(5)ただ、あの美しさだけが印象に焼きついている。
大通りから一本入った通りに、とあるパン屋があった。
青い髪色をした双子の少年たちが、店の前で立ち止まる。オセアンと兄のシエルだ。
しなやかに細く、健康的に焼けた少年の手が、古ぼけたドアノブを引く。緑色のドアにつけられたベルが、カランと鳴った。
「ごきげんよう、アーメ。パンを頂けるかしら?」
軽やかで、男性とも女性ともつかない声が空間に響く。
誰もいない店内を覗き込みながら声をかけたオセアンは、そのままするりと中に入り込んだ。一歩店内に足を踏み入れれば、雑踏の喧噪が遠ざかってくぐもる。
壁に取り付けられた棚に幾らかのパンが並んでいるだけの、小さなパン屋だった。店舗の奥にはレジがあって、その向こうが調理場になっている。
人いきれの匂いが遠ざかって、代わりに焼きたてのパンの匂いが鼻を擽った。きゅう、とオセアンのお腹が小さく鳴る。後から入ってくるだろう兄には聞こえなかっただろうか。そんなことが気になった。
ベルの音を聞きつけたのだろう、店の奥から足音が近づいてくる。
「アーメ!」
無意味と判っていながら恥じらいを誤魔化すように再度呼びかければ、後ろでふっと呆れたように笑う声がする。
「そんなに急かさなくたって、パンは逃げないよ」
「シーア……」
振り返れば、オセアンに続いてシエルが店に入ってくるところだった。タイミングがタイミングなだけに、こちらの動揺を見透かされていないか心配になる。
観察するようにじいっと兄を見上げれば、不思議そうに首を傾げてくる。昼空の色の短髪が、合わせて揺れた。
幸い、弟の小さな動揺には気づかなかったらしい。オセアンは内心でほうと胸をなで下ろした。
「オセア?」
「いいえ、何でもないの」
オセアンが黙り込んだためか、シエルが問いかけるように名を呼んでくる。オセアンはふるふると首を振った。
兄の向こうの窓から見える空は兄の髪と同じに抜けるような青で、けれどうかうかとしていればあっという間に日は沈んでしまうだろう。オセアンは会話を戻した。
「パンは逃げなくっても、日はすぐに暮れてしまうわ。早く教会に戻って、お夕飯のしたくを手伝わなくちゃ」
先ほどと同様、自分の非を堂々と棚に上げてそう胸を張る。
シエルはやはり弟を責めることはせず、ただほんの少しだけ片眉を上げた。
「ナージュがいるよ」
「あら、じゃあナージュがお料理をしている間、弟たちの面倒を見ていなくちゃ。みんなナージュが大好きで、いつも邪魔をしに行ってしまうんだから」
「……確かに、そうだね」
ときに十人近い弟たちの面倒を一手に引き受けている妹の姿を思い出したのだろう、シエルは大真面目な顔で頷いた。
雑談をしている二人に、オセアンの後ろから声がかかる。双子は息の合った仕草で振り返った。
「そう思うなら道草もいい加減にしろよ」
耳慣れた声。兄弟の年下の友人であり、パン屋の従業員であるアーメだった。
黒っぽい軽装にエプロンを着けた少年に、オセアンがわざとらしく眉を上げる。
「あら、誰が道草をしたですって?」
「約束は十四時だったはずだけど? 二時間の遅刻だぜ」
「小さい男ね、誤差の範囲じゃない」
ふふん、と鼻を鳴らしてやると、アーメが苦笑して肩を竦めた。ヴェルト兄弟とアーメ・サバンツはもう十年近い付き合いで、こういったやりとりはいつものことだ。
褪せた金色の短髪に、どこか硬質で、けれど年相応の好奇心を湛えた青灰の瞳。表情はころころと変わるし、そこらにいる同年代の少年と何も変わりない。
出会った頃に比べて、アーメは随分と感情豊かになった。近頃はこのパン屋を中心に幾つかの店で掛け持ちで働いていて、昔の面影はどこにもない。
古い友人の拾い子だと神父に紹介されたとき、彼の瞳には何の感情もなく、顔には何の表情もなく、うち捨てられた人形のようだった。何となしに思い浮かんだ幻影を瞼の裏から追い払う。
「パンは出来てる?」
「もちろん。二時間も前にな」
アーメの嫌みを、オセアンは軽やかに聞き流した。シエルも特に何も言わず、ふらりと店の中を眺めている。
「おばさまとおじさまは?」
「おばさんは買い出し、おじさんは奥で仕込み中。会って行くか?」
「お邪魔しちゃ悪いし、いいわ。これ、お土産」
ふるふると首を振って荷物を差し出せば、中を覗き込んでアーメは嬉しそうな顔をした。
「ドライフルーツ! 高かっただろ」
「いいえ、いつも無理を聞いて頂いているもの。貴方が食べちゃダメよ?」
「食わねえよ! 全部パンの材料になるさ」
オセアンの言葉を笑い飛ばして、いそいそと荷物を奥にしまい込む。その様子がお菓子を貰った子どもそのままで、オセアンはこっそりと笑いを噛み殺した。
「アーメ」
ふらふらと店内を見て回っていたシエルが、呼びかけてレジ台に小さなパイを置く。
「これも一緒に」
「はいはい、ちょっと待ってな」
頷いたアーメが奥の棚を探っている間に、オセアンは兄に近寄った。
手元をひょいと覗き込む。何度か食べたことのあるパイだった。
「アップルパイ? 教会に戻ればご飯なのに」
「食べ盛りだから」
兄の言葉は主語も述語も修飾語も足りていなかったが、オセアンは正確に意味を理解した。小腹を満たすために、教会に着く前に食べてしまおうというのだろう。
思わず顔を綻ばせたオセアンに、からかうような声がかかる。
「夕飯が入らなかったら神父様が悲しむぜ」
「あら、大丈夫よ。食べ盛りだもの!」
「あ、そ」
言い出したわりには興味なさげに返したアーメが、用意した袋をレジ台に置いた。大きな袋が四つ、どれもいっぱいにパンが詰め込まれている。
「大ミサ用のパン、これで合ってるか?」
軽く広げて、袋の中身を見せられる。大ミサのために焼かれる特殊なパンだ。
アレハンドロ教会では、日に一度から数度の小ミサと、週に一度の大ミサが開かれる。このパン屋では、毎週大ミサのためのパンを焼いて貰っているのだ。
中身を軽く一瞥しただけで、オセアンは頷いた。量を減らされるような心配はしていない。
「じゃあ、アップルパイと合わせてね」
提示された金額を支払うと、兄弟は袋を引き取った。オセアンが一つ、シエルが三つ。
相変わらず無言で弟を甘やかすシエルに、アーメがひくりと唇の端を引き攣らせた。その表情を見とがめて、オセアンがわざとらしく眉を上げる。
「……なに」
「いいや、なんにも! お買い上げありがとうございました」
双子を店の外まで見送って、頭を下げる。その動きを眺めて、ほうとオセアンは嘆息した。
本人には自覚がないのだろうが、アーメは何気ない仕草が酷く美しいことがある。
数度すれ違っただけの、アーメの養い親を思い浮かべる。美しさと、美しさと、美しさでできたような女。
神父と話しているのを見かけたことはあるし、アーメから話を聞くこともある。けれど、直接話したことはない。ただ、あの美しさだけが印象に焼きついている。
見た目も、仕草も、存在も。
背筋が震えるほど美しい、女。
そこらにいる少年と変わらないアーメとは何の繋がりもなく見えるのに、ほんの時折、養い親からの影響が見え隠れする。
「……どうした?」
ぼうっとしていたのを不審に思ったのだろう、顔を上げたアーメが眉を寄せる。
「いいえ。じゃあね、アーメ」
「……おう。じゃあ」
ひら、と手を振る。隣で同じようにシエルも手を振った。
こちらに手を振り返す少年は、もうどこにでもいる子どもだ。そのことに安堵のような、残念なような思いが心に浮かぶ。
ちらりと肩越しに友人を振り返る。自分たちを見送るアーメの背中の向こうでは、少しずつ陽が傾こうとしているところだった。
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