(7)「今日も君は、わたしのことを恨んでいるか?」
パン屋を辞した後、食材の買い出しを終えたアーメは門の前に立った。日はすっかりと沈み、夜空に星が瞬いている。
ふう、と吐き出した息が白く凍る。ティロル夫人に持たされた袋を右手に持ったまま、左手で頬を擦る。頬に触れた指先もすっかりと冷え切っている。
顔を顰めて、アーメは眼前の門を見上げた。
市の住宅街。その一角に、小さな門がある。家と家の隙間に入り込むように、ひっそりと佇む小さな門。木製の格子の向こうは梢に塞がれて、中をのぞき見ることはできない。
こういった門は、よく好奇心旺盛な子どもたちが中に入ろうとするものだ。けれど、アーメは知っている。
この門に限っては、どんな悪戯好きも盗人も入り込むことはない。
それどころか誰にも興味を持たれず、気づかれることもなく――。
人通りの多い場所なのに、ここに門があることすら、ごく一部の存在を除いて認識していないだろう。
ごく一部、つまりルネが認めた存在以外は。
とっくりと門を眺めた後、アーメはおもむろに手を伸ばした。滑らかな木が、するりとした感触を手に返してくる。
アーメが門扉を押せば、きい、といとも簡単に開く。鍵はかかっていないのだ。
僅かに開いた隙間から体を滑り込ませる。
中に入って門から手を離せば、自然と再び門が閉まった。それを確認しないまま奥に進む。
数度梢を避けて木を横切れば、そこはもうルネの空間だ。
最後の梢を払った瞬間、一気に視界が開けた。一瞬くらりと目眩に似た感覚がして、気づけば上空には真昼の空が広がっている。
明るい光の中にいきなり放り出されて、アーメは強く眼を瞑った。咄嗟に眼を手で庇う。瞼の裏が緑色に焼ける。手のひら越しの光に眼が慣れるまで、しばし立ち尽くすハメになった。
ややあって、恐る恐る眼を開ける。空に太陽はなく、ただ青空が広がっている。門の外で夜空が広がっていたのが嘘のようだ。
ルネ・プリンセッセの空間では、時間は意味をなさない。
知っていた事実だが、改めて思い知らされる気分だった。いまだにくらくらする頭を押さえて、顔を上げる。
気づけば、眼の前には小さな庭園が広がっていた。どこぞの貴族のように馬車でなければ回ることもできないというほど広大な訳ではないが、個人が所有するには十分な広さだろう。
もっとも、ルネの支配下にあるこの空間に広さなんて概念が存在するのかをアーメは知らないが。
庭園には薔薇の花が咲き乱れている。薔薇の間を縫うように幾つかの小道が走り、その中の一本が真っ直ぐに奥の家に続いていた。
小さなその建物が、アーメも住んでいるルネの家だ。
入り口のアーチを潜って小道に足を踏み入れる。春の薔薇も、秋の薔薇も、季節など知らないかのように今が盛りと咲いている。アーメが横切れば、薔薇の花が風もないのにざわざわと揺れた。
何かを言っているのかも知れないし、何も言っていないのかも知れない。あいにく、アーメには彼らの声を聞き取る力はない。
ルネには、彼ら彼女らのざわめきがどう聞こえるのだろうか。ふと考えて、アーメは笑った。それこそ、アーメには縁のない世界だった。
庭園を渡りきって、小道の最後には再びアーチが置かれている。アーチに咲いているはずの薔薇は、いまは蕾を閉じていた。
頑なな蕾を見て、アーメは眉を寄せた。花が咲いていないのは、きっとルネが眠っているからだろう。基本的に、時間にとらわれることのないルネの生活は不規則だ。
家に上がり込んで荷物をテーブルに置き、アーメは二階に上がった。
「ルネ!」
遠慮も何もなくルネの寝室の扉を開ける。ルネに対して、妙齢の女性に対する遠慮はない。
そもそもルネの姿は、アーメと出会った十年前から一つも変わっていない。彼女の年齢が幾つなのか、アーメは知らない。百を超えていると言われても驚かないかも知れない。
案の定、ルネはベッドの上で掛布に埋もれていた。嘆息して、掛布を一息に引きはがす。
抵抗するような声は無視した。ベッドの上で悪あがきのように丸くなろうとするルネを強引に上向かせる。
養い親を見下ろして、アーメはにっこりと笑った。
「おはよう、ルネ。随分な寝坊だな」
「アーメ……」
寝起きの顔で、ぼんやりと。隙だらけの表情ですら、ルネの美しさには非の打ちどころがない。
掠れた声で、ルネは小さく声を立てて笑った。
「色気がないね、アーメ。やり直し」
「夕飯は要らないんだな?」
引き攣った顔でアーメが言うと、ルネが慌てて起き上がる。
「あぁ、待って待って。起きるよ」
いきなり起き上がったためかふらりと頭を揺らしたのを支えて、枕元に置かれていた水差しとグラスを差し出した。
「ほら、飲んで。スープ作るから、その間に水浴びして来いよ。あと、ドライフルーツ貰ったから置いておく」
「うん……」
ぼんやりと頷くルネは無防備で、寝間着の裾から細い手足が投げ出されている。
簡単に手折れてしまいそうなその腕が、その気になれば容易に人の命を奪えることをアーメは知っている。その身をもって。
アーメに差し出された水を、疑う様子もなくこくりこくりと数口飲んだルネは、ふと顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、アーメ」
「もう夕方だよ。もう少しで夜になる」
「おや、そうなの?」
ついと視線を逸らして、窓の外を見やる。窓の外には雲一つない、真昼の空が広がっている。
ルネはアーメに視線を戻した。
「……そうなの?」
「そうなの! ほら、起きろ」
ルネを追い立ててベッドから追い出し、アーメは一階に戻った。
ドライフルーツの一部を皿にあけてルネがいつでも摘まめるようにしてやってから、鍋の準備をし始める。
当たり前のように行動している自分が可笑しい。自分の親を殺した女の面倒を見て、彼女のために料理を作っている。
もう十年続いているアーメの日常だ。不可思議なこれが、いつの間にかアーメの日常になった。
料理をしている間に、ざっと体を流したルネが戻ってくる。席について髪を拭く彼女の前にスープを出してやると、ルネが嬉しそうに笑った。
「ありがとう、アーメ。今日も美味しそうだね」
「どうぞ、ルネ。全く、いつまで寝てたんだ。いつも朝に起きて夜に寝る生活をしろって言ってるだろ――」
「はいはい」
小言はあっさりと聞き流される。朝起きて夜寝る生活をアーメに教えたのはルネのはずなのに、立場が逆転したのはいつだったか。
スープを飲み始めたルネからタオルを取り上げて籠に放り込む。いくらか溜まったらまとめて洗濯をしなければ。
「今日は、仕事は?」
少しばかりのアクセントをつけて問うと、ルネがひょいと肩を竦めた。
「ないよ。ついこの前働いたばかりだもの、しばらくはお休みさ。愛しいエリスに訊いてみても、めぼしい獲物はいないようだしね」
「あ、そ」
いつの間にかルネが取り出していたワインがグラスに注がれる前にボトルを取り上げて、アーメが鼻を鳴らした。放っておくと、ルネは酒ばかり口にして食事をとろうとしない。
「だったら少しは家事を手伝ってくれよ」
「寝ているのにも飽きたし、街にでも出かけようかなあ。行きつけのバーでね、最近ちょっとお気に入りの歌い手がいるんだ」
「聞いてるか?」
呆れて問いかけても、ルネに気にした様子はない。相変わらず、自由な女だった。
自由で奔放で、それで許されて当然と思っていて、そして事実それが許される女。
「――うん、出かけよう。服を見繕ってくれ」
断られるとは全く考えていない声音で、ルネはそう言った。
アーメがこめかみを揉む。
「……俺も行くよ。ルネを一人にしておくと、何をするか判らないからな」
「信用がないなあ」
くすくすと笑う。
アーメの申し出に、ルネがぱたぱたと足を動かした。彼がついて行くと言い出したことが嬉しかったのかも知れないし、何の意味もない行動かも知れない。
「ご馳走様。じゃあ、良いタイミングで呼んでくれ」
「はいはい」
スープの最後の一口を飲み干して、ルネが玄関に向かう。アーメが用意をしている間、薔薇を観に行くのだろう。
彼女の背中を見送ろうとしたアーメに、ふとルネが振り返った。
玄関の扉が半端に開けられて、その隙間から空が見えた。気づけば空は、鮮やかな橙色に切り替わっている。
空は蒼く、紅く、ルネの気分によって、もしくはルネの気分にも関係なく、不規則に色を変える。もう今さら不思議にすら思わない、これがアーメの生きる場所だ。
「そうだ、聞き忘れていた。アーメ」
「……ん?」
あぁ、きた。
その、予感の通りに。
「今日も君は、わたしのことを恨んでいるか?」
ふわり、笑う。その表情に邪気はなく、声音に悪意はない。
前触れのない、けれどいつもと変わらない質問に、アーメは頷いた。
当たり前のように、何でもないように。
ただ、ルネの望むまま。
「もちろん。当たり前だろ、ルネ」
お前は俺の、親の仇なのだから、と。
アーメの答えを聞いて自分がどんな顔をしているか、ルネは気づいているのだろうか。いつの間にか背を追い越していた、親の仇を見下ろして、そんなことを考える。
女の向こうに見える空は、気づけば夜にさしかかろうとしていた。
アーメ・サバンツは知っている。
空は蒼く、紅く、ルネの気分によって、もしくはルネの気分にも関係なく、不規則に色を変える。
そしてこの庭園の頭上には、太陽も月も決して昇らないのだ。
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