(6)アーメ・サバンツには、親がいない。

 友人たちの背中を見送って、アーメはほうと嘆息した。店の扉を振り返れば、木の板に小さく、店の名前が書かれている。

《パン屋 ティロル》

 ティロル夫妻の営むこのパン屋で、アーメは週に数回、朝か昼から夕方まで働いている。数年前、働き口を探していたアーメにティロル夫人が声をかけたのがきっかけだった。

 自分が外で働いていることをルネに改めて伝えたことはないが、月に一度、彼女には幾らかの小金を渡している。遊び歩いたり、スリの類いに手を染めてお金を得ているわけではないことは察しているだろう。

 アーメが知る限り、ルネは滅多に家から出ない。自分は家に引きこもって、アーメが外で好き勝手に過ごすのを気にした様子もないルネはその実、彼がどこで働いているのかまで知っているのかも知れない。

 アーメの居場所を把握するくらい、彼女には何でもないことのはずだ。

 あの、魔女には。

「――、」

 作り物めいた、けれど決して人間には作り得ない美貌を思い浮かべる。十年前から、アーメの世界の大半はルネで構成されている。

 立ち尽くすアーメの隣を小さな子ども連れの女性が横切って、彼はふるりと身震いした。遠ざかる背中は、自分には縁のない光景だった。

 アーメ・サバンツには、親がいない。

 母の記憶は最初からない。いつからいないのか、最初からいたのかどうかすら、アーメは知らない。

 父の記憶は、ある瞬間で途切れている。

 飛び散る、赤。

 赤。

 赤。

 赤。

 そして翻る、

 黒。

 何度も何度も、何度も何度も何度も、夢の中で、回想の中で、繰り返しては赤と黒で強引に途切れる記憶。

「――……、」

 アーメは眼を瞑った。赤と黒の記憶は、ルネ・プリンセッセとの出会いの記憶でもあった。

 不思議と、ルネと出会う以前の記憶はあやふやだ。あの瞬間の記憶が強烈すぎて、他の記憶が薄れてしまったのかも知れなかった。


 あの、運命の夜から。

 ルネ・プリンセッセがアーメの父を殺した、あの夜から。


 父の顔も、声も、死の瞬間も、脳裏にこびりついてどうにも離れないのに――、アーメは何も覚えていないのだ。何一つ。

 父の顔がどんな表情を作ったのか。

 父の声がどんな言葉を紡いだのか。

 父の腕がどんな風にアーメの体を抱き上げて、父の手がどんな風にアーメの頭を撫でたのか――。

 記憶を遡れば何かが脳裏を引っ掻く。だからきっと、父との交流が断絶していたというわけではないはずだ。

 けれど実際には、アーメは父のことを何一つ思い出すことができない。

 記憶に焼きついているのは、ルネが父を切り裂く瞬間の光景。飛び散る血と、場違いに軽やかな黒。

 そして胸の奥にわだかまる、ぼんやりとした憎悪だけ――。

「……はぁ」

 大きく溜め息を吐いて、アーメは記憶を振り払うように頭を振った。

 子どもの笑い声も、親の柔らかにたしなめる声も、アーメには関わりのない世界だ。十年前にただの子どもだったアーメは親を殺されて、十七歳のアーメが今ここにいる。

 ただ親に愛されるはずだった子どものアーメは、どうやっても取り戻しようがない。

 もう、どうやったって。

 そうして親と同じように殺されるはずだったアーメは、何故か殺す側だった筈のルネに拾われて今もこうして生きている。

 理由は判らず、実感も湧かない。ルネの考えなど、アーメには推し量りようがない。

「――まぁ、良いさ」

 呟いて、アーメは随分と遠くなった親子連れから視線を逸らした。

 悲しみはない。

 喪失感も。

 最初から知らなかったものを、惜しむことはできない。

 ルネの顔を思い浮かべる。ルネ・プリンセッセ。月のように美しく、恐ろしい女。

 アーメから全てを奪い取って、アーメに全てを与えた女。


「――アーメくん?」

「!」

 馴染みのある声に名を呼ばれて、アーメは驚いて振り返った。視線の先では、中年の女性が心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「……グラスさん」

 ティロル夫人の名を呼ぶと、彼女はほうと安堵したようだった。

「ぼうっとしていたようだけれど、具合でも悪いの?」

「いえ、大丈夫です。すみません」

 買い出しを終えたグラスが戻ってきたのだ。どうやら、知らぬ間に随分と考え込んでいたらしい。

「オセアちゃんたちは来た?」

「えぇ、二時間も遅れて来ましたよ。あと、ドライフルーツをお土産にって」

「まぁ、素敵! パンの材料にしましょうね」

 予想通りの台詞に思わず笑った。そんなアーメを見て、安心した顔でグラスも微笑む。

「アーメくんも幾らか持って帰りなさい。もう終わりの時間よ、すぐに包んであげるから」

「え、……あぁ」

 咄嗟に断ろうとして、アーメの脳裏に浮かんだのは養い親の顔だった。ルネに持って帰れば、彼女の晩酌の良い肴になるだろう。

「頂きます。ありがとうございます」

「良いのよ。――それにしても、寒いわねえ」

「本当に」

 いつの間にやら風も冷たくなって、うかうかしている間に日が沈んでしまいそうだ。上機嫌で店に入るグラスを追いながら、アーメはちらと横目で空を確認する。

 片方の空が、薄らと赤らんできたところだった。

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