練習再開
「ただいまー。お母さん、クリーニング持って帰ったよ」
「理穂子おかえりー。お母さんの部屋に置いといてー。晩ご飯もうすぐできるから、もうこっちいらっしゃい」
「わかったー」
帰宅した理穂子は母親に言われるまま、はち切れそうな紙袋を母親の部屋の入口にどさっと置いた。両手にはくっきりと紐の痕が残っていて、赤くなっていた。一日の大半を睡眠で過ごし、朝も昼も食べないまま重労働をこなした理穂子のお腹はすでに悲鳴をあげており、駆け込むように台所へ向かった。
「もうご飯できるー? もうぺこぺこ」
台所に入った理穂子はさっさとイスに座り、晩ご飯を催促した。
「あら、理穂子? どうして制服なの? もう夏休みでしょ」
「あ、忘れてた」
母親の指摘を受けて、理穂子は休みにも関わらず、いつものように制服を着てしまっていたことをすっかり忘れていた。
「高校生活最後の夏休みだからってずっと制服で過ごすつもりじゃないでしょうね? 夏休み中にクリーニング出しときなさいよ」
「今日はたまたま。明日またクリーニング屋行って来る」
理穂子は特に何も考えず、適当に返事をした。今はそれどころではない。
とにかく、理穂子の胃は猛烈な勢いで晩ご飯を要求していた。
「そういえばね、お母さん。駅の南口に弾き語りしてる人いるの知ってる?」
出来上がったばかりのカレーを何口かかきこむようにようにして食べ、ある程度我が胃の叫びに応えた理穂子は、小さな公園の路上ミュージシャン『アンテナ』のことを話題に出した。
「南口? さぁ? お母さんがクリーニング出しに行った時は気づかなかったけど」
「南口の階段のとこに小さい公園みたいなのあるのわかる? あそこでさ、『COME GET SOME』のカヴァーしてる人がいたんだよ! びっくりじゃない?」
「うそー! 『ROOSTER』の?」
カレーを食べていた母親のスプーンが止まり、今まで理穂子が見たことのないくらいほど目を見開き、理穂子の方をぐっと見つめた。
「そう! しかもね、その人、お母さんと同い年だったよ」
「同い年? 確かに『ROOSTER』は当時の洋楽好きでも割と知ってる人少なかったし、すぐ解散しちゃったから、他の世代の人はあんまり知らないと思うけど……」
母親はそう言って何かを思い出すようにスプーンを人差指と親指でくるくると回した。
「で、どうだったの? 歌は上手だった?」
「うーん。ギターばっかり聴いてたから、歌はあんまり覚えてないや。でも、下手じゃなかったと思うよ」
「まぁ、理穂子はギタリストだもんねぇ。でも上手くても下手でも、ニックのようなセクシーな歌声は、日本人じゃ出せないでしょうけどねぇ」
そう言うと母親はとても懐かしそうな、それ以上にどこか寂しげな表情をちらりとこぼし、カレーを再び食べ始めた。理穂子は、自分の母親の口から『セクシー』という単語を聞くとは思わなかった。よくよく考えると、会話自体久しぶりであることに気がついた。高校三年生になってから、ことあるごとに進路の話になり、そのことに嫌気が差していた理穂子は、母親との会話を極力避けていたのだった。久しぶりに、母親とたわいもない話ができたことが、少しだけ嬉しかった。
* * *
本日最初で最後の食事を終えた理穂子は部屋に戻った。ベッドにどさっと横になった理穂子の視界に水色のエレキギターが飛び込んできた。
「明日は久しぶりにギター練習してみようかな」
ついさっき、明日はクリーニング屋に行ってくると言っていたことをすっかり忘れていた理穂子は、自分のギターをなでながらつぶやいた。自分より年寄りの古いエレキギター。でも古さを感じさせない淡い水色のボディがすごく気に入っていて、軽音部に入った時、その水色のギターが欲しいと母親に頼んだのだった。新しいギターが欲しいとは言わなかった。その時の母の複雑そうな表情を理穂子は忘れることはなかった。なんとなく、顔すらも見たことのない自分の父親に関係するもののような気がした。だからといって、特別に手入れするわけでもなく、現にここ数日は触れてもいない。理穂子としては、ギターがあったから軽音部に入ったのではなく、軽音部に入ったからギターが必要になった。ただそれだけのことだと思っていた。
――そんなことより。挫折したギターリフに再挑戦。そう固く決意しながら、理穂子の高校生活最後の夏休みが始まった。
* * * * *
理穂子は自分でも驚くくらいギターの練習に没頭していた。気づけば夏休みも三日目になっていた。『ROOSTER』の代表曲『COME GET SOME』のイントロ部分。このたった数秒のギターリフだけをひたすら繰り返し練習していたのだ。しかし、どうしても毎回同じところでつまづいてしまっていて、再びさじを投げようかと思い始めた時、ふとあの路上ミュージシャン『アンテナ』のことが頭をよぎった。
「そうだ! コツを教えてもらおう」
理穂子はそう決心すると、紙とボールペン、ついでにすっかり忘れていたクリーニングに出す制服を紙袋に詰めて家を出た。
この日も暑かった。もうすでに陽は傾きつつあったが、日中照らされ続けたコンクリートは、まるでそれ自体が熱を放っているようだった。自分の制服をさっさとクリーニングに出し終え、南口の例の小さな公園に理穂子は向かった。
公園に着くと、大きな革製のテンガロンハットがひょこひょこと見え隠れしていた。どうやらアンテナはまだ着いたばかりで、黙々と準備をしている様子だった。
「こんにちは、アンテナさん」
理穂子はアコースティックギターの入ったハードケースをごそごそしているアンテナの後姿に話しかけた。
「あぁ、キミか。また聴きに来てくれたんだね」
アンテナは振り返りざまにそう言うと、にこっと笑った。
「アンテナさん、今日はちょっとお願いというかなんというか……。あの、またちょっとギターの練習をやり始めて。それでちょっと教えて欲しいんですけど……、ダメですか?」
アンテナの路上パフォーマンスがまだ始まっていなかったので、理穂子は思い切って頼んでみた。
「もしかして『COME GET SOME』のことかな? もちろん良いよ! 僕のレクチャーで良ければね」
アンテナは笑顔のままそう言うと、ギターに装着したストラップを肩にかけ、響きの美しいコードをジャーンと静かに一回鳴らした。
「よし。えっと、そういえばキミの名前は?」
「あ、すみません。安生です。安生理穂子って言います」
「そう……。理穂子ちゃんね。改めてよろしく! それじゃ、早速このイントロ部分なんだけど…」
アンテナはそう言って一通りイントロを弾いてみせた。メモを取りながら真剣に聴く理穂子に対し、今度は小節ごとにゆっくり弾いてみせ、ところどころにちりばめられているテクニックについて詳しく説明したりして丁寧にレクチャーした。その間、その公園に訪れる者は一人もいなかった。じりじりと照らす太陽だけが、二人を見つめていた。
* * *
すっかりあたりは暗くなり、沈んでいった夕陽の代わりに小さな外灯が二人を照らし出していた。
「ありがとうございます! だいぶ分かってきました! わたしの運指のままだったら、たぶんずっと弾けなかった気がします……。やっぱり聞いて良かったー!」
理穂子は今まで弾けなかったところのもやもやがようやく解決したようだった。まだ実際に自分のギターで弾いてみたわけではないのだが、すっかり弾けるような気分になっていた。
「楽譜だけじゃ運指までは分からないからね。あとはゆっくりしたテンポで始めて、徐々にテンポアップしていけば、すぐに弾けるようになるよ」
アンテナも、解決してすっきりした笑顔を見せた理穂子を見て満足気だった。
「あ、でもごめんなさい。結局今日は音楽活動の邪魔しちゃいましたね……」
「いや、気にしなくても良いよ。お客さんも見ての通り、だし。ははは。それよりも今日は理穂子ちゃんの役に立てたから嬉しいよ」
アンテナはそう言うと、笑顔の後に一瞬だけ、少し寂しそうな表情をこぼした。
理穂子はその一瞬の表情を見逃さなかった。そしてふと、一番最初にアンテナを見た時、気になったことを聞いてみようと思った。
「ところでアンテナさんは、なんで路上ミュージシャンをやろうと思ったんですか?」
アンテナの時間が一瞬だけ、止まったようだった。すぐにその時間は動き始めたのだが、少し考え込んでいる様子だった。
「うーん。なんでだろうね。音楽をやり始めた頃は、それこそ有名になってテレビに出たりして、CDがミリオンセラーになって、印税で食っていきたいって思ってたんだよね。ところが、音楽をやっていくのって、何かとお金はかかるし、かと言ってこれといってまとまった収入があるわけでもないんだよね。だから、アルバイトしながら音楽活動続けてきたんだけど、次第に同世代の仲間達もどんどん音楽から離れていって。気づけば一人、みたいな状態になってたんだよね。でもほら、再来年、東京オリンピックあるでしょ? 実はその開催が決まった年に、絶対東京オリンピックの開催中に大きな会場で歌うんだって、決心したんだよね。当時そのことを周りに言っても、真剣に応援してくれる人は誰もいなかったんだ。だからこそ、絶対やってやるって、そう思ったんだ。絶対見返してやる、ってね」
アンテナはそこまで話すと、理穂子に笑顔を向けた。
「そうなんですか……」
理穂子の周りには、アンテナのような人間はいなかった。 将来何になるんだ、とか目標があって今がんばっているんだ、と言っているような人。理穂子にとっては、アンテナの話がまるでおとぎ話とかファンタジーの世界の話のように思えた。良い大学に進学するだの、就職はどこが良いだの、それらの理穂子が今直面している現実の世界。そんな世界に比べて、アンテナの生きている世界がなんだかまぶしく思えた。
「でも、いつぐらいからかなぁ。そんな見返してやる、とか、スターになる、とか、そういった想いがだんだん薄れてきてね。気づけば、なんのために音楽をやっているのか、そんなことばかり考えるようになったんだ。もう僕もいい歳だからね。真剣に自分の未来と、今やっていることのギャップに向き合うことにしたんだ。で、冷静に自分の能力と今世間で活躍しているミュージシャン達を比較してみて、自分はあっちの世界にはいけない、そう感じてしまったんだ」
アンテナはそう言うと、ぐいっとテンガロンハットを引っ張り、軽くギターを鳴らした。
「でも、今アンテナさんはここで歌ってますよね? 諦めたわけではないんですよね?」
理穂子は突然訴えるように言った。夢とか目標とかを追いかけるキラキラした人。アンテナのことを、自分の周りにいない種類の、光り輝く特別な人なんだと思った。なのに、その光を覆い隠そうとする厚い雲のような彼自身の発言。そんな現実という名の黒雲を追い払ってしまいたい気持ちになっていた。
「うーん。ある意味では諦めた、とも言えるね。ただ、ご覧のとおり、僕はここで歌ってる。周りから見れば、僕は夢に向かってがんばっている、そんな人に見えるんだろうね。人が何か見たり聞いたりする時、それをどう判断しどう感じるかはすべてその受け取った人に委ねられているんだ」
アンテナは、ぽろぽろと手癖のようにギターを鳴らしながら言った。
「だから、同じものを大勢の人が認識する時、その価値は人それぞれだということ。ある人にとってはダイヤモンドのように感じられるものが、ある人にとってはただの石ころと同じように感じるっていうこともあるわけだね。僕の存在も恐らくそうなんだろうから、僕はただ歌い続けて、それをどう受け取ってもらえるかは、僕の歌を聴いてくれた人自身に委ねよう、そう思うようになったんだ」
理穂子はそう話したアンテナの言葉がいまいち理解できなかった。
諦めた? けど、やり続ける?
歌を聴いてくれる人にどう感じるかを委ねて、歌っている本人は何の得があるんだろうか――。いろんなことが、理穂子の頭の中をぐるぐると巡っていた。
「どう? なんか一方的に話しちゃったけど、僕が路上ミュージシャンをやってる理由、分かったかな?」
理穂子の少し当惑した表情に気づいたアンテナはそう言った。
「あ……えっと、なんとなくわかった気がします」
理穂子はよく理解していないのを悟られないよう、無理やり笑顔を出してそう言った。
「そっか。それなら良かった。まぁ、僕はまた日曜日以外の夕方はここで歌っているから、また聴きにおいでよ。今日は遅くなったからここまでだね」
アンテナはそう言いながら自分の腕時計をちらりと目をやるとギターを降ろし、ハードケースにしまい始めた。そう言われて理穂子も自分の腕時計をのぞいて見ると、あと数分で二十時になろうかという時間になっていた。
「ごめんね、遅くなって。それじゃ、ギターの練習がんばって!」
片付けをしながらアンテナは、理穂子に向かってそう言うと手を軽く振った。
「今日はありがとうございました! また来ます!」
理穂子はそう言いながらアンテナに向かって深々と一礼をし、足早に南口の階段の奥へと消えていった。
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