(2)「頼もしいな、ヴェル兄妹」
アレハンドロの街には、幾つかの広場が点在している。大小の広場と広場を繋ぐようにして、煉瓦の道が広がっているのだ。
普段はあまり使わない広場に、オセアンは足を踏み入れた。
中央にある噴水に水は流れていない。夏の間だけ水が引かれるのだ。
踊るような足取りで、晴れた空の下をオセアンは歩く。
白いヒールが道に敷かれた煉瓦を叩いて、そのたびに淡い色のスカートがひらりと舞った。その動きに気を取られて、すれ違った男たちがときおり振り向く。
周囲からの視線を気にした様子もなく、オセアンはきょとりと眼を動かした。双子の兄と同じ、乾いた大地の瞳。
頭を動かせば、ふわふわとした長い髪が揺れる。兄と似て、けれど兄とは違う海色の髪。
楽しげに綻んでいた唇を、オセアンは不意に引き結んだ。
可愛らしい顔が、はっきりと意図をもって微笑む。何かを見つけたかのように。
「見つけたっ」
広場を通り過ぎようとしていた爪先を、くるり、と方向転換する。当て所なく歩いているようだった足取りが、はっきりと目的を持つ。
オセアンが視線を定めたのは、一人の男だった。
砂色の外套を身に纏っている。人目を避けるように、首を竦めて足早に歩く。
オセアンの歩き方が変わった。
音を楽しむように煉瓦を叩いていた足が静かに滑り、同時に気配が周囲に溶け込む。すれ違う男たちの数人に一人からオセアに向けられていた視線が、完全に途切れる。
オセアの頭に浮かぶのは猫の姿だ。
静かに獲物に忍び寄る。
獲物に忍び寄って、牙を立てて、爪を立てて、捕らえる。
男がオセアンに気付いた様子はない。警戒しているようでいて無防備な男の後ろを追いかけて、オセアンが足を滑らせる。
男が路地を曲がる。ちょうど人気がなくなる道だ。
オセアンが勢いづいて踏み込もうとした、瞬間だった。
「きゃっ!」
「――と、すまん嬢ちゃん! 大丈夫か」
通りすがりの男と肩がぶつかって、オセアンは思わず声をあげた。こちらの声を聞きつけたのか、砂色の外套が振り向く。
――気付かれた。
「あんた、怪我は」
「問題ないわ! オセアこそごめんなさい、急いでて」
案じる声にそう答えながら、オセアンは素早く体勢を整えた。オセアンがあとをつけていた男は既に走り出している。
「いやだ、待ってよ!」
思わず非難の声を上げた。
同時に追いかける。男の動きは鈍かった。
ぺろり、と唇を舐める。
「そんな、ツレなくされたら――」
何回か角を曲がって、なおも走る。体力がないのだろう、後ろからでも男の走る速度があっという間に落ちていくのが判る。
男との距離はみるみる近づいた。
男がちらと振り返る。
顔が引き攣っている。
知らず、笑んだ。手を伸ばす。丁寧に整えられた、少女めいた指先。
「寂しいじゃない」
耳元で囁いて、オセアンは一息に男を引き倒した。
走った勢いのまま倒されたからだろう、盛大な音がした。男が苦しげな呻きを上げるのを聞いて、オセアンが瞬く。
「あら、いやだ」
引き倒すと同時に乗り上げていた男の上から退き、照れたように頬を染める。丁寧な仕草で乱れたスカートの裾を伸ばして、オセアンは髪を整えた。
「ごめんなさい、乱暴にしちゃった」
でも、と大して反省もしてないように、可愛らしく頬を膨らませて。
「あなたが逃げるのが悪いのよ。追いかけたくなっちゃうじゃない」
オセアンの視線の先で、男はしばらく
しばらくしてのろのろと体を起こすのに、オセアンは細い手を差し出した。
「おじさま、大丈夫? 無理しちゃダメよ」
「……オセア・ヴェル――」
差し出された手には興味を示さず、男は苦々しげに吐き捨てた。仕事で使っている名前を呼ばれたオセアンが、機嫌良く笑う。
「オセアったら、有名? 知っていてくれるなんて、嬉しいわ」
ふんっ、と座り込んだまま男は鼻を鳴らした。
「知ってるとも。情報屋のヴェル兄妹の片割れか。兄貴はどうした、留守番か?」
「オセア、やられっぱなしは嫌いなのよね」
男からの声かけをきっぱりと無視して、オセアンはそう言った。脈絡のない言葉が理解出来なかったのだろう、男が押し黙る。
垢と、皺の浮かんだ顔。
枯れ木のような指に嵌められた指輪に視線を落として、オセアンが口を開く。
「ねえおじさま、随分とお金を持っているみたいだわ」
嵌められた指輪、大きな宝石の指輪を。
反射的に、隠そうとしたのかも知れない。男が腕を引くよりも早く、ぴくりと動いた手をオセアンはヒールで踏みつけた。
「ぐっ――」
ぐりっ、と踵で踏みにじる。
「あなた、ちょっと前まで借金で首が回らないのじゃなかった? 奥さまが嘆いていらしたわよ」
悪意なんてどこにもないというような表情で、心から案じたように。
「お金が出来たら宝石を買って、若い女のひとの興味でも引きたいのかしら? あぁ、でも、ダメね」
ぐりっ、と踵で踏みにじる。
「そんなに見苦しくっちゃ、誰も相手にしてくれないわ」
男が呻いて、必死の形相でオセアンの足を引きはがそうとした。
自分の足に爪を立てようとした垢じみた手を、もう片方の足で器用に蹴り飛ばす。ひび割れた悲鳴を上げて、男が地べたに転がった。
「――触らないでよ、汚い」
高慢な王女めいて、オセアンは言い放った。
ハンカチーフを取り出して、オセアンは男の手を蹴り飛ばした靴の側面を丁寧に拭いた。ふう、と今日のケーキに悩む少女のように嘆息する。
「……あら、嫌だわ」
汚れのついた布きれを、指先でひらりと振って。
「もうこれ、使えないじゃない。気に入ってたのに」
「お、まえ――、馬鹿にするのもいい加減に――」
ようよう顔を上げた男を見下ろして、今日のドレスに悩む少女のように。
「たぶん、放って置いてもシーアや、セシルがきっとなんとかしちゃうのだろうけれど――」
初恋に悩む、いたいけな少女のように。
「オセア、やられっぱなしは嫌いなのよね」
オセアン・ヴェルトはそう言った。
さんざん男の手を踏みつけて満足したのか、ようやく踵を外して男から距離を取る。くるりと踊るように回れば、スカートがふわりと浮いた。
「だからとりあえず、おじさまに話を聞こうと思って」
探しちゃった、愛らしく頬を染めて、オセアンはそう言った。
「……何の話だ」
地面に這いつくばったまま、掠れきった声での問いかけに無邪気に首を傾げる。
「ねえおじさま、随分とお金を持っているみたいだわ。なんだか、そう、悪いことでもして稼いでいるみたい」
かつり、とヒールが煉瓦を叩く。軽やかに、楽器を鳴らすように。
「ねえおじさま、オセアのお友達、知ってる? みんな優しいのよ。オセアが困ってるって言ったら、みんな手を貸してくれるわ」
一瞬、日が陰った。雲が太陽を隠したのだ。
「ねえおじさま、」
ふわり、と。
自分が愛されていることを知っている少女の表情で。
「おじさまが人攫いのお手伝いをしている、悪いお友達のことを教えて?」
オセアン・ヴェルトは言った。
「――くぉらっ、オセア!」
「きゃあっ」
細い路地から出て早々、横合いから叱りつけられてオセアンは悲鳴を上げた。ぴょんと飛び上がって、そろそろと声をかけられた方向に体を向ける。
驚きこそしたものの、警戒した様子はない。
声から予想した通り、壁に寄りかかっている男を見つけて、オセアンはひょいと片方の眉を上げた。ざっと周りを見て、男が一人でいることを確認する。
「いやだ、セシルったら。一人で出てきちゃったの? 不便だし、危ないわ。何かあったらどうするのよ」
「年ごろの娘みたいな扱いすんじゃねえ!」
言い返されても、オセアンは不満げに頬を膨らませるだけだ。
反省した様子を見せないオセアンを薄紫の瞳で睥睨して、セシルと呼ばれた男――セシリアは盛大な溜め息を吐き出した。
オセアンよりも二回りほど年かさの男だった。女性のような名前に反して、筋肉質な体に、右足を引きずって杖をついている。
セシリアが、苛立ちを主張するようにばりばりと黒髪を掻きむしる。動じた様子もなく、オセアンは鼻を鳴らした。
「ちょっと、止めてちょうだい。フケが飛ぶわ」
「……お前、俺のこと何だと思ってんだ」
「あら、シーアと神父様と修道院のみんなと、アーメの次の次の次くらいには大好きで大切なオセアのお師匠様よ」
「…………そうか……」
げっそりとした表情で言って、セシリアは頭を抱えた。思考を切り替えるように頭を振って、咳払いする。
その姿を興味深げに見守っていたオセアンがことりと首を傾げる。
「ところでセシル、どうしてこんなところにいるの?」
「お前を回収しにきたんだよ、この馬鹿弟子! ってかシーアはどうした、シーアは!」
「まあ、相変わらず情報が早いのね。ちょっと目立ち過ぎちゃったかしら」
何でもない調子で呟いて、悪びれずに肩を竦める。
「シーアなら丘に行ったわ。きっと絵を描いてるはずよ」
「つまり、集中した兄貴に構って貰えないのが不満で、退屈しのぎに街で情報を漁ってたってわけだな」
確認というよりは単なる事実を口にするように、セシリアは言った。
どこかで見ていたかのように正確に行動を言い当てられたオセアンはしかし、セシリアの言葉が事実であることを表情には出さなかった。うふふ、と甘えた表情で笑う。
「そんなことよりセシル、オセアったらお腹がすいちゃった。パンとチーズでも買って、公園で食べましょうよ。きっと気持ちいいわ」
「お前な、俺が怒ってるの判ってるか? いくらちっとばっかし腕に覚えがあるっつってもだな、一人で危ねーことすんなっつってんだ。シーアがいりゃあまた別だけどな、おい」
聞いてるか――。説教じみてきた男の言葉を聞き流して、悪意のない表情で瞬く。
「だって、人攫いは良くないことよ。良くないことはもっと良くないことによって罰されるべきだわ。違う?」
「そりゃあ――」
呆れたような口調で、セシリアは言った。
「――まあ、そうだろうが。俺が話をつけておくから、お前はあんまりうろちょろすんじゃねえぞ」
「はーい」
彼はオセアンが出てきたばかりの路地の奥に、ちらりと視線を向けて。
「そこで転がってる男も、片づけておいてやる」
「まあ、素敵。大好きよ、セシル。お兄ちゃんみたい」
過保護な言葉にオセアンが適当な返事をして、ぱちぱちと手を叩く。
するりとした動きで男の隣に並んで、杖を持つのとは逆の腕を支えて歩き出す。大人しくオセアンに体重を預けて、セシリアも歩き出した。
「最近はきな臭い噂も流れてるってのに」
「きな臭い? 噂話がきな臭くないほうが珍しいわ」
いかにもおかしなことを聞いたように、オセアンが首を傾げて言った。当たり前の言葉に、セシリアも頷く。
「まあ、そりゃそうだけどな……。全く、いつまでも心配させやがる」
「あら、違うわ。オセアたちがあなたに心配させてあげてるのよ」
くすくすと、悪辣と自信に満ちた表情で笑う。
オセアンの表情を視界の端に認めて、セシリアが何度目かも判らない溜め息を吐き出した。
絡ませた腕にオセアンがじゃれつく。それこそ、兄に構いつけて貰う子どものような動きだった。
「オセアたちを守って怪我なんて、二度とさせないわ」
「……そりゃあ、」
ふん、とセシリアが鼻を鳴らす。
左足と、うまく動かない右足と、杖で地面を踏みしめながら。
「頼もしいな、ヴェル兄妹」
情報屋セシル・ヴェルことセシリア・ヴェルトは、名前を継いだ弟子に笑いかけてそう言った。
弓張り姫 伽藍 @garanran @garanran
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