第5話

 昨日閉めて寝た砂戸の隙間から朝日が射し込んでいる。それなのに、ひどく静かだ。

 ゆっくり布団から這い出して、窓辺へ立つ。やっぱり、外は静かなものだった。砂が窓を打つ、細かな音が聞こえてこない。不気味すぎる静けさに、昨日聞いた噂話が頭を過ぎる。――休日まで、後一日はあるはずなのに、こんなに静かであって良いはずがない。

 指先が震えているし、心臓の音がどくどくと耳元でうるさい。それでも、俺は窓をあけて確かめなければいけなかった。砂戸の外の空気は、果たして何色をしているのか?

 ガラスの窓を開けて、ゆっくりと、砂戸を持ち上げる。それから、木で出来た軽い砂戸を右へとずらしていけば、空から降り注ぐ眩しい陽光と、澄んだ空気とが、俺の目の前に姿を現す。砂が降ってくる音はどこからも聞こえなかったが、俺と同じように外の様子を見た街の人々のざわめきは、確かに聞こえてくる。困惑し、慌てふためいている人々の声が、聞こえてくる。休日まで、あと一日はあるはずなのだから、今日は砂が降っていて然るべき日なのだからと、みんな、訳が分からなくて空を見上げている。澄んだ空、青い空、塵一つ無い晴れた空。日射しがまっすぐに地面を照らすような、よく晴れた日。

 胸一杯に、明るく澄み渡った空気を吸い込む。それでもまだ、心臓の音はうるさいばかりだった。


「あ、ゆーびんやさん 」

 と、子供の声が言う。そちらを向けば、小さな女の子が僕の頭の上、赤い帽子を指さしていた。女の子のそばの母親らしき女性が、指さすんじゃありません、と諭している。けれども、女の子はやっぱり僕の赤い帽子を指さしたまんまだった。

 帽子を被っていない子どものきらきらとした目が、僕を見上げている。帽子の代わりに、母親と同じようにスカーフをぐるりと頭の周りへ巻いて、日除けにしているようだ。

「このあいだは、おてがみありがとう」

「どういたしまして。もう、返事は出した?」

「ううん、おへんじはいらないの」

 俺が尋ねると、この間キーファと名乗った少女はうれしそうに、自慢げに胸を張る。俺が目を瞬かせていると、少女は胸を張ったままで、口を開く。

「おとうさんは、うちへかえってくるの! もうすぐよ、だから、おてがみをかかなくてもいいの!」

 がつんと、頭を殴られたような衝撃があった。重たく脈打つ心臓を中心にして、体の芯がすうっと冷えていく。そうだ、これが正しい反応なのだろう。正しい――よくある、まっとうな、反応に違いないのだろう。だって、彼女の後ろへ立つ母親は、俺へ申し訳なさそうに視線を寄越しながらも、どこかうれしそうな面持ちで少女を見守っている。

「そっか、良かったね」と、少女へ伝える自分の声は、変に震えてはいなかっただろうか。俺の疑問への答えは、少女の「うん!」という元気の良い返事だった。少女の肌の赤いのは、何も日に焼けたせいではなく、心待ちにする楽しみのためなのだろうと思った。砂が降らなくなれば、それを理由に街の外へ出ていた人々は、大方が戻ってくるのだろう。きっと、大方の人はそれをよしとするのだろう。それで良いはずだった。それが良いはずだった。けれども、俺の胸には何か棘が刺さっているような、違和感と痛みがある。

「ねえ、ゆーびんやのおにーちゃん」

 少女が、俺を呼ぶ。改めてそちらを見れば、さきほどの笑顔からころりと表情を変え、不思議そうに首を傾げながら、少女が俺を見つめていた。俺と視線が合っているのではない。少女のまなざしは、俺の目よりも上、俺の頭の上へと向けられているようだった。

「おにーちゃんは、どうしてまだおおきいおぼうしをかぶってるの? ゴーグルをつけているの? あかいマスクをしているの?」

 ――少女が言うのは、僕のしている格好のことだった。確かに、同僚たちの帽子はもっと小さなものにすぐ変えられた。つばの広さは最小限になり、色は赤ではなくなった。日除けのポンチョとカバンで、すぐに俺たちの職業は分かるからということで。砂があればこそ、義務づけられていたマスクとゴーグルの着用義務も、なくなってしまえばみんなつけない。わざわざ視界を狭めたり、呼吸をしづらくしたりしようとする人は、そうそう居ない。少なくとも、俺の同僚たちの中では、元の通りの制服を着ているのは俺ただひとりだけだった。

 俺の他に着る人も居なくなった制服の、帽子を被り直す。つばがちゃんと前へ来るように調節しながら、赤い帽子を耳まで覆い隠すように引き下げる。

「さあ……どうしてだろうね」

 笑いながら首を傾げ、今の僕の正直な気持ちを少女に伝える。少女はまだ不思議そうに、俺へつられたように首を傾げていた。

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