を床へとんとんと打ちつけて、地下足袋の中の足裏の位置を決める。しっかり床を踏みしめられることを確かめて、前へと踏み出す。扉の前に立ってノブを握り、耳を澄ませてみる。けれども、外は全く静かなもので、その静かさに僕は違和感を覚える。まだ町の人の大半がそうだろう。けれどもいずれ、これが普通になる。砂の降らない毎朝が当然のことになって、僕の覚える違和感は圧倒的少数になる。たぶん、間違いないことだった。どうしようもなく、間違いがないことだった。
ゆっくり、扉を押し開ける。青い空が見える。そこから降り注ぐ日差しが容赦なく照りつけている。まぶしさに目を細めるけれども、砂が目に入って痛むことはない。だから、こうして目の端からあふれてこぼれる涙は、砂のせいでなく流れるものなのだ。ああ、と息を吐きながら、必要最小限だけ開けた扉の隙間から、外へでる。清々しく澄んだ空気だ。通りに面した家々の窓はその多くが開け放たれていて、いくつかの向こうには白い布が揺れている。少なくとも、砂戸を閉めている窓は見当たらなかった。きっとこの景色も、あっという間に当然の、日常になるのだろう。涙はまだまだ溢れてくるけれども、僕は前へと踏み出していく。きっとみっともなく見えるだろうけれども、開きっぱなしで浅い呼吸をする口の中には、じゃりじゃりという砂の気配は微塵も感じられない。いっそ、笑いが出そうになる。
立ち止まってうつむいた僕の横を誰かが通り過ぎる。ガラスと鎖のこすれてぶつかる音がする。どこか聞き覚えのある音に振り向いて見ると、長い黒髪をなびかせながら、ひとりの女性が走っていく。どうやら、今さっき僕が出てきた建物を目指しているようだった。良かったなあ、イム。そう思うと、ようやく普通に口元が緩む。涙が止まる。振り向いた先を見上げれば、ひとつだけ砂戸の閉まった窓がある。いつまでその窓がそうしてあるかは、分からない。その隣の窓のカーテンが、風でとは思えないほど大きく揺れている。きっと彼女の姿を見てから慌てて部屋を出たのだろうと考えると、可笑しくて笑いが出た。自然と笑い声もあがった。けれど、扉が開いて彼女が招き入れられるのは見ていられない気がして、さっと、前を向く。
自分の影は僕の右手へ伸びている。影とは逆の方へ、太陽のある方へ歩いていけば東地区のはずだ。そういうやり方が毎日いつでも使えるようになったことは、便利で良いのかもしれない。僕はきっとこれから、街とは別な場所で、そうして学んだことを使っていくのだろう。
日差しが目をやかないように、帽子を深く被りなおしながら、僕は歩く。太陽のある方へ、街の東へと向かって歩く。今日はひと月に二度、東からのキャラバンがやってくる日なのだ。キャラバンはラクダを率いて、街から街へを移動する。広大な砂の海を、砂漠の平原を横切っていく。ときに、砂の合間にテントを張ったりもしながら。
日陰になった裏路地を抜けて、東地区の大通りへ出る。たくさんのラクダが居並んでいる。大勢の商人たちが、各々の荷をラクダから下ろして、店開きを準備している。もうだれも、派手な帽子を被ってはいない。キャラバンの先頭で全体を見回している、浅黒い肌の壮年の男性もそうだった。簡素な白いターバンで、頭部や頚部を覆っているだけだった。
「隊長」
彼へ声をかける。彼は僕を見て、片眉を跳ね上げながら目を見開いた後は、頷いて、顎でラクダたちの方を示した。
「来るか」
「ええ、行きます。僕もあなたたちと一緒に砂を歩きたい」
「それは……難儀な、選択だな」
彼の言葉は感心しているようにも呆れているようにも聞こえた。僕の被った大きな赤い帽子を一瞥して、眉根を寄せる。けれども何もいわずに、そばのラクダへ声をかけ始めるのだから、受け入れられたと考えて良いのだろう。果たして、どんな形になるのかは分からないけれども。
キャラバンは夕暮れに立つ。砂の降らなくなった街を後ろにして、砂漠へと発つ。今、僕は、それが死ぬほど待ち遠しい。
砂降りの街 ふじこ @fjikijf
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