本当の夢

 理穂子の頭の中は、混乱に近い状態だった。自分ではどうしていいかわからず、とにかく何か自分を納得させてくれるものが欲しかった。息を切らしながら理穂子が半分無意識に向かったのは、あの小さな公園、アンテナが路上パフォーマンスをしている場所だった。


  *  *  *


 十八時過ぎ、まだ辺りは明るかったが、帰路に向かうサラリーマン達で駅は混雑していた。数人の人にぶつかり、舌打ちをされた。理穂子は小さく「すみません」とだけつぶやいて急いで南口の階段を降りた。あの小さな公園に目をやると、ギターを肩にかけた状態で誰かに小さく手を振っているアンテナの後姿が見えた。すでにその相手は確認することができないところまで行ってしまっていたようだが、理穂子にとってそれは興味の対象にはならなかった。


「アンテナさん!」


 理穂子が肩で息をしながら突然、大きな声でアンテナの後姿に話しかけたので、アンテナはぎょっとして振り向いた。


「ど、どうしたの? 理穂子ちゃん? 何かあった?」


 アンテナは、突然話しかけられた驚きをわざと全面に出すように、さっき見送った人の向かった先をさえぎるように理穂子に言った。


「いきなり……、すみません! ちょっとだけ、お話聞いてもらって良いですか?」

「う、うん。大丈夫だけど、何かな?」


 息を切らし、何かただならぬ気配を感じさせる理穂子に、アンテナは少々戸惑った。理穂子はどうにか呼吸を落ち着かせ、小声でえっと、えっとと言いながら、どうやら自分なりに考えをまとめている様子だったが、結局まとまらないから半分やけくそにも近い勢いでアンテナに向かって言った。


「アンテナさん、わたしどうしたらいいでしょうか? 自分のやりたいことがみつからないんです……。わからないんです!」


 理穂子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。アンテナは理穂子をじっと見つめ、しばらく目を閉じ、何かを考え始めた。いつもの手癖のようなギターフレーズをぽろぽろと奏でると、ゆっくりと目を開けて理穂子に向かって語り始めた。


「理穂子ちゃん、それは難しい問題だよね。正直言うと、僕自身もまだ自分がこれからどういう役割を担う人間になるのかわかっていないから、今から言うことはまだ発展途中の人間の言うことだ、ということを念頭に置いて聞いてもらえるかな?」

「はい……。お願いします」


 理穂子は内心アンテナの言ったことがどういうことなのか、いまいち理解はできなかったのだが、ワラにもすがる思いだったのでとにかくすべて従おうと思った。


「よし。今理穂子ちゃんはこれからの進路について悩んでるんだね?」

「そうです」

「大学に進学するか、就職するかは決めたのかな?」

「はい。一応夏休み前に先生と話し合って、進学するという方向にはなりました」

「それはどうして進学する、ということになったの? もっと勉強したいから?」

「いえ……、先生に今やりたい仕事が特に決まっていないなら、とりあえず大学に行って考えた方が後々良い就職先もみつかるだろうと言われて……、進学することに決めました」

「なるほど。じゃあその先生が言う『良い就職先』って何かな?」

「え? それはやっぱり有名な会社とか、お給料とか……」


 理穂子は今まで『良い就職先』とは何か考えたことがなかった。漠然と、みんなが知っている会社とかがそうなんだろうというぐらいの認識だった。有名な会社なら、お給料もそれなりに良いんだろうし、生活していくには困らないはずだ。お金は誰だって欲しい。やっぱり最終的には――。


「つまり、たくさんお給料がもらえるところが『良い就職先』ってことかな?」

「……はい。そう思ってましたし、みんなそう思ってると思います」


 お金。それは誰もが望むモノ。間違いはないはずだと、理穂子は思った。


「確かに、お金は大事だよね。じゃあここでちょっと、想像してみよう」


 アンテナはそう言うと、目をつむるアクションをして、再び目を開けると理穂子に向けてテンガロンハットの奥からウインクしてみせた。理穂子は、促されるままに、ゆっくり目を閉じた。


「そうだね、今から十年後を想像してみて。とりあえず大学を四年間通ったキミは、その間に『良い就職先』がみつかって、無事その会社に就職が決まりました。そこから六年間まじめに働いて、生活には何不自由ありません」


 そこまではぼんやりと想像できた。リクルートスーツを着て、同僚と上司の愚痴を言いながらもおいしいものを食べたり、ショッピングに行ったりする姿。


「さあ、ここからだ。この十年後のキミは、さらにその先の十年をどう過ごしたいと考えているかな?」


 理穂子は言われた通りに想像してみた。十年後の自分。今のまま、世間一般的に『良い』とされている道を歩いた先の自分を。――しばらくして、ゆっくりと目を開けた理穂子は困惑した表情で言った。


「……わかりません。全然想像できませんでした……」


 アンテナはその理穂子の言葉を聞くと、柔らかい笑顔を見せた。


「理穂子ちゃん、それが答えなんじゃないかな?」

「え……?」


 理穂子にはアンテナの言った意味がよくわからなかった。


「全然想像できない……っていうことが答えっていうことですか?」


 それじゃあ、答えになってないじゃない。明確にこれ、というのが答えだと考えている理穂子は納得がいかなかった。


「そういうことになるかな。これは、僕が理穂子ちゃんに言わせた言葉じゃない。理穂子ちゃん自身が考え、想像して出した自分自身の答えだよ。もちろん、未来に何が起こるのかは完璧に予測できるわけじゃないし、思い通りにいくことの方が少ない。だけどね、目的地を決めて、地図を持って歩き出さないとどこへもたどり着けないと思うんだよね。人生は、待っていれば何かが次々と与えられるということはほとんどないんだ。自分から動かなきゃ、棒にも当たらない。僕は今アルバイトしながらこうやって誰が聴いてくれるわけでもなく、ただ自分のやりたいようにやっている。でも、こうやって理穂子ちゃんに出逢うことができた。僕は、音楽が導いてくれるこういう出逢いが本当に好きなんだ。どんな良い家に住んで、かっこいい車に乗って、おいしいものを食べることよりも、ね」


 そう言ってアンテナはまたぽろぽろと手癖のようにフレーズを弾いた。


「人それぞれ価値観は違う。人からどう思われようとも、今の僕は幸せだよ。だから、理穂子ちゃんも、他人が示してくれる道に従うんじゃなくて、本当に自分が望んでいることに向かって歩んで欲しいと思う。もし、自分が何を望んでいるのかわからないのであれば――、子どもの頃の夢を思い出してみると良いんじゃないかな。子どもの頃望んでいたことというのは、まだ何の縛りもない、本当に自分自身が望んでいたことのはずだから」


 理穂子はそのアンテナの言葉を聞いて、よく思い出してみた。

 ――自分が小さい頃持っていた夢。なんだったっけ。

 ――そういえば、小学校にあがる前に、一枚の絵を描いたっけ。小さな自分の左手にお母さん。右手に……、お父さん。

 ――そんな絵を描いて、お母さんに、「なんでうちにはお母さんしかいないの?お父さんはどこにいるの」って言ってお母さんを困らせたことがあったっけ。

 お母さんの困った顔を見たくないから、自然とそのことについては触れないようになっていた。それが当たり前、そう自分に言い聞かせていたことを思い出した。同時に、その頃の夢を思い出した。

 理穂子の頬には、一筋の涙が伝っていた。


「ありがとう……ございます、アンテナさん。大事なことをずっと忘れていた気がします。本当に自分が望んでいたこと、やっと思い出しました」

 

 理穂子は力強く言った。自分が涙を流していることには気づいていなかった。それよりも、自分の中の何かを見つられたことが嬉しくて仕方なかった。


「うん。それなら良かったよ」

「これからどうするか、ゆっくり考えようと思います」

「そうだね。でも、せっかく高校生活最後の夏休みなんだから、友達ともしっかり遊んだ方が良いよ。もう二度と、訪れない時間を思いっきり楽しむことも必要だからね! 学生時代の友達は、学生時代にしか作れないんだから。当たり前だけど」


 アンテナは自分の言った冗談がツボにはまったのか、ぬふふっと変な笑い方をした。


「自分から心を開いて、ぶつかり合って、本物の友情を作ることも大切だと思うよ。とにかく、最後の高校生活、悔いのないようにね」


 アンテナはそう言うと、にっと微笑んで理穂子をじっと見つめた。


「本当に、ありがとうございます! あ、最後に一つ変なこと聞いてもいいですか?」

「なんだい?」

「アンテナさんは、結婚してますか?」


 理穂子はなぜ突然そんな質問が口から出たか、よくわからなかった。なんとなく言ったあと気恥ずかしくなって、変な汗が出てきた。


「ははは。僕はまがりなりにもアーティストだからね。その質問には黙秘権を行使させてもらうよ」


 アンテナはその質問を聞いて、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。


「そうですよね。変な質問してごめんなさい!」

「――そうだね。理穂子ちゃんが高校卒業して、まだ僕のことを忘れずにまた聴きに来てくれたなら、その時はちゃんと答えてあげるよ。なんか、もったいぶるようでごめんね」


 アンテナはそう言うと、今度は満面の笑みを見せた。


「絶対に忘れませんよ! 絶対、卒業してからも聴きに来ます! 今日は本当にありがとうございました!」


 理穂子はそう言って深く深く何度も礼すると、顔を真っ赤にしながら逃げるように小さな公園を後にした。理穂子の心は、すこぶる晴れやかで高揚感に満ちていた。そして、早く家に帰ってやりたいことがあった。


  *  *  *


 息を切らし、玄関のドアを開けた理穂子は、靴も並べずに家の中へどたどたと駆け上がった。夕飯の仕度をしている母親の後姿を発見すると、息を切らしながら言った。


「お母さん、ちょっと良い?」

「なによ、理穂子。なんか良いことでもあったの?」


 ハァハァと、息も乱れ、心臓も早鐘を打っていた。なんとか深呼吸をしようとそこら中の酸素をかき集めるように空気を吸って、母親に顔を向けた。


「お父さんのこと、聞きたいんだけど――」


 理穂子、高校生活最後の夏休み。はたから見れば小さな勇気かもしれないが、理穂子にとっての大きな一歩を踏み出した瞬間だった。




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