第3話 冒険
廊下を進んでいくと、少し広めの場所に出た。壁も天井も真っ白だが、つやつやした船の外観の白とは異なり、マットな質感だ。
そこにはゲートが横一列に並んでおり、一人一人そのゲートを通過する時に、ゲート脇の機械から一本だけ飛び出している筒を覗き込んでいる様子だ。
網膜認証によるID提示だ。IDは、七海連合によって全ての人に割り当てられている。
ID提示の方法は、必ずしも網膜パターンに限られている訳ではない。カードやナンバーなど、伝統的な方法もあれば、静脈認証や脳波認証なんてほとんどの人が聞いただけで、実際はやった経験のないであろうものもある。むしろ、一般的には伝統的な方が多く使われていると言ってもいい。網膜パターン認証やそれ以外の後者のような方法は、高度なセキュリティを必要とする手続きに用いられている。例えば、婚姻届や船籍登録届などだ。
そもそも、伝統的なID提示法が多く使用されるのは、単にその為の設備投資が比較的掛からないからだ。ATLASの場合、網膜認証は乗船許可を与えるめだけに使用されている。こういったケースは、極めて珍しい。さすがに、七海連合がバックアップをして建造されただけはある。けれども、裏でその情報がどう扱われているのか、わかったものではないのだが。
あれこれ考えているうちに、ゲート一つ一つには、ちょっとした列ができるようになっていた。
私は、端の方にある一番短い列に並んだ。
ずっと前では、子供連れの買い物客がいた。どうやら、出生届以来初の網膜ID提示のようで、三、四歳くらいのその男の子ははしゃぎ回っていた。
その光景を見て、かつての自分を思い出しながら、自然と口元を緩ませていた。
やがて、自分自身がゲートを通過する順番がやって来た。
指示に従って、右目で認証機器から出る筒を覗き込んだ。ゲートは小気味好い電子音と共に開かれた事に、当然の事ながらもささやかな感動を覚えた。
思い返せば、網膜認証を行ったのは、今のスクールに入学する時以来だ。厳正な身分証明の為だった。当時は確か、十一歳だった筈だ。初等教育を終わったすぐ後だった事が記憶の目印となっている。
思い出に浸っているところ、不意に咳払いが聞こえ、私は現在に戻ってきた。そして、そそくさとゲートをくぐった。
ゲートの向こうはエスカレーターになっていて、そのまま第一フロアまで迫り上げられた。
真新しく光り輝く船内。新造船を思わせる、塗料やら建材やらの放つ独特の匂いが漂っていた。
私はジーンズのポケットから小さなメモ用紙を取り出し、見た。
そこには、ここで買わなければいけないものが列挙してあった。お茶の葉、お茶請けのお菓子類、その他の食料品、電灯の替え。
壁の案内板に目を向けるとこの階層の模式図、店舗の位置や名前が記されていたが、どの店名がどんなものを売っているのかわからないような場合も多い。
取り敢えず、小さいものから買っていこうと、お茶の葉を売っている店を探す事にした。
私は、案内図の中にTEAという文字を見つけたので、おそらくそこだろうと見当を付け、歩き出した。
到着したのは、お茶の葉のみを取り扱う専門店だった。小さなスペースに所狭しと茶葉が並べられている。さすがに専門店だと感心しつつ、私は入店した。
途端にむせ返る程の強い香りが鼻腔の奥を刺激し、刹那の間、心地よい眩惑の時が訪れた。
ハッと我に返り、私は店員の姿を確認した。骨の抜かれた間抜けな顔を見られていないかと。幸い唯一の店員は、品出しの作業に追われているらしく、私の来店にも気付いていないようだ。
私は安堵し、改めて商品に目を向けた。棚に並ぶものの中には、聞いたことさえない種類の葉っぱもあった。
私は興味を引かれ、ちょっと冒険してみようかと、そう思った。私の考える冒険とは、普段は買わないような珍しい種類の茶葉を、今回は選んでみようと、そういう事だ。
茶葉は一つ一つ真空パックに入っていたが、幸いな事にサンプルが少量ディスプレイされていたので、気になる茶葉の香りを愉しめた。
「黄山……毛峰……茶?」
「碧螺……茶……」
「ハイビスカス。え? 花じゃないの?」
そうやって、いくつかの茶葉を手当り次第に香ってみたその中から、気に入ったものを選び出し、買ってみたところ、結局いつもの緑茶となってしまった。
店を出て、溜め息を一つ。
「やっぱり、いつものが落ち着くんだなぁ」
と、冒険のできない自分に対して、もう一つの溜め息を吐いた。
その後は、問題なく食料品店も見つけ出し、残すは電灯の替えとなった。しかし、なかなか発見するに至らなかった。
その上、闇雲にだだっ広い船内を歩き回っていた所為で、自分が今何フロアのどの辺りにいるのかさえわからなくなっていた事に気が付いた。
認めたくない言葉が頭をかすめた。
「いや、まだ……まだ迷ったって訳じゃないから!」
いったい誰に見栄を張っているのか。
とにかく、フロアの地図を探せば、何フロアにいるかくらいはわかるだろう。今は、灯りの替えくらい後でもいい。そう思い、歩き始めた。
しばらく歩いて、非常階段の近くで、フロアの地図を探し当てる事ができた。今は第七フロアにいるらしい。この階段を下れば、帰れるかもしれない。しかし、七階分階段を降りるのはちょっと。
私が地図を食い入るように見ている時、背後から声を掛けられた。
「重そうだね」と。
声の方に振り向くと、背の高い男が優しそうな笑みを浮かべて立っていた。
私も同学年の女性にしては長身の方だったが、それよりもさらに頭一つ高い。
何も言わずに相手を見ていると、彼は話を進めた。
「すぐそこにロッカーがあるから、これからまだ船内にいるのなら、預けたら?」
そう言われると、急に荷物に漬物石でも入っているのかと疑う程、重たく感じ始めた。確かに、そんな荷物を持って歩き回るのは辛い。
言われるまま、私はロッカーのある所へやって来た。コインロッカーだとばかり思っていたが、コインの投入口が存在していない。
「このロッカーは、ここで買った品物なら無料で使えるんだ」
「え? そうなの?」
「買った商品に電子タグが付いてるよね。その日買ったものであれば、どれでもいいんだけど。さあ」
つまり、電子タグを読み取る事により、このロッカーを使用する権利があるかどうかを判断するというシステムらしい。
私は恐るおそるマドレーヌの入った袋に付いていた電子タグを読み取らせ、開いたロッカーに荷物を入れて鍵を掛けた。
「ありがとう。随分この船に詳しいね」
そう言うと、彼は微笑しながら答えた。
「僕、この船のクルーなんだ。今日は非番だけどね」
男はブルーといった。名前の通りに青い瞳が印象的だ。
「何か探し物?」
「うん。電灯の替えを買わないとなんだけど」
「ああ、そういう家電製品のようなものは、このフロアじゃないんだよ。二つ上の第九フロア。案内するよ」
そう言ってブルーは私の前を歩き始めた。
なんだか悪いなあと思いながらも、初めての場所なのでお願いする事に決めた。
「エレベーターで行こう」
ブルーは振り返り、また微笑んだ。
彼はさすがにクルーなだけあって、この広いフロアを迷う事なく、私をエレベーターの場所まで導いた。
上行きのボタンを押してしばらく待つと、エレベーターの箱が到着し、扉が開いた。中には、既に一人が乗っていた。背が低くて鼻の高い、童話などに出てくる小人のような男だった。余りじろじろ見る訳にはいかないので確かではないが、どこかオドオドとしていて、挙動が不自然のように見えた。
二人が箱の中に進み入った時、「ヒッ」と、小男は小さな悲鳴のような声にならない声を発したような気がした。
ブルーが九のボタンを押すと、扉が閉じて箱が上へと動き出した。ブルーは気にしていないようだったが、私は箱内の隅っこでより小さくなっている男の存在が、やけに気に掛かっていた。
やがて、エレベーターは第九フロアに到着。何事もなく、エレベーターから降りる事ができた。
私は、一度だけエレベーターの方を振り返った。例の男を残し、扉が閉じるところだった。
おそらく少し経ったら、その男の存在や気に懸かった事自体、忘れてしまうだろう。
愛の歌は風の中に消え 柚田縁 @EnishiYuda
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