超能力のこと 後半戦
その小柄な身体の肺に、どれだけの空気をためこんでいたのか。それとも、超能力で大きく響かせたのか。朝野さんの絶叫はみんなを黙らせ、茫然とさせた。
「橋口ぃいっ!!」
名前を呼ぶ声が、怒りに燃える。
さっきまでの勝負の最中でさえ、ここまで感情を爆発させてはいなかったのに。
「偽物だ、偽物だ、偽物だ!!」
朝野さんはリングアウトした橋口さん――観客席の真ん前にパイプ椅子ごと倒れ伏している――を指さして言った。
「その橋口は偽物だ! 本物じゃない!」
『まさか……』
若山先輩は絶句するも、すぐに近くにいた放送部員へ指示を出した。そうして何人かが橋口さんへ駆け寄る中、観客席のざわめきが大きくなる。
『ただいま、確認が行われております。皆様、どうかそのままお待ちください、お待ちくださ……』
朝野さんは待たなかった。
「は、ぁ――――」
身をのけぞらせて息を吸い込み、そして。
「―――ぁあっ!!」
さっきの激怒よりも大きい、衝撃波のような大音が発せられた。それはビリビリと体育館をふるわせ、音が僕らの身体をなで去っていくのがハッキリと感じられるほどだった。
シン、と全てが言葉をなくした後。
なにかを待つようにじっとしていた朝野さんが、足元のリングに向けて手をのばした。
「そ、こ、だぁっ!!」
叫びと共に、リングがガタガタと震える。そして体育館の床から持ち上がり、まるでお盆をひっくり返すように、空中で一回転した。
地響きが皆の身体と心を揺さぶった。大きなリングが完全に上下さかさまになって、裏側を見せた状態で床に落ち、激突したのだ。
ふわりと、上に向かって突き出した支柱の先端に、朝野さんが着地する。
そして、その目の前に浮かぶ人が、もう一人。
『ああっ! これは、なんと!』
会場のざわめきがどよめきに変わった。
宙に留まる体育館掃除用の大モップの上に、サーファーのように立ち、朝野さんを見下ろしているのは、誰であろう橋口さんだったからだ。
『魔女です! モップに乗った魔女が、今、目の前で宙に浮いております! 橋口、先ほどたしかに観客席にリングアウトしていたはず……しかし、私の目には、ひっくり返ったリングの裏から現れたように見えましたが!』
橋口さんは朝野さんと正面から向き合うように、対面の支柱へ降り立った。
「よく見破った」
「橋口ぃ!」朝野さんから怒気が流れ出す。「どこまでも。どこまでも、馬鹿にしてぇ!」
『いったい、どういうことなのでしょうか。魔女が二人いるようですが、彼女は双子ではなかったはず。身代わりか何か……』
「それで正しい」
橋口さんは、放送席に座る若山先輩のほうを向いて言った。
「それは、私の代わりの人形だ」
人形。その言葉を聞いた皆の視線が、観客席に横たわっているほうの橋口さんに集まる。すると。
『ああっ、確かに人形、人形です! 美術のデッサン人形のようなものになっています。いつのまにすり替わったのか』
『いや~、あれは最初から人形だったんだよ』板東さんが説明をする。『たぶん、暗示の魔法か何かだね。ここにいるみんな、あれが彩ちゃんだと錯覚しちゃってたんだよ』
『では思わせぶりに試験管から薬品を飲んだのは』
『碧ちゃんからボコボコにされても、人形だから痛がらない、っていうのを誤魔化すためかな。まんまと騙されちゃったってわけ』
そうか、と僕は気づいた。最初にタニアさんが橋口さんに言った「準備はしました」という言葉。あれは、このカラクリのことだったのだ。
リングの下は空洞になっていて、外から見えないから隠れるのは簡単だ。けれど沢山の観客がいる前で中に入るのは難しい。きっと、準備に携わったタニアさんが手を回したのだろう。そしてたぶん、それ以上のこと、人形を橋口さんに見せかける魔法のことも。タニアさんもまた、橋口さんとは少し違うけれど、魔女なのだから。
『なるほど。しかしそこまでした理由はなんだったのか、人形を身代わりにすれば電撃を喰らったり燃やされたりすることは避けられても、勝つことはできないはず』
橋口さんはそれに対して何事かを言おうとしたけれども、ざわつきが戻ってきた会場の音にかき消されて、僕らのところまでは声が届かなかった。
放送部員の一人が、橋口さんに駆け寄ってマイクを突き出す。
すぐにスピーカーから、面倒げに喉をならす音と、橋口さんの声が流れ出した。
『……こうするのが、一番丸く収まるからだ。勝負はすぐについて被害は最小限に留められる。朝野は私に勝って満足する。私は、負ける汚名をかぶるが、朝野からは解放される。私の敗北が、ここでは最も求められているんだ』
『つまり、あえて敗者になることで争いを終わらせようと。明日から敗北者としての人生が始まることも覚悟の上で、学校の平和を望んだと。なんという自己犠牲でしょうか』
『しかし橋口』松風くんが訝しげにたずねた。『なんで身代わりなんか使ったんだ。君自身が戦ってわざと負けたほうが、手っ取り早かったんじゃないか?』
『周りから負けたと思われるのは構わないが、私自身が本当に負けるのは癪だった』
意外とプライド高いね橋口さん。
『彩ちゃ~ん、気持ちはわかるけどさぁ。碧ちゃんがもうカンカンだよ』
『八百長試合だったことに、会場からも怒りの声が上がってきております。お聞きください、このボルテージの上がりよう。どうしましょう』
『勝手に人で儲けようとしていた連中が自滅していくのはいい気味だなぁ』
感情が死んだ声で橋口さんはそう言った。
「橋口ぃ!」対する朝野さんの怒りはおさまらない。「そうやって、おまえは、いつも私を見下してぇ!」
『…………』
「真面目にやる気が、ないのか! 私が、そんなので、騙されると、思っていたのか! どれだけ、おまえに勝とうと、してきたと、思ってる!」
『…………』
朝野さんの声に、怒りだけじゃない、口惜しさのような言葉の間が混ざる。今にも泣きだしてしまいそうな、そんな間が。
『……朝野』
そんな朝野さんに、橋口さんが、ひどく真面目な声音で語りかけた。
『君は、なぜ私と戦おうとする。なぜ、勝ちたい。その理由はなんだ』
「…………」
すると朝野さんは、怒らせていた肩を落とし、ボソボソと小さな声でなにかを口にしはじめた。大声をやめたから聞き取れないなと思っていると、すかさず別の放送部員がマイクを近づけに走った。
『……はじめは、ただ、なんか、すごい人がいるぞって、みんなが噂してた……』
朝野さんが語る言葉が、スピーカーを通して僕らに届く。
『同い年に本物の魔女がいる。頭も良くて、大人っぽくて、あと眼鏡美人とか言ってる人もいたっけ。それで、誰かが言ったんだ。魔女が化学部で、超能力者がオカルトにいるなんて、まるでアベコベだ、って』
魔法を使う魔女が科学の場に、科学的な研究もされる超能力者がオカルトの場に。
その歪さは、二つそろうと、対照的だ。
『そんな話を聞いたから、最初は、意識するぐらいだった。ふーん、そんなのがいるのか、って。親近感だって、あったかもしれないよ。でも、でも段々、そうじゃなくなっていった……』
朝野さんの手が、わななく。
『いつからか、みんなが比べはじめたんだ。私と、おまえを。橋口はすごい、橋口は頭がいい。それに比べて、朝野は馬鹿だ、抜けてる、って』
会場のざわめきが静まる。
それはきっと、心当たりのある人が大勢いたからだろう。
『私は、自分が頭いいなんて、思っていないよ。馬鹿って言われてもしょうがないよ。でも、私とおまえは、直接競い合ったわけじゃないのに、勝手に順番を決められるのが、なんだか、嫌だった。モヤモヤして、ムシャクシャして、嫌だった。へらへら笑って誤魔化しても、嫌な感じは消えなかった』
いつも無意味に元気な朝野さん。その裏側も同じく明るいものだったのか。僕らは知らない。
けっして悪意があったわけではないけれど。彼女をそういう風に見ていたことを、ほとんどの人が否定できない。
『だから、橋口、おまえと戦いたかった。魔法と超能力、どっちが強いのか証明すれば、それで納得できると思った。勝てば見返せる。負けても、諦めがつく』
なのに、と朝野さんは橋口さんを睨み付けた。
『なのに、おまえは! いつもいつも、私を避けて、本気にしないで、適当にあしらって! そんなに私が、馬鹿に見えたの? 戦うまでもないとか、思ったの!?』
『朝野。君は、それを私に言ったか。勝負をしたい理由を言葉に出して言ったか』
『聞きもしなかったくせにぃ!』
乾いた破裂音が立て続けに響く。朝野さんのまわりで火花が弾け、髪をライオンのタテガミのように波立たせた。超能力が、感情の爆発にひかれて暴れかけていた。
『……でもさ、そうだよ。私だって、自分がなんでおまえと勝負したいって思ったのか、今、こうやって口に出そうとするまで、忘れてたよ。自分でも、よくわかってなかった。きっと聞かれていたって、上手く答えられたか、わかんない』
『碧ちゃん……』
板東さんが放送席から、今にも泣きだしそうな友達に語りかける。
『もう、充分じゃないかな。だって、彩ちゃんは身代わりを使ったんだよ。碧ちゃんと直接戦うのを避けたんだよ。それって、碧ちゃんの力を認めていて、勝てないと思ったから、っていうのもあるはず』
橋口さんが、坂東さんの言葉に小さく頷いたように見えた。
純粋な力では、デタラメなほど何でもやってのける朝野さんのほうが強いことを、橋口さんもちゃんと理解しているのだ。
『だから、彩ちゃんにそうさせた碧ちゃんの勝ちで、良いんじゃないかな』
『ダメだ!!』
スピーカーが割れんばかりの絶叫。
『こんなんじゃダメだ! ダメだよ! だって橋口は本気を出してない。こんなの、私の勝ちなんかじゃない!』
『勝ってどうする』橋口さんの声は冷たく、けれど何かを求めるかのように問う。『その先になにがある』
『勝たなきゃいけないんだ!』
朝野さんの叫びは、怒りと、わずかの悲しみでできていた。
『最初は、ただ決着がつけたいだけだった。なのに、おまえがそうやって本気を出さないあいだに、みんなまで私を見下すようになってしまった。朝野は橋口に勝てない、超能力は魔女に勝てない。まだ戦ってもいないうちから、私は負けたことになっていた』
『…………』
『今だってそうだ! 九対一……、九対一って、なんだよ。ここにいる人で、私が勝つと信じてくれたのは、そんなにも少ないんだよ!』
誰もが、黙り込んで、各々が手にした賭け札から目をそらす。
「相撲も観るほう、だ」僕の横で古寺くんが呟いた。「人間は少しでも自分に近い相手を応援したがる。橋口はクラスメイトだ。俺が橋口に入れたのはただそれだけだ」
だとしても、それなら四組の人たちも、朝野さんに入れていたはず。
誰もが、無意識のうちに、二人の勝敗を決めつけていた。
『だから、私はおまえに勝たなきゃいけない。勝って、取り戻すんだ。なにかはわからないけど、大事なものを。そうやって、はじめて、私はおまえと同じ場所に立てるんだ』
朝野さんは、橋口さんに向かって指をつきつけた。
『戦え、橋口! 本気で、私と、戦え! 私はそれに勝つ。お前を乗り越えて、私は私の人生を取り戻すんだ!』
『えー……』遠慮がちに、実況席の声が割って入る。『大変盛り上がっているところですが、審判団による審議の結果が届きました。ええと、「偽物は正直どうかと思う」「とにかく俺は腹が減った」「やっちゃえ、やっちゃえ」とのことで、仕切り直して再試合をする方向で話がまとまったようです』
おおお、と観客席が湧き上がった。
「リングひっくり返ったままだけど、いいのかな」
「誰が元に戻すんだ? あの二人なら、そのまま空中で戦いだしそうだが」
「それもう最初っからリングいらなかったんじゃないかなぁ」
『さあ、先ほど盛大に賭け札が雪となってばら撒かれたわけですが、再試合に伴い再発行がされております。現在のオッズは四対六と、半数近く割れているとのこと。おっと、板東さんに松風くんも買われましたか。やはり自分たちの仲間は応援したくなるものですね』
『いや~、オカルト同好会としては、オカルト筆頭の魔法を使うほうに入れなきゃダメかな~って、彩ちゃんに』
『魔法なんて非科学的なものに入れるわけがないでしょう。自分は断然朝野さんに賭けますよ』
『あの二人、入るべき部活間違えたんじゃないですかねぇ!!』
ひっくり返ったリングの支柱の上に立っている二人がどっちも首を横に振った。
『えー、計算とか苦手だしなぁ』
『あんな理屈の通じない連中と一緒にはなりたくないね』
あいつら実は仲いいんじゃないのか、と古寺くんがぼやいた。
●
ゴングが鳴り、再試合が始まる。
『さー第二戦のはじまりです。なお一部の方々から好評だったため、二人の会話がよく聞こえるようインカムを着用しての試合となります』
「誰だよ一部の人」
「ドラマ性があったほうが面白いからな」
「放送部は視聴率でも稼ぎたいの」
言いつつ、僕らもポップコーンをつまみながら観戦を続行。
『今度こそ、決着をつけてやる』
気合十分な朝野さんに対し、橋口さんの声には気力がなかった。
『気が進まないな』
『おおっと、橋口、戦意が見られません。これは余裕のあらわれか、はたまた諦めでしょうか』
『いちいち癪に障ることを……』
橋口さんにしてみれば勝ってもメリットないからなぁ。
そう思っていると、客席から「真面目にやれー」「本気出せー」といった野次が飛び出してきた。
『観客からもブーイングが飛んできております。橋口、これはつらい。第一戦とは逆に、アウェーな状態で戦うことになりそうです。朝野、思いのたけをぶつけたことで、客席を味方につけました』
若山先輩の実況に背を押されるようにして、朝野さんを応援したり、橋口さんを揶揄する声が大きくなっていく。
「群集心理というやつか」古寺くんがポップコーンをつまむ手を止めた。「まずいな、会場の空気が橋口の負けを求めてきている。朝野に勝ったら大ブーイングだろうし、負けたら負けたで恥をかく。どう転んでも良い未来にはならん」
「どうしたらいいんだろう」
「なんとか穏便に済めば……済むのか、これ」
僕らの不安をよそに、喚声はますます増え続けた。
『そっちがその気なら、私にだって考えがある』
応援を背に、朝野さんは腕を上に向かって広げる。
『は、ああああ……っ』
いつも超能力を使う時とは違う、明らかに苦しそうな声がスピーカーから漏れ出してくる。それと共に、朝野さんの頭上に、黒い渦のようなものが集まりはじめた。
『おまえ、に、だって、大事なものくらい、あるはず……それを、目の前で、壊されたら、本気に、なるだろ……っ』
『空間転移か!』松風くんの驚きが響く。『ここと、別の場所の空間をねじって繋げる、そしてそこから橋口の持ち物を引き出すと。そんなことが可能とは!』
『朝野、無理をしてまで力をいれている様子、これはかなりの大技のようです!』
ごうごうと音を立てて、朝野さんの上で大きくなる黒い塊を中心として、体育館の中に空気の渦ができていった。雨がないだけマシだけど、まるで暴風雨の中にいるようだ。
『朝野』そんな台風の真ん中で、橋口さんは変わらず冷静な声で問う。『私の大事なものがなにか、君は知っているのか?』
『知ら、ない!』
えーっ!? という声が観客席から挙がっては風の中に消えていった。
『けど、あるはず! だから、それっぽいのを、なんとなく、持ってくる!』
『……朝野。私は別に君のことを下に見てるわけでも、馬鹿にしているわけでもない』ますます強くなる暴風をものともせず、橋口さんの口調は変わらない。『だが、その理屈を無視した力の使い方だけは嫌いだ。なんとなくそんな感じ、で物理法則を無視するな』
『いい、じゃない、できちゃうんだ、から……っ』
『目標も座標もわからないまま、ワームホールを作ったところで、何にもならないだろう』
『それは、どう、かな……!』
朝野さんは言葉にならない絶叫をあげた。そして頭上にあった黒い塊が小さくなり、それを朝野さんは両手でしっかと掴んだ。
その途端、体育館に吹き荒れていた風が止み、一瞬だけ音が消えた。
皆が注目する中、朝野さんが橋口さんに向かって突き出した右手には、確かに、なにかが握られているのが見えた。
『さあ、どうだ!』
朝野さんは意気揚々と言い、それから自分が握っているものを見た。
『で、なにこれ?』
『朝野、別の場所から橋口の持ち物と思われるものを瞬間移動させました』若山先輩の実況もクエスチョンマークがにじみ出ていた。『……が、あれは一体なんでしょうか』
『化学の授業で使うやつに似てるね。ガラスのコップ』
『ビーカーですか』松風くんが応える。『橋口のかな。朝野さん、それ中になにか入ってます?』
『えーと、うん、なんか水みたいのが、ビーカーの半分くらい』
『そういえば橋口のやつ、最近実験か何かやってましたね。それに使うやつ、か』
『大事なものですかね』
『実験に使うからには大事でしょうが、ビーカー一つくらい無くしたところで、どうせ備品ですし。本気出して怒るのは橋口じゃなくて顧問の先生のほうなんじゃ』
『朝野、どうやらハズレを引いてしまった模様……』
若山先輩はそこまで言いかけて、続きを言葉にできなかった。
『…………』
スピーカーから言葉ではなく、息を飲む音がした。
橋口さんは、見た目では平静を保てたけれど、それを隠すことができなかった。
長い沈黙のあと。
『……ぐ……』
何かを言おうとしたらしく、しかし、橋口さんの口から出てきたのは、うめき声だけ。
『お、おや……?』
おそるおそる、若山先輩が実況を再開する。
『橋口、これは……まさか……』
否定するかのように橋口さんの両手が動いたものの、それはブルブル震えてて意味をなさなかった。
明らかに、動揺していた。
『なんと橋口、本当に大事なものを引き当てられたようです!』
『おっしゃー!』
朝野さんがビーカーを高々と掲げて勝利のポーズをとった。
『さあ、橋口! これを壊されたくなかったら、本気を出せ!』
脅迫一歩手前どころか十歩進んでるようなセリフを言いながら、朝野さんがビーカーを突き出した。その真下にはひっくり返ったリングがあり、手を離せば確実にパリンと割れる。
対する橋口さんは答えられず、茫然としている。
『橋口、追い詰められた! 正直どこに価値があるのかわかりませんが、ビーカーを人質にとられ、本気を出さざるをえなくなった!』
『……うん、というか』朝野さんは首を傾げた。『割ったほうが確実に本気出すかな?』
普段馬鹿なのになんでそういうエゲツナイことだけすぐ思いつくかな。
それに反応したのは橋口さんではなく、むしろ観客のほうだった。
「割れー!」
「割っちまえー!」
そんな無責任な野次が飛ぶ。まあ、確かに、たかがビーカーだし、割られたところで問題なさそうだけれども。
割ーれ、割ーれ、とコールが巻き起こり、リングを包む。今や四方八方が橋口さんの敵だった。
「ローマコロッセオ形式だったか」古寺君が呟く。「さしずめ俺たちはローマ市民だな」
剣闘士の生死を観客が決定するっていうアレかー……。
『さあ橋口!』
喚声と共に朝野さんが宣言する。
『…………』
『三つ数えたら落とす!』
『…………』
『ひとつ!』
『…………』
『ふた』
『……それはね』
と。
橋口さんの声が、ようやく出てきた。
『私が今、実験に使っていたものだ。間違いない。ああ、間違いない』
スピーカーから聞こえる言葉は、ひどく平静で、ひどく冷たかった。
『それは、抽出液を貯めておくための、いわば受け皿だ。それがここにあるということは、今頃、化学準備室ではポタポタこぼれているんだろうね、机の上に』
けれども、言葉の運び方が、いつもと違っていた。なんというか、心ここにあらずというか、心がなくなったかのように。
『それはね』橋口さんは言う。『セイヨウシラユリから集めた朝露から抽出した、薬液が入っていたんだよ』
あれ。どうして、今、過去形で言ったんだろう。
『それはね。光に当たるとすぐに蒸発して消えてしまうんだ。だから、暗室で実験しなきゃいけなかったんだ』
朝野さんは、ビーカーをひっくり返した。
彼女自身がさっき言っていたような、ビーカーの半分ぐらいあった液体とやらは、まったく出てこなかった。
体育館の強い照明の下、ビーカーはむなしく光を反射するだけ。
『それはね』
橋口さんは言う。
『君が今、暗室から取り出して、揮発して消えてしまった薬液はね』
笑いながら、言った。
『タニアに頼んで、わざわざヨーロッパから取り寄せたセイヨウシラユリを使い、この三週間、私が細心の注意を払って、ようやく集めた、たいへん貴重なものだったんだよ』
この場にいる全員が悟った。取り返しのつかないことになった、と。
ただ一人、朝野さんだけは、それに気が付いていないのか、はたまた、気づいたところで橋口さんが怒ったのなら結果オーライと思ったのか、微塵も動じていないようだった。
けれど本当に取り返しのつかないことになるのは、ここからだった。
『ふ、ふふふ、ふふ』
漏れ出る笑い声が、死神の宣告のようにスピーカーから流れだし、僕らを捕まえる。
『ふふふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふ』
橋口さんは笑う。ただ笑う。
それだけのことが、おそろしく怖い。
彼女は胸ポケットから何かを取り出した。
『あ、あれは……!』
実況席の松風くんが、切羽詰まったような声を出す。
『知っているんですか、松風くん』
『SF同好会から譲り受けた、超電磁結界発生装置!』
仰々しい名前をした、ボールペンほどのサイズだったそれを、橋口さんはジャキンと伸ばした。
『なんですか、それは』
『対象物を電磁結界で閉じ込める装置です。本来の用途は知りませんが、うちではガラス容器を溶かしてしまうような薬品の保管に使わせてもらっています』
橋口さんはそれを起動させ、次いで、試験管も取り出す。両手に二本づつ、計四本。それらの蓋を指で弾き飛ばし、中身を超電磁結界が発生しているとおぼしき空中にぶちまけた。
『つ、つまり、あの液体はガラスを溶かすほどの……』
四種の薬液が空中で混ざり合い、超電磁結界によって球体状になる。
『君たちは』
橋口さんが複数形をつかったことに、誰もがビクリとなった。
『人を見世物にして、金儲けに使って、道理のない主張にのせられて、あげく私の努力を踏みにじって』
その見えざる怒りが、この場にいる全員に向けられていることに。
『覚悟は、できているんだろうね』
……後に、最前席でよく見えていた人たちは言った。
この時の橋口さんは、魔女のような満面の笑顔だった、と。
透明なフラスコのような超電磁結界の中に生まれた薬液は、だんだんと容積を増し、やがて上部から漏れ出た一滴が、ポタリと零れる。
ジュッ、と、リングが溶けた。
「「わあああー!!」」
最前列にいた生徒たちが逃げ出す。飛沫が直接かかったわけではなく、恐怖からたまらず動いたのだ。
『ば、万物溶解液……』
『知っているんですか坂東さん!』
『錬金術の秘法、卑金属を溶かす、万能の溶解液……液体はもちろん、その蒸気にあてられただけでも、融かされてしまうとゆー……』
『は、橋口はそれをいったい、何に』
何に使うのか。それを想像してしまった全員の表情がひきつった。
『君は、本気を出せと言ったな、朝野』
超電磁結界発生装置を手にし、万物溶解液を振り子のように振り回しながら、橋口さんは言う。
『私が本気を出したら。なにも残らんぞ』
いまだ外されないインカムを通して、魔女の笑い声がスピーカーを支配する。
『ば、坂東さん、あれは一体どうやったら防げ、坂東さん、坂東さん? に、逃げてる……』
若山先輩は、判断を間違わなかった。
先輩は息を大きく吸い込み、マイクに向かって叫んだ。
『そ、総員、退避ー!!』
わああああ、と体育館全体が爆発した。椅子を蹴飛ばし、転び、ぶつかり、混乱を増やしながら出口に皆が殺到する。
「俺たちも逃げるぞ、徳井!」
「古寺くん!」一緒に立ち上がりながら言う。「僕は自分の判断を褒めてあげたい!」
「なんでだ」
「東森さんに書類仕事を押し付けて、ここへ来させなくて本当に良かった!」
古寺くんは呆れた顔をしながら僕を引きずっていった。
体育館の外へ脱出したあとも、おそろしさのあまり、さらに遠くへ逃げ出す人が多かった。
そうでない人たちも、いつでも逃げられるよう体育館を遠巻きにしている。
体育館の中からは、なにかが壊れる音、落ちる音、割れる音、黒板を引っ搔いた時のような耳障りな金属音などが、派手に鳴り響いていた。
放送機器はまだ無事らしく、スピーカーを通して中の物音は逐一外にも伝わっていた。朝野さんの絶叫、橋口さんの恐ろしい笑い声、そして若山先輩の実況が。
『こちらは実況席であります。橋口は今、この実況席に向かって進んでまいりました。もう退避する時間もありません。私の命もどうなるか。ますます近づいてまいりました、いよいよ最期です。超電磁結界が解放されました、もの凄い威力です! いよいよ最期、さよなら皆さん、さような』
あああーっ!! という断末魔を最後に、放送は途切れ、体育館はしぼんだ風船のように崩壊していった。
●
この一件からしばらくの間、橋口さんは「絶対に怒らせてはならない恐怖の大魔王」として名前が轟くことになる。
体育館は再建されたものの、亡きプロレス同好会のリングは誰も使う予定がなかったので、帰ってこなかった。不燃物の日に回収されるまで、そのわずかに残った残骸が、魔女の怒りの凄まじさを物語っていたそうな。
「普段温厚な人ほど怒らせると怖い」という教訓を嫌というほど刻み込まれたこの件で、唯一利益を出したのは、最後まで残って実況者としての意地を見せた若山先輩くらいだろう。病院から帰って来るのに一週間かかったけれど。
それからというもの、橋口さんは良くも悪くも魔女として周りに認知され、やがて恐怖心が皆から去っていってからも、余計なちょっかいを受けなくなったという。
ただ一人を除いて。
「橋口ぃー!」
ズッ、パァーン。と教室の扉を叩きつけるように開いて、やたらと元気で小柄な女子生徒が現れた。
「私と勝負しろ!」
橋口さんはため息をついて、そばにいた東森さんに向かって言った。
「ともり、急にお昼ごはんが食べたくなったんだが、これからどうだい」
「彩ちゃん、今食べ終わったよね……?」
「じゃあデザートでいいから」
「こらぁー!」
ギャーギャー騒ぐ朝野さんたちを見ながら、教室にいた僕らは「懲りないなぁ……」という顔をする。
「橋口につっこんでいけるのは、あいつだけだな」
誰かがそんなことを呟いた。
そんなわけで、魔女の橋口さんと、ただ一人それに臆することなく挑み続ける、超能力者の朝野さんは、僕らの学年のツートップと見なされるようになったのだ。
超能力のこと おわり
ぼくらともども 大滝 龍司 @OtakiRyuji
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