投書 Ⅲ ファイルタイトル 『そして誰かが居た』 PN:Red Herring
「もうっ!この子はなんなんですかっ!さっきから、器用に寝ながら私をソファから落としてっ!しかも、微睡みかけたタイミングで何度もっ!何度もっ!」
いい加減、覚醒をしてしまったヴェラが幸せそうなレイチェルの寝顔に向けて激高している。
「はっ、開店!」
エマはそんなヴェラの怒鳴り声でようやく目を覚まし、進めていた開店作業が夢の中での出来事である事実を知って戦慄した。
咄嗟に置時計を見る……今朝、ぜんまいを巻いていない時計は朝の7時58分で止まってしまっていた。
ますます焦ったエマは、急いで店のドアを開けた。
すると、
リンゴーンッ リンゴーンッ
教会の鐘が遠くで鳴っている音が聞こえて来た。
「正午の鐘です。いやはや、時間的には結構しっかり寝てるはずでも、全然睡眠をとった気分でないのはどういうことでしょうか?」
大きく伸びをしながら、唖然とするエマの背中にヴェラが呑気に言った。
「完全に寝過ごしたぁぁぁ‼」
「おわぁ、何するんですかっ!いきなり体当たりなんてっ、不意打ちなんて卑怯だっ!」
振り向きざまに立っていた居たヴェラをお構いなしに薙ぎ払って、エマは、受話器を取って電話を掛けた。
その場でジタバタとしていたヴェラだったが、エマに完全無視を決め込まれ、ジタバタするのをやめた。
静かにその場に立ち上がると、スカートを何度か払い、とりあえずエマの方を見る。
「ネイマールあのねっ……」と言うフレーズが聞こえたので、どうやら本社の受付に電話しているらしい。
「むぅ」
ところで、いつまでこの子は、ふっかふかなソファで幸せそうに眠りこけているつもりだろうか。
確か、『ヴェラ、ここで一緒に寝ようっ!』と言ってきたのはこの子だったはず……なのに……気が付いたら、顔の前に床があって、その後、何度ソファに登っても落とされて……おかげで、全身が軋むように痛い。
「むぅ……」
ヴェラはイラッとした。だから、近くにあったペンを手に取ると、その手をレイチェルの顔へ走らせた。
「ふぅ。良かったぁ」
ペンを元に戻したとほぼ同時に、エマが安堵のため息を吐き。「首皮一枚繋がってたー」とそんな物騒なことを呟いた。
「とりあえず、生きてて良かったですね」
「えぇ、なんとか今回も生き抜けたわ」
えっ、この人、こんな都会に居てそんなサバイバルな日常をす過ごしているの?とヴェラは軽く引いた。
「原稿、間に合ったんですね」
「うん。完成した原稿をまとめた所で私は寝落ちしちゃったんだけど、ネイマールが寄稿用の封筒に入れて、今朝、キャシーに渡してくれたんだって」
「わぁ、気が利きますね。女子の鏡です」
「本当にね。私、今日ほどネイマールをお嫁さんに欲しいと思ったことはないわ」
多分、エマなりのネイマールへの賛辞なのだろうけれど……言えない…言えない……涎の後が残ってる顔でそんなこと言われても……海図みたいな涎の跡のある顔で言われても、ふざけているようにしか聞こえないとは……
「ありがとね、ヴェラ。あなたのおかげで入稿に間に合わせることができたわ。昨日、来たときはまた邪魔しに来たのかと思ったのよ、靴なんて投げてごめんね」
だから、海図みたいな涎の跡が残ってる顔で言われても……あ、そう言えば、靴を投げられたっけ。
「それにしても、レイチェルはいつまで寝てるつもりなの⁉しかも、1人でソファ占領して!」
げっ。想像以上に早く悪戯が露見してしまう。ヴェラはエマとすれ違い、そのままこそっと、掃除用具入れの中に隠れた。
少しの間があって……
「あははっ、レイチェルなにそれぇ。瞼に眼なんてあったかしらんっ、いつから猫髭生えたの?額の『肉』って何よ。ちょっとお腹痛いんだけど……くくくっ」
エマの捧腹絶倒が聞こえた。
「エマ、何を1人で笑ってるのさぁ~うるさいなぁもう」
レイチェルが起きたようである。
「あははっ、ちょっと…くくくっ…待って、はい、鏡」
「うおぉーっ!いつの間にか私ってば、目が4つになってる‼猫髭まであるしっ!でも、このおでこの『肉』ってなに?」
「知らないわよ。私が書いたわけじゃないもの」
「ネイマールが書くわけないからぁ……ヴェラかっ!」
そうなりますよねー。
どうして、店から出て行かず、隠れてしまったのだろうと、ヴェラは後悔した。
「うへぇ、これ油性だぁ。こすっても落ちないよー」
あ、油性だったのか。ヴェラは少し申し訳ない気持ちになった。
「笑ってるけどさ、エマだって、海図みたいな涎の跡、堂々と残してさっ、私の事言えないと思うんだけどっ!」
「えっ、嘘っ⁉」
慌てて、エマは手鏡で確認する。
「いやぁーーーーっ!」
乙女の一大事。エマは、手鏡を放り投げて洗面所へ駆けて行ってしまった。
「エマは危ないなぁ」
手鏡を空中でキャッチしてそう言いながら、再び自分の顔を見る。
「うーん。ヴェラもセンスないなぁ。どうせなら、おでこに眼書いてくれれば良いのに。猫髭って4本なのになぁ。3本しか書いてないし。ヴェラももしかしてアホな子なのかな。うん。アホな子だねっ!」
レイチェルはそんなことを言いながらケタケタと笑っている。
ヴェラは言いたい。
咄嗟に思いついた落書きになんて、そんな根拠も正確性もあるはずがないし、そもそも悪戯にそのクオリティを求めるのは反則であると。
そして、我慢できなくなった。
「どうして私がアホな子なのか、説明してもらおうじゃないかっ‼」
ヴェラは威勢よく掃除用具入れから箒や雑巾やと一緒に飛び出すと、両腕を大きく広げて高らかとそう言った。
「あっ、ヴェラ見っけっ!」
さらにケタケタ笑いながら言うレイチェル。
これにはヴェラも「へっ?」と首を傾げざる得なかった。
「ヴィェラあ~っ‼なんで、涎の跡のこと教えてくれなかったのよっ!海図みたいな涎の跡がついたまま外に出ちゃったじゃないっ!」
「いや、それは、悪気はなくってですね……言いづらかったと言いますか……どうして、フライパンなんて持ってるんですか?それは振りかざすものではないですよっ‼」
それは本当である。エマに対して悪意はなかった。
がっ、
「ヴェラって酷いよっ!私の顔に悪戯書きして、プップ~って笑って、エマの顔を見て、陰でプップ~クスクスッって笑ってたんだよ‼」
悪意が捏造された。
「えぇえっ⁉なに、捏造してくれてるんですかっ!」
「捏造じゃないもん!私、しっかり見てたもんねっ‼」
「嘘つきっ!この子はどさくさに紛れてなんて嘘つくんですかっ‼ついさっきまで、爆睡ぶっこいてたでしょう!」
「許せない…許さない……折角、感謝したのに、ありがとう、って言ったのに!」
「どわぁ、だから、フライパンは振り回すものじゃありませんよっ!じゃなくて!悪気はなかったなんですってばっ!ちょっ!レイチェル、足に纏わりつかないでください。このままだと私が逃げられません!私の顔がスクランブルエッグになります!なってしまいます‼」
「今だよエマっ!」
「レイチェルでかしたわっ!」
あー詰んだ。
ヴェラは、迫りくる恐怖に戦慄しながら、短くそう思ったのだった。
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