レッド・ヘリング
「お姉ちゃん、起きて、お姉ちゃんに電話だよ」
「むにょ、どうしたのアン?トイレ?わかったよぉ一緒に行こう行こう」
寝とぼけ半分に目をこすりこすり、愛しいアンリエッタのためにベッドから起き出したレイチェルに、
「アンもう1人でおトイレい行けるもんっ!」
とアンリエッタが頬を膨らまして言った。
「なっ、なんでっ⁉いつも間に行けるようになったの?一昨日まで一緒に行ってたじゃんか」
「おじさまが、1人でおトイレ行けるようになったら、またご本買ってあげるって言ったから、アンがんばったの」
褒めて褒めて光線を全身から放ちながら言うアンリエッタ。
「そ、そう。うん、偉いね、頑張ったねアン。でも、お姉ちゃんに頼ったって良いんだよ、ほら、怖いお化けとかいるかもしれないから。うん、お姉ちゃんと一緒に行く方がいいと思うよ」
背に腹はかえられない。ここは、天使アンリエッタを少々怖がらせても仕方がない。
「お化けを怖がるのは子供だけなんだもん。アンもう子供じゃないから怖くないもん」
「それは誰に言われたの?」
「おじさまぁ」
「(絶対にロケットパンチだっ‼ロケットパンチをお見舞いしてやる‼)」
日々深刻化する『お姉ちゃん離れ』の促進剤はやはり、叔父だった。お風呂に1人で入ると言い出したきっかけも叔父だったし、読書もそう。今回のトイレも得てして叔父の諧謔が原因だ。
日々、レイチェルの癒しが失われてゆく。否っ‼これは略奪されていっている。戦争だっ‼こうなったら全面戦争だっ‼
レイチェルは、腸を煮えくり返らせ、ドンドンと音を立てながら階段を下りると、リビングのドアを半ば蹴り開け、受話器に向かって「はい、もしもしっ‼」と激しく言った。
「こんな時間なのに、激しいわね……」
電話口のキャシーは引いていた。
「なにさ、こんな時間に」
時刻は午前3時。2時間ほどしか寝ていないことになる。
「ちょっ、まあ、こんな時間に電話したのは悪いと思うけど、その、さっき、掛けなおすって言ったから。調べるのはとっくに終わってたんだけど、タクシーもいなくなるから、家に帰ってから、電話しようと思ったのよ。すぐ電話しようと思ったんだけど、眠かったから先にシャワー浴びてて、こんな時間になっちゃったのよ」
あぁ、そう言えば調べもの頼んでたんだった。それを思い出すと同時に、拗ねたような声色で言うキャシーを可愛いとも思った。
「いんにゃ。怒ってない怒ってない。それで、どうでしたかにゃ?」
「本当?レイチェルって結構、根に持つタイプでしょ?また、エマがいないのに、居るとかって嘘つくつもりでしょ⁉そうなんでしょっ!」
むー。エマ好きもここまでくると面倒くさいな。そう持ったレイチェルは、さらっと「そんな嘘つかないって」と答えた。
「ほんとかなぁ」
むぅ。ちょっとイラッとした。
「早く教えてくれないと、キャシーがエマの悪口言ってたって言うからね」
「えぇ、なんでそうなるのよっ!わ、私がエマの悪口なんて言うはずないじゃない!ねぇ、聞いてるの?なんでそんな意地悪するのよ!」
さすがに言い過ぎた。受話器の先から聞こえてくるキャシーの涙声に、レイチェルはちょっとだけ反省した。
「言わないよ。言わないから、早く教えてよぉ」
「本当だからね!約束だからねっ。通報は匿名だったそうよ。その時、通報者は『レッド・ヘリング』って名乗ったみたい」
「レッド・ヘリングって言ったよね、今……」
「ええ、なんのつもりか知らないけど、燻製ニシンだなんて、ふざけてるわよね」
レイチェルは喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
「どうしたの?レイチェル、なんとか言いなさいよ」
「投書に書かれてるペンネームも『燻製にしん』なんだよね……ははは……偶然ってあるもんだねー」
おどけて見せたものの、冷や汗が止まらなかった。
無人島での惨劇を発見して警察に通報した人物と迷宮入りした事件の真相を投書した人物が同じ名を名乗っている。こんな偶然が起こりうるのだろうか……しかも、『燻製にしん』だなんて、到底偶然だとは思えない。
電話を終え、ベッドに戻った後もレイチェルは誰かの視線を感じて一睡もできなかった。
だから、空が白々と明るくなって来た時、心の底から安心したし、大きく安堵のため息を吐いた。
日の出と言う安らぎを得て、安心したレイチェルが微睡んだのも束の間、酷い悪夢にうなされ、すぐに跳ね起きることになってしまったのだった。
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