サンライズ・リプレイ
鯨武 長之介
あなたに会えて、本当によかった。
私は、彼の視界から逃げるように俯いた。
本当は向き合わないと。だけど、瞳の奥から止めどなく湧き出る涙を見られたくなかった。
「駄目だな私。最後くらいきちんとしないと」
着飾るのはやめよう。そう笑い聞かせながら私は前を向く。笑顔と涙を一緒に浮かべるこの表情は彼にどう映っているだろう。
私は大きく静かに呼吸をする。そして、唇の隅に届いた味のしない雫を合図に口を開いた。
「今までありがとうございました」
御礼と自分への門出を兼ねた言葉が二人だけの空間に響く。
今日は私が生まれ変わる日。新しい命に転生する日だ。
◆
「命は大切にしなさい。一度きりの人生に悔いがないように」
女手一つで育ててくれた母親、学校の教師たち、人生を語るには若すぎるアーティストたちの歌や物語の中までも、世界は生きることの素晴らしさと尊さを説く言葉にあふれている。
そんな事は百も承知だと理解しつつも、私は十八歳で自ら命を絶った。だけど、死後の世界は意外にもそんな愚かな私を優しく迎え入れてくれた。
今いるこの場所は、天国というには殺風景だけど、地獄というには鬼や悪魔は似つかわしくない景色が広がっている。日の出とも夕暮れとも言えない、薄い藍色と緋色が入り混じった透き通った空と地平線の模様が延々と続いている。
まるで置いてきぼりにされたように、点々と佇む木々や草花がなければ、さしずめ自分は世界の中心にでもなったと錯覚しそうだ。
私がここに来てもう何日になるだろう。生前に持っていたスマホや腕時計は見当たらない。せめてコンビニの一軒でもないだろうか。財布もないけど。
時間の流れがはっきりしないこの世界に放り込まれたばかりの頃は、訳も分からず彷徨い続けた。生前にも出したことないような大声で、自分の存在に気付いてもらおうと、死に物狂いで助けを求めた。死んでいるのに。
あの人が私の目の前に現れたのは、戸惑いと寂しさが限界を迎えようとしたときだった。
「こんにちは」
ほら、今日も来た。
「言ったでしょ。私は未練なんかないって」
私はぶっきらぼうに返事をする。
「そうもいきません。
少し困る仕草を見せながら私の名前を呼ぶこの男。名前は
私を下の名前で呼ぶ理由は、初めて彼が現れたときのことだ。
苗字である
「これだから男は嫌いだ」
そう言ったのは私ではなく彼だ。
「あなた人の心まで読めるの? ほんと最低」
「今のは想像ですよ」
私はしてやられた、と思った。
「とにかく、もう話すことなんかないです」
日野出さんは度々どこからともなく現れては、私の生前のことを聞いたりお説教をする。退屈しのぎにはなるけど正直、鬱陶しい。
「しかし、その若さで愚かなことをしましたね。たくさんの家族を残して」
「私は一人っ子です」
確かに自ら命を絶ったけど、私は母子家庭だ。
「確か、電車に飛びこんだんでしたっけ?」
「崖の上から海に身を投げたんです」
ふた目と見られないバラバラの姿を片付けられるのは嫌だったから。
「そうそう。確か身分違いの紳士との禁断の恋に溺れ、その終わりに絶望し……」
「また、そうやって私をからかう」
男絡みのところしか合ってない。絶対にワザとだ。
日野出さんはこうやっていつも私を怒らせる。本人はユーモアのつもりかもしれないけど。やっぱり男は嫌いだ。
昔から母に「男には気をつけなさい。一人でも強く生きなさい」と厳しく育てられた私は、高校までの青春時代を勉強と陸上に明け暮れて過ごした。正直、母と折り合いは悪かったけど、おかげで文武両道な娘には育ったと思う。
そんな男と関わりを持たなかった私だけど、大学入学から半年ほどして、同じゼミの上級生に告白された。
とても端整な顔立ちで爽やかだった彼。積極的な優しさと受験から解放された気の弛みからか、私が男に抱いていた氷のような不信感は、いつの間にか溶かされた。まさに春の訪れだった。
私たちが身を寄せ合う仲になるまで、それほどの時間は要さなかったけど、心のつながりが深まると思うと幸せだった。
だけど、私はあっさりと彼に捨てられた。「いい経験になっただろ?」って。
あの男が大学では、とっかえひっかえ女に手を出す有名人だと後で知った。私は周囲から優しくされつつも、同情と哀れみの目で見られた。
極めつけは、母の言葉だった。
「あなた、男なんかにうつつ抜かしてないでしょうね?」
悔しさと情けなさが込みあげた私は、夜中に家を飛び出した。そして、街はずれの海岸から身を投げた。
「次は何に生まれるかまだ決まらないの? どうせ忘れるんなら雑草でもハエでも構わないって言ってるでしょ」
日野出さん曰く、魂というのは生きとし生ける存在すべてに与えられるものらしい。そして輪廻や転生と呼ばれる、要するに生まれ変わるのが原則なんだって。
この場所の形は、人間であれば生まれた国や年齢、生前の経験で千差万別のようだ。詳しい事情は複雑かつタブーも多いので教えてくれないけど、次の転生先が決まるまでの待ち合い室といったところだろうか。
「確かに転生したら前世の記憶は残りません。でも僕にはあなたをケアする義務があります」
また、あの目だ。私は思わず視線をそらす。
日野出さんは時々、優しくも凛とした目で私を見つめる。
偽りの好意を見抜けず私を弄んだ彼とは違って、きっと本気で私を心配してくれている……とは思うけど。
「ミルクティーでも飲んで落ち着きたい」
私はもやもやとした気持ちと、生前好きだった飲み物の名を漏らす。ここでは、お腹が空かなければ喉も乾かないけどね。
「ミルクティーですか。私は生前は紅茶派でしたね」
軽く頬をかきながら笑う日野出さんの言葉に、私は思わず目を丸くする。
「日野出さんにも生きていた頃があったの?」
てっきり、日野出さんは私に合わせて人間の姿をした心霊的な存在だと思っていた。
「ええ、あなたと同じ年齢くらいまでは現世の日本に住んでいました」
「どうして、日野出さんは転生してないの?」
思わぬ事実に親近感と疑問が次々と湧いてくる。
「僕は人を待っています。現世で命が尽きてここに来た時、僕は神様にお願いをしました。どうかその人がこちら側に来て、また会えるまで転生させないでほしい、と」
どうやら彼にも紆余曲折あったらしい。
「ふーん。私も日野出さんと同じ仕事やってみたいな」
私は思った。このまま転生せず残るのも面白いんじゃないかと。
「僕の場合はたまたま空きがあったからです。就くのは無理かと」
都合よく誰でもなれるわけではないみたいだ。死後の世界も就職難らしい。
日野出さんは私を窺いながら少し考え込んでいた。
「しばらく見学してみますか?」
「え。いいの? 神様に怒られない?」
私の気まぐれは、違う形で受け入れられた。
「稀にありますよ。人によっては信仰の事情などで納得してもらうために」
笑い話か苦労譚なのか、日野出さんは曖昧なため息を吐きながら私に手を差し出した。
「それでは行きましょう」
私は無言で頷きながら彼の手を握る。
確かに伝わるこの不思議な温もりはどちらが発しているのだろう。
こうして、私の旅と心の変化の日々が始まった。
まず最初に立ち会ったのは、天寿をまっとうしたお婆さんだった。
私がいた場所よりも優しい花畑のような世界。私たちはそこで、これまでお婆さんが歩んだ道のりと、最後は大家族に看取られて終えた満足な人生を聞かせてもらった。
お婆さんが転生する命は『鳥』らしい。
それを聞いたお婆さんは「空を飛べるなんて素敵」と、喜びを浮かべながら、最後は光の粒子が蒸発するように転生した。
次に訪れたのは、私よりひと回り年上の女性がいる場所だった。
生前はキャリアウーマンだろうか。大きなビルの中のようだけど、どこか無機質で寂しい。
その人は、幼い子供を残して交通事故で亡くなった。
呪文のように「子どもに会わせて。もう一度、あの子の母親になりたい」と泣いていた。日野出さんはただ慰めながら勇気づけていた。
しかし、彼女に告げられた次の命は『魚』だった。
子どもとの再会は叶わないであろう残酷な宣告。女性は消失する最後の一瞬まで、悲しみに暮れながら転生した。
私はふと、母のことを思い出した。傷つけ合うように時間を共にした唯一の家族のことを。
「せめて優しい嘘をついてあげられないの? 子どもの友達になる人に生まれ変われるとかさ?」
私は日野出さんに尋ねる。
「僕たちは嘘をついてはいけない決まりがあります。それを破ると消されてしまうんです。それで今まで何人か同僚が消えました」
私はようやく彼の役割の重さを知った。命はなくとも胸は痛み、苛まれることを。
「魂の案内係と言えば聞こえがいいですが、実際は本人に死を受け入れさせる悲しい仕事です。時には死神や悪魔と罵倒もされます」
日野出さんはそれにずっと耐えているのだ。待ち人と再会できるその日まで。
私は胸の奥が締め付けられる気がした。
それからも私は幾つかの転生に立ち会った。心地よく見送ることができた転生もあるけど、殆どの人は何かしら生前の未練や次の転生先に不安を抱いていた。その都度、私は自分のこれまでの人生に何があったか。そして早計に命を絶った悔いが浮き出る。
それは『人間』に生まれ変わると告げられて「人間はもう嫌だ。また人を殺すかもしれない。花や虫のように短い命が良い」と懇願する、死刑囚として命を終えた人の転生に立ち会った後のことだった。
「日野出さんはどうして亡くなったの? 誰を待ってるの?」
自分の中でゆっくりと答えが出始めていた私は覚悟を決めて尋ねた。
日野出さんは少し躊躇したが話してくれた。彼の口から語られたその一生は、想像以上に過酷なものだった。
幼い頃に両親とは死別して、施設で育ったこと。
荒れた中学時代を送り、卒業後に職を転々としたこと。
ある日、業者として出入りした大学で一人の女子学生と出会ったこと。
二人は恋仲となり、女子学生は在学中にお腹の中に新しい命を宿したこと。
向こうの両親の反対を押し切り、駆け落ちしたこと。
まとまったお金が必要となり、やむなく犯罪に加担したこと。
「割のいい運び屋でしたが、口封じで消されましたよ。まあ、自業自得ですね」
話を聞き終えた頃、自分の愚かさと向き合った。いや、本当はわかっていた。現世でもここでも臆病な自分を認めたくなかったことを。
「……私、生まれ変わったら一生懸命、生きます。約束します」
自分の意思で導いた、偽りない決意に彼は微笑んでくれた。
「ありがとう。これで私も安心できます」
私は自分と、そして日野出さんとの別れの時を迎えようとしていた。
◆
自分の気持ちを告げた私は、日野出さんとしっかりと向き合った。
どんな転生先でも私は悔いなく生きよう。例え蚊でもミミズでも。
「それでは、あなたの行き先を伝えます」
日野出さんは表情は、今まで見たことのない優しさと祝福に満ちていた。
「理麗さん。現世に戻ってください」
……え? 今、何て?
聞き返そうとしたけど声が出せなかった。私の体は既にあたたかな光に包まれていた。
「理麗さん。あなたは生き返れます。いや、正確には死んでいません。意識不明で眠っているんです」
私が生きている。信じられなかった。
「本当はすぐにでも生きていると告げたかった。だけどこのまま現世に戻ってほしくなかった」
確かに私は現世に未練なんてなかった。
それと日野出さんは、私に一度も「あなたは死にました」と、言わなかったことを思い出す。
「一時は現世の肉体との意識を保つために、怒りで生命力を紡ぐ必要もありました」
だからワザと私の苗字を笑ったり、からかったりしたんだ。
「転生に立ち会うことでどう考えるか心配でしたが、命の大切さと向き合ってくれてよかった」
日野出さんは、本当に私を心配してくれていたのだ。
「理麗……った。……現世に戻ったら……しく」
少しずつ薄れゆく意識の中で聞こえる彼の最後の言葉に、私は無言の笑顔で答えた。
――― さようなら
◆
「買ってきたわよ理麗」
「お母さん、ありがとう……いたた」
私は母に頼んだミルクティーを受け取ろうと、ベッドから上半身を起こそうとするが、体に痛みが走る。
「まだ無理しちゃ駄目よ」
そう言いながら、母は私の背中を軽く支えて起こしてくれた。
私は数日前、日の出とともに病院で目を覚ました。
海に身を投げたあの日、私は幸いにも近くを通りかかった夜釣りの船に発見された。十日間も眠り続けていたらしい。
母は私にまだ何も聞かない。どうしてあんな馬鹿なことをしたのかを。
看護師さんから、母が不眠不休で私の傍を離れなかったと教えてくれた。母には悪いことをしたと思っている。
あの世界での出来事を私はハッキリと覚えている。あれは本当の出来事だったのだろうか。それとも、私の生き続けたいという願いが生み出した夢だったのか。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの理麗?」
私は母に思い切って尋ねる。確かめたいことがあった。
「日野出さんって知ってる?」
「どうして理麗があの人のことを知ってるの? 誰に聞いたの?」
私は思い出した。幼い頃、母に父のことを訊ねたとき、「あなたの父親は、理麗が生まれる前に私たちを捨てて逃げたの。もう二度と聞かないで」と、言われたことを。その憎しみに垣間見えた悲しい顔を。
日野出さんは別れの間際に私にこう言った。
「理麗、お前に会えてよかった。現世に戻ったら母さんによろしく」って。
これから話すことを母は信じてくれるだろうか。幾つもの不幸と偶然が重なったからこそ叶った父との出会いを。そして、母は愛する人に裏切られたのではなかったという、喜ばしくも悲しい真実を。
もしも、また日野出さんに会えることがあれば、その時までに自慢できるような恋をしよう。最後に好きになった人が、母と同じだなんて少し恥ずかしいから。
「あのね、お母さん……」
いつか三人で「幸せだったよ」と、分かち合える日が来ると信じて、まずは母と精一杯向き合おう。
サンライズ・リプレイ 鯨武 長之介 @chou_nosuke
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます