もやもや

「ただいまー」


 玄関のドアを開けると、母親の部屋から音楽が流れているのが聴こえた。

というより、わりと大音量だった。例の『ROOSTER』のファーストアルバムだ。


「お母さん、帰ったよー。晩ご飯は?」


 こんこんと母親の部屋のドアをノックして、理穂子は大きめの声でドア越しに言った。


「冷蔵庫にそうめんがゆでてあるから、それ食べなさい」


 母親はそう言うと、聴こえるか聴こえないかぐらいの大きさでふんふん歌い始めた。こないだの話で、どうやらまたあの頃の音楽熱が再燃した様子だった。理穂子は台所に行き、冷蔵庫からラップのかぶせてあるシルバーのボールとめんつゆを取り出し、少し遅めの夕飯の準備を済ますと、かきこむように急いでそうめんを食べた。

 後片付けも済まし、自分の部屋に戻った理穂子は自分のギターを手に取った。そして、ポケットに入れていたメモを取り出すと目の前に置き、今日アンテナに教わった運指を思い出しながらぽろぽろとギターを弾き始めた。アンテナが簡単そうに弾いていた姿を自分に重ね、いつも自分が失敗していた場所を何回かチャレンジしてみた。


「あ、少し弾けたかも……!」


 多少ぎこちなくはあったが、途中で完全に止まっていた今までの演奏のことを考えれば、格段に進化したように感じた。理穂子の頬は自然と緩んていた。この調子でもっとスムーズに弾けるように――と思っていた矢先。メールの着信音が理穂子の集中力をとぎらせた。


『明日夕方五時からカラオケ行かない?』


 理穂子と同じ軽音部で同じクラスの飯田真美からだった。真美の夏休みもどうやら暇になってきたんだな、と理穂子はそう思い、ただ一言『オッケー』とだけ返信した。するとすぐに『S駅の改札集合でー』と真美から返信が来た。その駅は理穂子の家の最寄り駅から一駅しか離れていない、自転車でも十分行ける距離だったが、暑いし、定期もまだ切れていなかったので電車で行こうと理穂子は思った。


「カラオケ、久しぶりだなぁ」


 しばらくカラオケに行ってないから何を歌おう、とか考え始めると、もうギターに集中できなくなっていた。自分のギターをギタースタンドに置くと、スマートフォンに入っている曲をすみからすみまでチェックし始めた。


  *  *  *


 翌朝、理穂子が眠い目をこすりながら時計を見ると、すでに昼前だった。結局自分の携帯の音楽リストからは、今日のカラオケのレパートリーを見つけ出すことができなかった。というのも、入っていた楽曲はほとんどが洋楽、しかも男性ヴォーカリストのアルバムばかりだったからだ。確実に、母親の影響だった。理穂子は、半分諦め気分でギターを手に取り、ぽろぽろと寝ぼけ眼で練習を始めた。

 約束の時間が近づき、いつもギリギリで準備をするくせのある理穂子は大急ぎで駅に向かった。集合の約束をしていたS駅の改札にはすでに四人集まっていた。


「あ、理穂子来たー」


 真美が改札の向こうで手を振り、理穂子を誘導した。集まっていた面々は軽音部の三年生女子メンバー達だった。


「突然誘ってごめんね。最近軽音部の活動ないからさ、久々にみんなで集まりたかったんだよね。さ、いこいこ」


 真美はそう言ってその場を仕切ると、わいわいとおしゃべりをしながら、歩いてすぐのところにあるカラオケ店に入った。平日でお客さんも少ないらしく、五人で使うにはもったいないぐらいの大きな部屋に理穂子達は通された。


「広いねー。さ、歌おう歌おう!」


 引き続き真美がその場を仕切り、みんな好きなように曲を入れていった。理穂子はみんながどんどん曲を入れ歌っていく中、何を歌おうか迷うばかりで結局何も決められないままでいた。そんな理穂子に気づいた真美がすり寄ってきた。


「理穂子! 歌わないの?」

「うん、ってか、あんまり歌える曲がないことに気づいてしまった」

「そっか。ま、歌はみんなに歌ってもらうとして。理穂子さ、進路決まった? 最後まで石原先生と面談してたよね?」


 大音量で皆が歌う中、真美が理穂子の耳元で言った。


「ま、一応はね。結局進学するって感じになったみたい。真美は?」

「わたしも、ここにいるみんなも進学だよ。みんな大学行くんだって」

「やっぱりそうなんだ」


 理穂子は内心、みんなと同じで良かったとほっとした。夏休み直前まで石原先生に説得されたことも、まんざら無駄ではなかったと、少し思った。――と、いつもなら、そこまでだった。


「真美もみんなもさ、大学卒業したらやりたいことって決まってるの?」


 理穂子は、ふとそんな質問をしてみた。


「んー。みんなたぶん決めてないと思うよー。わたしもだけど。ってか、わたし達の周りにいなくない? 将来やりたいこと決まってる人とか」


 真美のその言葉を聞いて、理穂子の脳裏にアンテナの姿がよぎった。夢を追い長い年月をかけて現実と向き合いながらも、ひたすら自分の信念に従ってを音楽を続けている路上ミュージシャンのアンテナ。一方で、堅実に生きていくためだけに先生の示してくれた道を行こうとしている理穂子達。理穂子は、ぐるぐると答えの出ない将来という疑問に対して考えを巡らせた。――突然、立ち上がった。


「ごめん! 真美、用事あるの忘れてた! 先に帰るね!」

「えー? さっき入ったばっかりなのにー」

「ごめん! また次集まるとき誘って!」


 理穂子はそう言うと、千円札を一枚真美に託し、カラオケ店を飛び出した。



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