宵の明星

 息を切らせながら家に着いた理穂子は、ふーっと大きく息を吐き出した。靴を脱いで自分の部屋に入ると、むわっとした熱気が迎えてくれた。お母さんはまだ帰ってきてないみたい。クーラーのスイッチを入れると、どかっとベットにうずまった。明日から待ちに待った夏休みだというのに気が落ち着かない理穂子は、ベッドに横たわったままスマートフォンに入れていた曲を流した。

 『ROOSTER』というずいぶん前に解散したUKロックバンドのデビューアルバム。最近の理穂子のお気に入りだった。学校の軽音部では結局演奏することはできなかったのだが、エレキギターを担当していた理穂子はひそかに練習をしていた。しかし、一向に上達する気配もなく、最近はその練習もまばらになっていた。

 目をつむって曲を聴いていた理穂子は、進路について改めて考えた。今までは特にこれといって大きな決断を迫られるような出来事もなく平凡に生きてきた理穂子にとって、高校を卒業し、もう少し学生を続けるのか、それとも社会人として働くのかを選択することはとても大きなことだった。

 自分は将来何になりたいのか。

 今までそんなことを考えたことがないことにふと気づいた理穂子は、焦りと不安と苛立ちが入り混じったような不快感に襲われた。


「あーもう」


 そう吐き捨ててごろっと寝返りをうつと、しばらく触れてもいない自分のエレキギターが目に入った。


「あの人はどういう進路を選んで、あそこで歌ってたのかなぁ」


 ふと学校帰りに見かけた路上ミュージシャンのことを思い出した理穂子は、そんなことをぽつりと思いながら、一向に答えの見つからない自分の進路についてまた考えを巡らせていた。


  *  *  *


「理穂子ー。悪いんだけど、今からお母さんのクリーニング取りに行って来てくれない? ついでに理穂子の制服もクリーニング出してきていいから」


 翌朝、理穂子は母親の扉越しに呼ぶ声で目を覚ました。


「夕方でも良いー?」


 時計を見やると十時を少し過ぎたあたりだった。夏休み初日は自分の部屋から出ずにごろごろしようと思っていた。そのことを伝えると、今すぐにでも外へと追いやらせそうな気がした理穂子は、とっさにそう答えた。


「夕方でも良いけど、忘れないようにしてよー」

「わかったー」

「そうそう、いつものクリーニング屋じゃなくて、南口に新しくできた店だから。地図、メールで送っとくから」

「わかったー」


 どうやらあっさりと交渉成立。これは譲歩という名の、わたしの勝ちなのだ。そう自分に言い聞かせた理穂子は、勝利の余韻にひたりながら再びベッドに沈み込んだ。


  *  *  *


 再び理穂子が目を覚ますと、すでに真夏の太陽は西日になろうとしていた。


「もうこんな時間? やばっ!」


 理穂子はあわあわと外出する準備を始めた。急いでいたのと少し寝ぼけていたのとで、いつものように制服を着てしまっていたことに気づいたのは家を出た後だった。


「もー、今日学校じゃないじゃん。なんだっけ……。そうだ、お母さんのクリーニング」


 そんなことをぶつぶつつぶやきながら、そういえばこの着ている制服もクリーニングに出すんだった、ということに理穂子は気づいた。自分の制服はまたにしよう、そう思いながらクリーニング屋のある駅の南口へと向かった。階段を降りきると、昨日と同じ場所からアコースティックギターの音と歌声が聴こえてきた。理穂子は少し気にはなったが、今日はせっかくゆっくりできるはずの夏休み初日だし、さっさと母親からのおつかいを終わらせて帰ろうと、母親が送ってきた添付画像の地図を見ながらクリーニング屋へと足早に向かった。


  *  *  *


 紙袋にして二袋。こんな暑い時期になぜこんな量のクリーニングを出す必要があるのか理穂子にはまったく理解できなかったが、帰ったら絶対に母親にお小遣いをせびろう、そう固く心に決め、紙袋のビニール紐を強くにぎった。

 再び南口の階段の前まで来ると、やっぱりまだあの路上ミュージシャンがいるようだった。足早に帰るつもりだった理穂子の耳は、聴き覚えの曲をキャッチした。


「『COME GET SOME』だ!」


 聴こえてきた曲は、理穂子のお気に入りのバンド『ROOSTER』の代表曲だった。特にこの曲には想い入れがあった。そう、ずっと練習していて、ついには挫折した曲だったのだ。

 両手に重たい荷物を持っていることも忘れ、理穂子はその路上ミュージシャンがいるであろう公園とも呼べない、小さな公園に向かっていた。

 昨日と同じく、今日も誰一人として足を止めて聴く人はいなかった。理穂子を除いて。それは昨日と同じ。唯一昨日と違うのは、今日の理穂子は興味本位で聴いているのではなくその曲が聴きたくて聴いている、ということであった。

 何度も繰り返し聴いたオリジナルの音源と、その路上ミュージシャンが弾き語りしているのとを無意識に比較しながら、あ、あそこのアレンジがちょっと違う、とか、イントロのフレーズは本物とほとんど一緒だ、とか、ちょっとした評論家になった気分で理穂子は真剣に聴いていた。そして、ラストのフレーズで思わず体がリズムに乗ってしまい、曲がぴたっと終わった瞬間にその路上ミュージシャンと目が合ってしまった。


「聴いてくれてありがとう」


 路上ミュージシャンは満面の笑みでそう言った。理穂子は慌てて拍手しようとしたが、両手には季節はずれの大量にクリーニングされた衣類の詰まった紙袋があることをすっかり忘れていた。ちゃんと拍手をしたかったのだが、両手を重ねるのが精一杯でなんだかゴマをするような奇妙な格好になってしまい、理穂子は恥ずかしさでいっぱいになった。


「それ、重そうだね。良かったらそこのベンチに置きなよ」

「あ……えっと、すみません」


 理穂子は拍手を妨げた重い荷物をベンチに降ろすと、改めて小さく拍手をした。


「さっきの曲って、『COME GET SOME』ですよね? 『ROOSTER』の」


 理穂子は紙袋を離した手をぷらぷらさせながらその路上ミュージシャンと目を合わせないように言った。


「そうだよ! 知ってるの?」

「はい。この曲は練習してたんで」

「へぇー! それじゃ、キミも音楽やってるんだ。かなり前に解散したバンドなんだけど、このバンドのヴォーカルと同い年でね、僕は。別にそれがどうっていうわけじゃないんだけど、すごい好きでたまにこうやってカヴァーしてるんだ」


 同い年!

 理穂子はその単語に強く反応した。なぜなら『ROOSTER』のヴォーカルが自分の母親と同い年だということを知っていたからだ。つまり、目の前にいるこの人、観客が一人もいない小さな公園でアコースティックギターを弾きながらさっきまで歌っていたこの路上ミュージシャンが、自分の母親と同い年だということなのである。目深にかぶったテンガロンハットで顔がよく見えないせいがあるかもしれないが、それを抜きにしても、とてもその路上ミュージシャンは母親と同い年には見えなかった。


「年齢より、若く見えますね」


 理穂子は思わず口に出してしまった。


「ははは……。なんとなく年わかっちゃった? まぁ、『ROOSTER』知ってるくらいだからわかるよね。でもキミ、高校生でしょ? よく知ってたね。世代的にはこのバンド、キミのお母さんぐらいなんだけど」


 はい。

 だからあなたとわたしのお母さんは同い年なんですって。と、さすがの理穂子もそれは口には出さなかった。


「うちのお母さんが若い頃好きだったみたいで、家にアルバムがあるんです。それで聴いてわたしもはまっちゃって。わたしもギターやってるんですけど、この曲のイントロのリフ、難しいですよね!」

「難しかったよー。イントロのリフだけでちゃんと弾けるようになるまで三ヵ月かかったもんなぁ……。あ、コレ秘密ね」


 テンガロンハットの奥でにっと笑いながら路上ミュージシャンはそう答えると、口元に人差し指を当てた。三ヶ月も……? 一ヶ月ぐらいで弾けないと挫折してしまった理穂子は、はっとした。もし自分も三ヶ月練習したら……? なんだか少しだけ、胸が高鳴った気がした。


「本当はバンドでやりたいんだけどね。今は一人だから、こうして路上で歌ってるわけ。でもキミみたいな若い子が『ROOSTER』好きだっていうのが、なんか嬉しいね! ぜひギターがんばって!」


 路上ミュージシャンはそう言って『COME GET SOME』のイントロのギターリフをワンフレーズ、アコースティックギターで簡単そうに弾くと、にっと笑った。

 完璧だ!


「ありがとうございます! あ、えっと」

「そう言えば自己紹介がまだだったね。僕はアンテナ。もちろん本名じゃないけど。この名前で活動してるよ」

「あ、はい! アンテナさんはいつもここで弾き語りしてるんですか?」

「明日は日曜日だからいないけど、それ以外の曜日はほぼ毎日いるよ。また良かったら聴きに来てね」

「わかりました! ありがとうございます!」


 理穂子はそう言うと、いそいそと帰ろうとした。


「あ! キミ、荷物荷物」


 アンテナにそう言われて、理穂子はやっと、今日南口に来た本当の目的を思い出した。


「あ、すみません! ありがとうございます!」


 理穂子はそう言ってベンチに置いていた、やたらと重たい紙袋を再び両手に取り、ちょこちょこと細かく首だけで会釈をしながら駅の階段へと小走りで向かった。

 高校生最後の夏休み初日。薄暗くなった西の空に、宵の明星が一等まぶしく輝いていた。



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