二章

(1)そっと秘密を落とすように、ハーゼは名を呼んだ。

 ルネ・プリンセッセは極めて優秀な、ただ優秀なだけの魔女だった。



 かつて所属していた魔術師団体『母体』において、彼女は有数の魔術師であった。水と氷を従え、賢さと強さで名を知らしめた女。同時に美貌でも知られ、美しい魔女の噂は遠い国の王侯貴族まで届くほどだった。

 振るう力を思えば、なるほど平凡とは言いがたい。

 だが、彼女よりも強く、優秀な魔術師だっていない訳ではない。彼女そのものを示す美しさとて、もしかしたら匹敵する存在はいるのかも知れない。


 けれど恐らく、そんなことは関係がないのだ。彼女に相対する人間はただ一人の例外もなく彼女を畏れ、惹かれ、狂う。

 どうしようもなく、逃れようもなく。

 満ちる前の月を目にした人間が、心を浮き立たせずにはいられないように。


 ルネ・プリンセッセは、美しい女だった。

 賢く、慈悲深く、強い女だった。

 ルネ・プリンセッセは、美しい女だった。

 けれど同時に、愚かで、非情で、弱い女だった。

 まるで、一つの歪みもない姿を見せたかと思えば、欠けた姿を晒し、気まぐれに身を隠す、月のような。

 満月でもなく、かといって新月でもない。

 例えばそれは、弓張りの月のような。


 美しく、危うい女だった。そうでなければ、長年連れ添った使い魔の手を振り払って姿を消すことなどしないだろう。

 この自分、ハーゼを置き去りにするなどということは。

 考えて、彼は少しだけ笑った。苦い記憶も多い、どうしようもない主であったというのに、どうしたってハーゼの心はルネを求め続けている。

 冬の冷たい風がハーゼの頬を掠めていく。夜の中で、背後の森がざわりと鳴く。ルネと出会ったのも、ちょうど似たような夜だった。

 自然、ハーゼはルネとの出会いを思い出した。もう数え切れないほどに追憶した、平凡な、けれどどうやったって忘れようがない出会いを。



 もう百年以上前のことだ。

 当時のハーゼはハーゼという名ではないただの堕天使なりそこないで、ルネ・プリンセッセはルネ・プリンセッセという名ではないただの女だった。

 出会いは特別なものではない。夜の森を歩いていたときに、向かいから歩いてきた女がルネだったのだ。

 雲一つない空に月はなく、そのことを不思議に思ったことを覚えている。本来ならばその夜、その時間は、弓張りの月が浮かんでいるはずだったから。



 ハーゼの視界は人間よりも遥かに優れている。夜の闇の中であっても、相手の顔がはっきりと見えた。

 一目見れば二度と忘れられないだろうと思わせるほど、美しい女だった。

 ハーゼは彼女を、人間だとは思わなかった。魔性の生き物だと思ったのだ。それほど、並外れた美しさを持つ女だった。

 一つの不純物も許さないような漆黒の髪に、宝石をそのまま嵌め込んだような翡翠の瞳。完璧に整った顔立ちに、頬は薔薇を散らしたように赤い。

 非の打ちどころがない美しさに反して妙に薄汚れているのは、湯浴みをろくにしていないのだろう。貧しい人間にはよくあることだ。

 満ちた月のように、完全な美しさを持った女だった。それでいて、欠けた月のようにひとを惹きつける。

 思わず、息を飲んだ。足を止めて、正面から近づいてくる女を注視する。

 女には、こちらに気づいた様子はなかった。数メートル先もろくに見えない闇の中だったから、それも仕方ないだろう。それにしては明かりを持っていないのが気にかかる。

 女をじっと観察し、彼女が人間であることに気付いてハーゼは片方の眉を上げた。

 日がすっかりと落ちてから、もう随分と経っている。山の中を人の子が通るにはいささか物騒な時間だった。

 ハーゼは思考の端でちらとそう考えて、けれどすぐに興味を失った。

 美しさに惹かれはしたが、結局はただの人間だ。このまま彼女がどんな目に遭っても、自分は気にもとめないだろうし、今後思い出すこともないだろう。

 人間の女など、自分には関係がない。

 ハーゼとルネは森の中で、何事もなくすれ違う――はずだった。本来ならば。

 あのときあの瞬間、まだハーゼではなかった堕天使と、まだルネ・プリンセッセではなかった生き物は、何事もなくすれ違う――はずだった。

 本来ならば。

「おい、」


 すれ違う瞬間、声をかけたのは何故だろう。

 答えはいまだに出ていない。けれど陳腐な表現をするならば、それこそを運命と呼ぶのだろう。


 ハーゼは声をかけて、自分が女に声をかけたことに気づいて表情を変えないまま驚愕した。

 女にしてみれば、突然見知らぬ男に声をかけられたことになる。しかし、相手に動じた様子はなかった。

 立ち止まり、ゆるりとした仕草で振り返る。長い黒髪がさらりと揺れて、月が出ていればさぞ艶やかに光を弾いただろうと思わせた。

 見上げてくる顔に、怯えの色はない。

 堕天使の眼は、女の美しい翡翠の瞳をはっきりと認識した。透徹とした、美しく、美しく、美しい、翡翠。

 その瞳に魔術がかかっていることに、ハーゼはそこで初めて気がついた。探ってみれば夜の闇を見通す類の術で、だから明かりが必要なかったのかと納得する。

 あっさりと相手の魔術を見通せたことから、ほとんど素人同然の魔術師であることが判った。

 どちらにせよ、ハーゼの脅威ではない。きょとりとした表情の女が何も言わないのを良いことに、遠慮なく観察する。

 並んでみれば、女はハーゼより少しばかり小柄だった。ちょうどハーゼの視線と同じくらいの高さだ。肢体は薄手の地味な服で覆われて、そこから細い手足がすらりと伸びている。

 女はどこか小鳥めいた表情のまま瞬いて、ハーゼに一歩近寄った。

 逃げられることはあっても、近づいてこられるとは思っていなかった。思わず足を下げかけたハーゼの顔を、女がのぞき込む。

 静かな翡翠が、ハーゼを見上げる。美しくて、けれど何も映さない、空っぽの瞳だった。

「こんばんは、堕天使さん」

 書かれた文章を読み上げるように、女は言った。

 ハーゼはそっと息を飲んだ。下げかけた足を無意識に戻す。

「……よく判ったな」

「うん、判るよ」

 にこり、と笑う。子どものような笑顔だった。

 こんなに無防備に笑う人間は珍しかった。人間の世界は何かと物騒だから、簡単に表情を変えるのはそれこそ子どもくらいだと思っていたが。

「なんとなく、ね。そうかなって」

「いつからだ?」

「あなたを認識したときから。そもそも、こんな山の中を一人で歩く人間なんていないでしょう」

 認識したときから、と彼女は言った。ハーゼは、女を注意深く観察するまでは彼女が人間であるかを判別できなかった。

 最初はこちらに気付いていないものだと思っていたが、闇を見通していたのなら、ハーゼが女に気付いたのとほぼ同時にはハーゼを認識していたはずだ。そのときから判っていたのだとしたら。

 女の物事を見通す力は、ハーゼよりも上ということになる。

 それにしては、魔術が拙いように思えるのが気にかかった。

 不安定な力を持つ女に対して、何を問うべきかを考える。口から出たのは、無難な言葉だった。

「……そういうお前はどうなんだ。人間の女が、一人で」

 そのとき、その瞬間まで。

 ハーゼが女に声をかけたのは単なる気紛れだと自分で思っていたし、事実、気紛れで済むものだった。

 そのとき、その瞬間まで。



 ぽつり、と。

 女が反芻する。心の底から不思議そうな、何も理解していない顔で。

「――何か、問題?」

 女が問いかける。

 人間の女が夜も更けた時間に、森の奥を一人で歩いている、その危険性を十分に承知した顔で。

 何も理解していない、というわけではない。

 何もかもどうでもいい、という顔で。

「あなた、面白いことを言うね」

 ふふ、と女が笑った。ハーゼは息を飲む。


 まるで、そんな。

 自分のことなど、どうでもいいというような。


 喉が干上がるような心地がした。きっとハーゼが止めなければ、女はこのまま一人で歩き続けるだろう。

 そうして例えば、危険な目に遭ったとして。

 例えば、山賊に襲われたとして。

 例えば、魔物に襲われたとして。

 そのときですら彼女は、今と同じ表情を崩さないのだろう。


 何もかもどうでもいい、という顔を。


「――仕方ないな」

 気付けばハーゼは、そう言っていた。人間の女など、どうでもいいと思っていたはずなのに。

「近くの村まで送ってやる。お前、放っておくと野垂れ死にそうだ」

 女はといえば、何を言われたか判らないというようにきょとりと瞬いていた。

 すっと手を差し伸べれば、まじまじと見下ろしてくる。思わず嘆息した。

「女を大切にもできない人間と一緒にするな。ここでお前が死んだら寝覚めが悪い」

 強引に腕を掴んで元来た道を引き返せば――つまり、女が向かおうとしていた方向へ歩き出せば――引きずられるように後ろの女も歩き出す。彼女が転んでいないことを確認して、ハーゼは足を進めた。

 女は慌てたような様子もなく、手を引かれるまま足を進めている。ハーゼがそのまま獣の群れに女を投げ込んだとして、彼女は驚くこともないのだろう。

 奇妙に確信できてしまって、ハーゼはそのことにまた苛立った。苛立つならば、放り出してしまえばいいものを。

 けれどきっと、自分は彼女を見放せない。

 何故かなんて、理由は判らない。

「お前、」

 前を向いたまま声をかけて、何を言おうか考えていなかったことに気付いた。

 逡巡の後、再度口を開く。

「名前も知らなきゃ不便だな。――お前、名前は」

「なまえ、」

 初めて口にした、というような響きだった。それきり、ふつりと黙り込む。

 ハーゼは気にせず歩き続けた。答える気がないならそれまでだ。

 しばらく続いた沈黙で彼女が名前を考えていたのだと、知ったのは随分経ってからだが。


「――ルネ」


 ぽつり、と彼女は口にした。

 何かを噛みしめるように。

 何かを問いかけるように。

 何かを思い描くように。

 何かに恋い焦がれるように。

 彼女は、名乗った。


「ルネ。わたしの名前は、ルネ・プリンセッセだ」


「――そうか」

 足を止めて、振り返った。翡翠の瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げている。

 夜の森で出会った女が、笑う。

 ハーゼはそこで初めて、ルネ・プリンセッセを認識した。

「良い名前だ。よろしく、ルネ」

「ありがとう」

 夜の森で出会った女が、笑う。少しだけ困ったような、どうしていいか判らないというような表情で。

 今まで見た短い中で、それは一番美しい顔だった。

「ねえ、あなたは? あなたの名前を教えてよ」

「――……」

 一瞬、ハーゼは迷った。魔物にとって名前を教えることは、大きな意味を持つ。

 人間なんてろくな生き物じゃなくて、だから今まで彼が人間に名前を教えたことは一度もなかった。

 でも、けれど。

 彼女にその名を囁いたのは、ルネ・プリンセッセこそが自分の永遠になると――どこかでそう、確信していたからかも知れない。



 そして、人間にとっては気が遠くなるような年月の先で。


「―――……」


 遠い過去の記憶から醒めて、ハーゼは静かに瞼を上げた。

 懐かしい夢を、見ていた。

 出会ったとき、彼女は己の持つ力に対してろくな魔術も使えなかった。

 彼女に魔術を基礎から教えたのはハーゼだ。ハーゼの教え子であり、ハーゼの主である女。

 美しく、危うい女だった。そうでなければ、長年連れ添った使い魔の手を振り払って姿を消すことなどしないだろう。

 この自分、ハーゼを置き去りにするなどということは。


「……ルネ」

 そっと秘密を落とすように、ハーゼは名を呼んだ。

 応えるものはない。

 求めてもいない。

 人通りの絶えた道で、ハーゼは足早に一つの門の前を横切った。家と家の隙間に入り込むように、ひっそりと佇む小さな門。木製の格子の向こうは梢に塞がれて、中をのぞき見ることはできない。

 風に煽られて髪が流れる。顔の半分には、焼けただれたような痕があった。


「ルネ・プリンセッセ。――我が、主」

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